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●「SOFTLY,AS IN A MORNING SUNRISE」
青色と言えばいいのか、青薔薇がいつの間にか真っ青なものが売られていることを先日知った。サントリーが青薔薇を開発していることは知っていた。少しは赤みがあって青紫かと思っていたのが、全くの真っ青で、これには正直真っ青になる思いだ。



●「SOFTLY,AS IN A MORNING SUNRISE」_d0053294_17522465.jpg

だが、薔薇はやっぱり赤でしょう。真っ青な薔薇はさびしくて、花束でもらっても嬉しいだろうか。人に対する想いは、血を思わせる赤でなければならない。そしてその赤に合うのが白で、これは日章旗になるか。昔、若宮テイ子さんと好きな花の話をした時、どんな花が好きかと訊かれた。数秒考えて、ほかに花が思い浮かばず、薔薇と答えた。彼女はそれが意外であったらしく、えらく陳腐なといったような表現をした。実際そのとおりだが、花と言えば薔薇が最も高貴でよい。筆者は木に咲く花が好きで、しかも大きくて白いものがよい。そういう花が咲いているのを見上げるのは何とも贅沢だ。ところが残念なことに、花束として贈ることが出来ない。手わたすならば草花だ。そういう小型の花ではいちおう木部を持つ薔薇が最高ではないかと思い、それで好きな花と質問されると薔薇と答えてしまう。品種がとても多いのがまたいい。その多さに飽き足らず、紺青色や虹色を作り出すのであるから、人間の欲は深い。薔薇には詳しくないが、何年か前にも書いたことがあるように、VIRGOという白の小型品種に一時憧れたことがある。それを自分で育てたいと思いながら、そんな庭もなく、また面倒見もよくないので夢想するのみだ。白の小さな薔薇は清楚でいいが、それだけではさびしい。そこで薔薇はやっぱり赤が主役ということになる。真っ赤な薔薇、しかも大輪のものを100本贈ることが筆者の長年の夢であった。ネットで調べると、茎が60センチほどのものになれば重さは10キロを超えるというから、自分で抱えて贈り届けることは無理ではないにしろ、前方が見えず、途中で蹴躓いて自分の顔を花びらに埋めることになってしまう。そんなアホらしい姿をまた思い浮かべたのは今月中旬のことだ。15日に右京税務署に申告に行ったことは以前書いた。天気がよく、自転車で往復した。午前中で朝日がとても気持ちよかった。夜型の筆者はいつも寝るのが深夜2時過ぎになる。それでは早朝の陽射しは拝めない。いつものように15日はそんなに早く起きなかったが、それでも筆者にすれば充分早い朝で、自転車で行くことにためらいがなかった。スーパーのトモイチを過ぎて5分ほどした頃、何の前ぶれもなく、今日取り上げる曲「朝日のようにさわやかに」のメロディが浮かんだ。頭の中でサックス、ピアノ、ギター、ベースなど、楽器の各ソロを思い浮かべ、税務署に着くまでその即興演奏が終わらなかった。もちろん筆者が想像するメロディで、誰の演奏に近いものでもない。ただし、念頭にあったのは、今日取り上げるスタン・ゲッツとケニー・バロンの共演だ。
 このCD『PEOPLE TIME』は92年に発売された。出てすぐに買った。ゲッツはこのアルバムの録音からちょうど3か月後に亡くなった。64歳だ。その死のニュースを知って最後の作となったこのアルバムを買ったのだと思う。当時ゲッツに特別の関心があったのかどうか、今となってはわからないが、以前このカテゴリーに「イパネマの娘」を取り上げた時に書いたように、ゲッツのことはそれなりに昔から気になっていた。その思いを少しずつ解きほぐす意味で、機会があるごとにCDを買っていた。これはゲッツに限らずどんな音楽家に対してもだ。筆者は10年や20年かけてゆっくりその音楽家の作品を知って行くことが多い。本作のCD2枚に収められる14曲は、全体に枯れた印象がある。それは死の間際ということを過剰に思い過ぎるからかもしれない。本曲を聴けばわかるように、力がみなぎっていて、弱弱しさはどこにもない。まさにこの曲の題名のように、朝日のようにソフトだ。朝日は強さの前兆でもあって、ゲッツのサックスは軽やかで底力を決して忘れない。ひとりの表現者が死の間際までこういう演奏が出来たことに驚く。人は死に向かってゆっくりゆっくり衰退して行くのではなく、その寸前まで元気であるということだ。ならば、死は突然で、いつやって来ても恐れるに足りない。肝臓癌であったゲッツは本作の録音の後、死までの3か月を病院で過ごしたのだろうか。そうであってほしくないが、3か月は長患いとは言えないだろう。誰でも最晩年の3か月は何もすることが出来ずに苦しむとしても、それは仕方のないこととして諦めるか。ゲッツは麻薬と酒に溺れ続けた無茶な人生を過ごした。その壮絶さの中で音楽をやっている瞬間だけは精神が解放されたに違いない。名曲は誰が演奏しても一定の感動を人に与えるかと言えばそんな単純なことではない。筆者はこのアルバムの中で本曲のみをいつも繰り返し聴く。他のミュージシャンに名演があることは知っているが、それらをつぶさに聴くまでもなく、ゲッツのこの演奏だけで充分だ。この曲を聴くと必ず涙が溢れて来る。筆者をそのようにさせる曲は少ない。その感動はメロディが持っている力でもあるが、大半はゲッツの演奏の熱意だと信じる。そしてゲッツの人生がこの演奏に凝縮されていて、そのことがひしひしと伝わることが筆者を勇気づける。ゲッツには有名なアルバムが他にたくさんあるので、最晩年のこの演奏はさして評価を受けていないかもしれない。そんなことはどうでもよく、CDではあるが、筆者が自分でこの演奏に遭遇し、愛聴するようになったことが大切だ。音楽体験はそのように個人が感動と出会わなければ何の意味もない。
●「SOFTLY,AS IN A MORNING SUNRISE」_d0053294_17534746.jpg 税務署に行く途中、春の空気の清々しさにこの曲を思い浮かべたことは本当だが、今それ以外に理由があるような気がして来た。このアルバムを買った当時のことを思い出してみる。筆者は出来事の年月、日時を覚えるのが苦手で、また本作当時の暮らしや考えを即座に思い浮かべることは出来ないが、心の底でずっと密かに流れていたことは忘れようがない。それは普段全く気にしていないのに、何かの拍子に自然に表に出て来る。ところで、筆者の名前の「甲日」は「早」につながっている。「早」は分解すると「日」と「甲」だ。「早」は「夜のとばりが破れて日光がさし始める」すなわち「朝の始まり」の意味で、「朝」の左側にも「早」が含まれている。ということは、本曲の題名は筆者向きで、筆者は朝日のように「さわやか」な人柄であることを目指さねばならない。ところが夜型と来るから不健康きわまりない。たまには早朝に起きてソフトな感情で満たされたいものだ。そんなことを思っていたので税務署に行く途中にこの曲を思い出したのではない。梅が咲き、春の色がどんどん濃くなる季節、税務署への申告が終わり、そのほかの雑事もみな今月中には片づくだろうし、また片づけなくてはならず、例年のようにどこかへ見知らぬところへ行きたくなり、一方で震災からちょうど2年、江名を訪れるのは今しかないと思い始めた。今から思えば、15日に江名行きを半ば決心し、少しずつ準備を始めた。そして行くのであれば満月の日だ。15日の時点では月末のこのカテゴリーの投稿に本曲を取り上げるつもりはなかった。28日の夜、東京で梅村さんと石原さんとの話の中でデレク・ベイリーが話題に上った。今日は彼の音楽を取り上げようかと考え、CDを引っ張り出して聴く気になったが、突如「朝日のようにさわやかに」のメロディが蘇った。これは嘘のような話だが、15日以降江名に向かう26日の夜までの間の数日、ムーギョとトモイチに買い物に行くたびに松尾橋の下でサックスの練習音を耳にした。そしてそれがこの曲であった。何という符合! ただし、夜であるから「朝日のようにさわやか」とは言えず、また演奏は冒頭のメロディのみで、上手とは言えなかった。
 本CDはジャケットも絶品だ。たぶん午後4時か5時頃の街中の光景で、手前に子どもたちがバスケット・ボールや縄跳びをして遊んでいる。その奥にスーツ姿のゲッツとバロンのふたりが小さく歩き去っている。前を歩く背の高い方が黒人のピアニストのバロンだ。老齢に達したふたりが、やや離れて静かに去って行く姿から何を読み取るかは自由だ。演奏の練習疲れを癒すためにどこかに一杯引っかけるために出かけていると思うのもよし、何も知らない若い世代に後を託すと解釈するもよし。また、そんな理屈よりも前に、影を長くする午後遅い陽射しの明るさが何よりも鮮烈だ。よくぞうまく瞬間を捉えたものだ。この写真家はジャズの即興の優れた瞬間と同じように、絶好の被写体を一瞬のうちにつかむ技術に長けている。瞬発力と言おうか、それは日頃の訓練と咄嗟の判断の賜物だ。これしかないという一瞬の把握はどんな名作にも不可欠だ。それは必ず予想を超える何かを作品に付与する。ジャズとは特にそういうことを最大に願う音楽で、即興の一音一音は次の一音とつながり、あるいは断絶しながら、瞬間という極微の時間を永遠なものとして聴き手に感得させる。この10日ほど筆者はザッパの76年の「クルージング・フォー・バーガーズ」を聴いていた。そのため、今日取り上げる曲をどれにすべきか困った。ザッパはこのカテゴリーには取り上げないと決めているからだ。「クルージング・フォー・バーガーズ」を気に入って繰り返し聴いていたのは、その圧倒的な迫力だ。当時ザッパは30代半ばの若さでそれは当然だ。それを60過ぎの筆者が大音量で聴くのであるから、近所の人たちはちょっといかれていると思っているだろう。年齢相応の音楽があるかとなれば、あるとも言えるし、そうでないとも言える。ジャズなどはワイン・グラス片手におっさんが聴くものというセリフが昔の邦画にあったらしい。それは事実でもあるし、そうでもない。聴き手が自由に判断すればいいだけのことで、ジャズを聴くのにワインが欠かせないことは全くない。おっさんが若者から見れば滑稽なことはわかるが、その笑う若者も確実にいつか笑われるから愉快だ。いや、そういう若者こそ老いる前に笑われるだろう。
 それはさておき、15日に思い出したこの曲が、ここに取り上げることで筆者の中で新たな意味を付加されることに面白みを感じている。このカテゴリーに取り上げる曲は、もう二度と聴くことはないという意味合いが大きい。つまり、死に水を取るような気持ちで書いている。この曲もそうかと今自問すると、そうではないことに気づく。そこが生きていることの面白さだ。予定どおりに行かないし、それがまたよい。忘れようと思っていたことが新たな形で生き始める。それはそれでいいのではないか。死ぬ寸前まで生きているのであって、それは若い頃と少しも変わらない。いくら老人になろうが、瑞々しさを保つことは出来る。その例がスタン・ゲッツであり、この曲の演奏だ。夕暮れに日が沈むのはさびしい光景だが、必ず朝日が昇る。するとまた活力がみなぎって来る。江名のMさん宅での一夜、Mさんと話が弾んで深夜11時半近くなった。いつもならもっと早く寝るMさんだが、筆者はつき合ってもらった。筆者がどれほど愚痴を言わず、自慢話をしなかったかについては自信がない。たまに手紙やはがきでそれなりの近況は伝えているから、Mさんにすれば初めて聴く話は少なかったかもしれない。それでも顔を見ながら間近で話すことはまた違う。満月の写真を撮った翌日、筆者は朝5時に目覚めた。不思議なことだ。夜行バスでほとんど眠らず、睡眠不足がはなはだしいはずなのに、数時間の眠りで充分であった。本当は江名の朝日の写真を撮ることがひとつの夢でもあった。そのことをMさんに言わなかったが、Mさんの方から日の出の話を切り出し、自宅からは残念ながら山影に隠れて日の出は見えないと言った。それを拝むには港まで下りねばならないだろう。5時起きならばその写真が撮れたと思うが、そのことよりも江名を後にする支度やMさんとの話に時間を費やさねばならない。8時少し前のバスに乗るまでまた話し込み、いよいよ別れの時となってMさんは言った。「大山さんともこれが今生の別れですかね。」 今生の言葉から紺青を思い浮かべたと言えば嘘だが、Mさんの言葉には紺青色のさびしさがどこかこもっていた。筆者と会ったのは四半世紀ぶり、二度目のことで、Mさんは高齢を自覚しているのだ。どぎまぎしながら、筆者は努めてさわやかさを装い、東京に出ることがあればまたと応えた。外に出ると、朝日ははっきりと見えないものの、昨日とは違って天気はよさそうであった。薔薇の香のみつる部屋での笑い声。それを思い出しながら、この曲を繰り返し聴いている。
●「SOFTLY,AS IN A MORNING SUNRISE」_d0053294_175449.jpg

by uuuzen | 2013-03-31 17:54 | ●思い出の曲、重いでっ♪
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