陣取る座席はいつも最前線ではないが、松尾橋から始発の市バスに乗る場合、必ず一番前の運転手の斜め背後に座る。そこは座席が高くなっていて、降りる場合に少し不便だが、前方の見晴らしがよい。
これを好むのは電車でもわかるようにだいたい幼い子どもで、筆者にその気味があるのかもしれない。本当のところは下車する際に人をかき分けて前に進む苦痛を回避するためで、下車でもたつくのがいやだ。それもあって昨日書いたようにJRいわき駅前から江名に向かうバスに乗った時、小銭入れに入っている硬貨が5円足りないことを知って、札を両替するのに運転手に訊くなどの手間を省くために700円の料金で済む合磯で降りた。ところが今そのバスの時刻表を確認すると、いわきから江名まで740円ではなく、720円であることがわかった。バス停3つ分の距離で20円の計算で、これは安い。ともかく、江名まで乗れる小銭を持っていたのに、合磯で降りてしまった。合磯で降りたのは江名がすぐ近くであることと、砂浜のある海水浴場であることを知っていたからだ。バス通り沿いの歩道を歩きながら、左手にその砂浜が少し見えたりした。距離にして100メートルほどか。細い道を降りて行けばそこに辿り着けそうであったが、人気がまるでなく、また両手に荷物、それに雨でもあって、見知らぬ家の間を縫って渚まで降りるのは何となく億劫であった。合磯は津波がどこまで上がって来たのだろう。民家は建っているものの、全体に人気がなく、人が住んでいない家が多いかもしれない。ま、この話は改めて書く。今回の強行軍となった旅は京都市バス、夜行バス、JR、新常磐交通バスを乗り継いで江名に着いた。鉄道は線路で、これを反対にした路線バスは決まったルートを走るので見えない線路を走ると言ってよい。夜行バスもそうだが、これが路線バスと異なるのは、窓からの景色を楽しめないことだ。バスは午後11時過ぎになると、車内を消灯し、それに運転席がカーテンで隔てられ、フロントガラスから向こうの景色も見えない。そういう閉ざされた状態でしかも座席が窮屈であるので、各駅停車であっても電車に乗るとほっとする。夜行バスはいつか走るリニア新幹線に似ているかもしれない。
今回筆者が初めて乗った格安の夜行バスはブルーライナーという。その写真を撮らなかったのは、日によって走る会社が違い、バスの形が決まっていないことと、車窓からの景色が見えないからだ。筆者は往復とも最前列から二番目の列で、しかも運転手の斜め後ろという、いつも京都の市バスで座る席とほぼ同じであった。その席であったからこそ、八王子で休憩があった時、フロントガラスの向こうにJRの駅ビルがちらりと見えた。それにしても窮屈でたまらなかったので、思い切って下車した時は清々しかった。その話はいいとして、いわきに着いた時、9番のバス乗り場はすぐにわかった。陸橋からそこに降りると、すでにバスが入っていた。出発まで10分ほどあったようだ。バスが意外にきれいで驚いた。江名のバス停は津波で破壊され、停留所の時刻表などが無残に傾いている写真はネットで見ることが出来る。それらを新しいものに交換するのに費用がかかったから、バスを新車にする余裕はなかったように思うが、国からの多少の援助があったのだろうか。いわき駅前のバス乗り場は駅舎と同じように新しい。どこかにもう少し昭和レトロの面影があるかもと思ったが、ほとんど阪急桂駅前かそれより近代的だ。ともかく、乗り場に入っていたバスの写真だけ撮り、2時間後に始発に乗ることにした。水戸では偕楽園に行って同様の時間を潰したが、いわきで最も行きたい場所は市美術館であった。これには思い出があって、一度は訪れておくべきと決めていた。その夢がようやくかなった。この美術館についても改めて書く。さて、江名行きのバスは予定より1本早いものに乗った。雨ですっかり紙袋が濡れてしまい、中の土産が落ちそうになって胸に抱えて歩いていたので、その次のバスに乗る気力が失せてしまったのだ。いわき駅に着いた時には9番乗り場に直行出来たのに、美術館を見た後、駅前に戻ると違う乗り場に下りてしまった。慌てて陸橋に駆け上り、右手下の9番乗り場にバスがすでに入っていることを見て写真を撮った。それを今日はこの段落の初めに載せる。最前列のいつもの好みの席に着くことが出来たが、濡れたコートを拭いたり、手荷物の整理で場所を取るので、最後尾にひとりで座った。その時、後ろの窓から撮ったのが下の写真だ。10人ほどの客はやがて3人ほどになり、合磯の近くで運転手の背後近い席に移動した。そして合磯で下車したが、この話もまたいずれ別の写真とともに改める。
新常磐交通バスのいわき駅前から江名に向かうバスは、JRの泉駅に向かう。時計回りにバスは進み、いわき駅は10時の位置、江名は4時、泉は7時の位置にある。往復とも同じルートを辿るのは好みではないので、帰りは江名から泉に出ることにした。バスの時刻表を見るとその方がJRへの乗り継ぎにはるかにつごうがよいこともわかった。いわきから江名と、江名から泉に向かう道筋を比べると、前者は津波の影響がかなり見られ、また畑が広がる平原を走るのに対し、後者はちょっとした町並みの連続で、人口がはるかに多いようだ。それに地震の影響は少ないように思えたが、実際はどうなのだろう。江名から泉に向かう道の前半は、見晴しのよい海岸べりを走る。そのことは震災以降YOUTUBEで2,3の映像を見てよく知っていた。映像どおりの景色が眼前に展開したのは楽しかった。断っておくと、江名から泉に向かう際、最前列の向かって左つまり運転手の斜め後ろに陣取った。最初に撮ったのは、江名港を過ぎて500メートルほどだろうか、最初のトンネルに入る直前で、これを今日は最後に載せる。江名は山に囲まれた土地で、あちこちに短いトンネルがある。バスが走る海沿いの道は江戸時代以前からあるはずで、戦後の高度成長期に数百メートル山手に県道が走り、そこでもいくつもトンネルが掘られた。その県道沿いに今は新興の住宅地があちこち出来ている。内陸の山手なので津波の心配はない。そのため、100年後は江名の海沿いの昔からのバス道は廃れ、県道が表側のようになるかもしれない。そのきっかけを2年前の津波が作ったと言われるはずで、それは江名が漁港として機能しなくなったことが最大の決定的な原因ともされるだろう。だが、江名から漁業を取れば、後にそんな産業が残るのだろう。産業は人が集まれば何とかなるとも言えるが、その人集めにふさわしいことと言えば、ゴルフか釣り程度であって、これも放射能の影響で今までどおりには行かない。かといって芸術家村でも作るかとなると、そのきっかけがどう生まれるかだ。江名もまた少子高齢化が極端に進行し、道行く人は少なく、コンビニや売店がなく、ちょっとした食べ物を買うことも出来ない。田舎はどこでも完全な車社会になっている。そのため、筆者のような運転免許のない者は住めない。