拡大して細部を見ようとするのが美術鑑賞のひとつの傾向になって来ている。デジタル時代以前にもそういう試みは画集で行なわれていた。
70年代だったと思うが、「モナ・リザ」やブリューゲルの「イカロスの墜落」など、名画中の名画を4点ほど選んで1冊ずつに細部の拡大図ばかりを載せた画集があった。近年では若冲の「動植綵絵」の30幅の細部ばかりを収めた画集がある。名画の隅から隅まで知りたいと思うのは美術ファンの願いでもあるし、細部から名画のゆえんを再確認する向きもある。名画はぱっと見の印象で記憶していて、隅々まで知らない場合が多い。名画ですらそうであるから、玄人向きの絵となるとさらにそうで、細部の集積から全体が成立しているにもかかわらず、その細部をよく知らない。細部の構成が全体とはあながち言い切れないところがあって、全体は細部の集積以上の何かがある。各細部を統合する、細部とは言えない法則を画家は発揮するもので、それが独自のものであるという自信があるからこそ、工房を抱えて弟子に部分を担当させる。多くの部分に弟子の手が入っても、全体をまとめる師匠の手腕がある限り、それは弟子が描いた凡庸な作とはならない。こう考えると、細部をいくら拡大して鑑賞することが出来ても、あまり意味がないことになる。それ細部を拡大するにしても、画面は横長の長方形で、その範囲に入ってほしくない箇所が映り込む。それは小さな問題としても、細部を統合する全体を見わたした構図は細部拡大を可能にした本展のタッチパネルがなくても従来の縮小図版でも充分であり、デジタル撮影によって微細な部分が明瞭に見えるようになったとしても、それによって今まで名画から受けて来たアウラの質が変わることはないだろう。便利なのは、研究者だ。あるいは画家で、名画の技術的なことがよりわかりやすくなった。もっとも、西洋画では下地が塗られるから、それは表面だけを精細に撮影してもわからないから、拡大図版が役立つのは主に日本画など東洋の絵画だろう。
大型のタッチパネルは昨日書いたようにまさにスマートフォンの大型で、操作も同じだ。この機器に記憶させている名画データはどれほど巨大であるのかは知らないが、数年は無理としても、10数年も経てばこのパネルとセットになったデジタル美術全集が出版されるだろう。それに似たものはすでにあるが、名画の細部を自在に鑑賞出来、しかも大型のプリンタで印刷も自由になれば、場所を多く取る旧来の美術全集は駆逐されるかもしれない。そんな時代になって最も儲かるのは名画を所有する機関で、ウフィツィはデジタル美術出版によって研究や修復費に困ることがなくなるかもしれない。また、ルネサンス絵画や若冲の精密な絵ならばいいが、細部を拡大しても面白くない現代絵画は同様のデジタル化が遅れる、あるいはなされないかもしれず、絵画の序列化が決定的になって行くかもしれない。つまり、アップに耐える絵が名画であるという意識が優先され、また拡大した細部が完璧であるほどに名画としての評価は高まる。そういう条件に当てはまるのが本展で紹介された10点の名画だ。細部の圧倒的な描き込みは言うまでもないが、タッチパネルで自在に各部を拡大しながら遊んで気づくことがあった。それは今までも知ってはいたが、注目しなかった部分だ。そうして撮ったのが今日載せる4点の風景だ。なるべく独立した風景画として見えるように、人物の衣服などが入らないように加工したが、どの名画の背景かわかる人は少ないだろう。それほどに名画といえども細部は知らない。また、目立つ人物とは別に画家が背後の景色にも多大の注意を払っていることがわかって名画の奥深さを知る。ブリューゲルになると風景の方が大きくなってそこに人物が描き込まれるが、イタリア・ルネサンスの巨匠たちは人物を中心にし、風景は背後に小さく隠れる。そのため、背後の景色はあまり凝ったものでなくてもかまわないように思いがちだが、「モナ・リザ」からわかるように、背後の景色は人物と相まって名画の印象を決定づける。ピエロ・デラ・フランチェスカの「ウルビーノ公爵夫妻の肖像」は、向かって右の赤い帽子と衣装の公爵の背景に空と同じ色の川が見える。これは小高い山の城のバルコニーのような場所から見下ろした景色に思え、公爵という高い地位を暗示しているが、川面に浮かぶ船など、何気ないようでありながら、絵に瑞々しさを付与し、この公爵像の雰囲気を大きく規定している。
2点目の平原はボッティチェリの円形の作品「マニフィカトの聖母」の中央部背景だ。左下隅に少し天使の頭から放たれる金冠の放射が見える。この絵は円形内部に聖母マリアと幼子キリスト、そして6名の天使がせせこましく描かれる。聖母アリアを画面中央に置くならば人物だけで構成出来たが、聖母マリアを右寄りに置くので、そのすぐ左に空間が出来る。そこに奥行を示すために風景が描かれた。「モナ・リザ」のような峻厳な山水ではなく、ところどころに木立のある平原で緑豊かだ。タッチパネルの拡大画像では画集で見るより全体が白っぽく映り、また色合いも異なるように思う。これは真横に原画を置いて比較しなければ実際の色がわからない。それはともかく、ボッティチェリはこの絵の人物の衣服に赤、青、白、黄を使い、緑はこの背後の景色だけに見られる。そのことがわずかに覗く風景ではあるが、作品の印象を大きく定めている。筆者が切り取った横長の長方形には収まっていないが、下方には蛇行する空を映した川が流れ、その蛇行具合が聖母と天使の関係を密接なものにしている。3点目はラファエロの「ヒワの聖母」から取った。この絵は先日書いたように10年ほど前からの修復によって鮮やかな色を取り戻した。聖母マリアの衣服の特に青は目が覚めるようなラピス・ラズリの濁りのない青で、作品全体は以前の夕暮れの平原の表現から朝の時間帯に変わった。本展図録には修復過程を示す4点の図版が載せられ、いかに困難な作業であったかがわかる。構図は中央のマリアを頂点にする二等辺三角形で、それを画面両脇で木立が支える。その木立は中景で、遠景として山や青い丸屋根の教会などが小さく描かれる。その教会を中心に横長に切り取った。4枚目はレオナルドの「受胎告知」からで、画面のちょうど中央背後だ。たくさん尖塔が見えるが、これは中景の直立する糸杉と呼応している。また、尖塔が少し右に傾いているのはレオナルドの描き癖なのかどうか、定規を用いてしっかり垂直に描いてない分、かえって人間味があってよい。またこれらの尖塔は原画の前に立つと左右の天使とマリアに気を取られ、注視する人は少ないだろう。実寸にして高さ3センチほどであり、多少傾いても手抜きと言うほどのものではない。こうした細部は画集の図版からではよくわからなかった。ウフィツィに行ってもまず無理だろう。ネットを使ってオンラインでこうした名画の細部が自宅にいながらにして見られる状態になればと思う。最後に一昨日の最後に載せた写真の説明をしておくと、本展最後に100点ほどのウフィツィの主にルネサンス前夜の宗教画を、ボタン操作で自由に壁に選択投影させ得るプロジェクターが1台置かれていた。大半は原寸大だが、壁までの映写距離の短さもあって、数分の1の縮小もままあった。また、ノート・サイズの小さな絵もあって、似た主題でありながら、巨大からミニアチュール的なものまで、画面サイズはいろいろであったことがわかる。画集では実寸が数字で記されはするものの、その数字から実際の大きさを把握することはあまり簡単ではない。それがこうしたプロジェクターならば、実物の大きさを紹介するのに便利だ。従来のスライド映写とは違い、デジタル・データを特殊なプロジェクターを使うことによって可能となった方法で、デジタル技術の可能性は今後も広がる。