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●『ウフィツィ・ヴァーチャル・ミュージアム』その4
々しさがよいに決まっているが、干物の味わいもまた格別ということで、ひとの好みはさまざま、何が一番よいかは絶対ではない。



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これはひとりの人間が水分たっぷりの赤ん坊から成長し、やがて老人になって干からびて行くからでもある。つまり、考えは同じ人でも少しずつ変わる。変わらないと言う人もあるが、いつかは若い時のようにたくさん食べたり飲んだり出来なくなることを認めるならば、変わることは自然で、恥ずかしいことではないと言うべきだろう。ところで、何度も書くように、このブログの冒頭の一字は青色でひとまわり大きなフォントにしている。飾り文字のつもりで、同じ文字を二度使わない。ところが年月が経つにつれてまだ使っていない文字を探すことに苦労する。そこで普段めったに使わない漢字を持ち出すことになる。その文字に因んだ話から始めるのは毎回のことだが、めったに使わない文字であれば、その文字から始める話は、投稿の題名や本題として書こうとぼんやり思っている内容からかなり遠い。つまり、このブログは回を重ねるごとに、本題からかけ離れた度合いが大きい話から始めることになる。それは何となく読者は感じているだろう。いつになれば本題に入るのか、回りくどい無駄話に辟易する人も多いかもしれない。筆者にすれば、本題から遠い話題から始めて、いつの間にか本題につなぎ、しかもそれが独特で、また文章全体を見通すとそれなりにまとまっているという状態を目指すから、最初の一字を決めてさあ書き始めるぞという気分になることは、おおげさに言えば身震いに近い感情が湧く。下書きなしの即興であり、もうこれでいいかと思える分量を書き終えた時、冒頭の一字に振り回されながらも言いたいことをそれなりに述べられたと思える時は充実感がある。そうして投稿する文章はたまたまの冒頭の一字に規定されたところが大で、冒頭の一字の制約さえなければもっと言いたいことを端的にまとめられ、読者も長ったらしいものを読まずに済む。どこかに発表する論文などはそうあるべきだが、肩肘張らない日記的なものであるから、筆者は自ら課した制約を楽しみたい。どこまで自分を追い込んで、しかもさらりと言いたいことをうまく書くか。そういう一種の訓練をこのブログで毎日実行している。
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 今日の冒頭の一字「瑞」はすぐに思い浮かんだ。今日載せるレオナルド・ダ・ヴィンチの「受胎告知」はまさに瑞々しい作品で、複製を始めて見た20歳頃からその思いは変わらず、この絵を見るたびに同じ感情がいつも湧く。「この絵」というのはもちろん複製だ。だが、ウフィツィで実物に接した時も同じ感情が湧いた。それ以上でも以下でもなかった。確かに本物を前にした貫禄、風格は別物だが、絵から伝わる瑞々しい空気は同じであった。こうなると、複製でも本物のアウラは伝え得ると言うべきかもしれないが、そうではなく、複製を見過ぎて、せっかく本物から伝わる極上のアウラがわからなくなっていると言うことも出来る。だが、それは個人の思いの問題であり、他者にはわかりようがない。不幸にも最初にこの絵の複製に出会ったと言うべきか、あるいはそれが幸運であったのかは、個人が決めることだ。そして筆者は複製を先に見ていてよかったと思う。複製を見慣れると、本物に出会っても、「ああ、これか」といった軽い感動で終わってしまう場合がある。複製から本物の味わいをよく思い過ぎたことが原因であったりする。ま、その話はいいとして、最初に「瑞」を使ったのは別の理由があった。イタリア・ルネサンスは14世紀に始まり、本展で展示されたブロンツィーノの作品のようにマニエリスムに以降し、そしてカラヴァッジョのバロックにつながる。200年ほどの間に絵画の流行が目まぐるしく変わった。それは前述した、ひとりの人間が赤ん坊から老人になって行くことに似ている。だが、そう断言すると、初期ルネサンスは若くて瑞々しく、バロックは干からびた老人のような芸術と思われかねない。バロックはバロックで瑞々しいものから干からびたものまで変化があって、マニエリスムの初期は瑞々しいとして、それは干からびた後期ルネサンスと見ることも出来る。ここでまた筆者のブログを持ち出すと、冒頭の一字を選ぶのに全く困らなかった数年前は初期ルネサンスで、今はマニエリスムかバロック時代に相当するということだ。本題から遠くかけ離れたと思える文字から始め、それを強引に本題に結びつけて行くことは、言うなればきわめて技巧的で、わざとらしさがある。それがいやならば、冒頭の一字を以前使ったものでもかまわないことにすればよい。だが、一度決めたからにはとことんやり続ける。その挑戦の態度は芸術にもある。以前誰かがやったことはやらない。自分は違うことを目指すという意識の連続が、ルネサンスからマニエリスム、バロックを生んだ。
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 マニエリスムやバロックは不自然な芸術と言える。だが、芸術は人が作るもので、自然を模しながらそれにはなり得ない不自然さを本来内蔵する。それがより明確に現われたのがマニエリスムだ。マニエリスムの先駆はミケランジェロにあるが、レオナルドにもその傾向は見られる。「受胎告知」は確かに空気のざわめきが感じられる瑞々しさがあるが、筆者は初めてこの作品を知った時から、天使はそうでないのに、聖母マリアに不自然さを感じた。顔が小さ過ぎて、身体のバランスが異様に見える。それはマニエリスム絵画の一大特徴だ。そういう点で言えば、バロックのカラヴァッジョの方がはるかに自然で、絵の中に本物の人間がいるかのように錯覚する。写真のように精密で、これが人間技かと思えるほどだ。だが、絵の中の人物はみな舞台役者じみて、演技しているような不自然さがある。それに比べると、レオナルドの「受胎告知」の瑞々しさの方が圧倒的に自然に見える。これは優劣の問題ではなく、絵画の手法は無限で、そのどれに基づいても真実を表現することが出来ると言うべきだ。さて、本展を見ながら筆者がまざまざと思い出した絵がもう1点ある。ブロンツィーノの「エレオノーラ・ディ・トイドとその息子ジョヴァンニの肖像」だ。昨夜載せたウフィツィ内部の映像からわかるように、この絵の上下左右には数点の絵がかかっている。混雑する人の間から筆者はこの絵の女性と目が合ってどぎまぎした。部屋の後方に退いてもなおその目は筆者を見つめ、にらめっこについに耐えられなくなって部屋を後にした。この絵も顔が体躯に比べて小さく、マニエリスムの特徴をよく表現している。圧倒的に豪華な衣装は画家の技術誇示のための格好の装置で、ブロンツィーノはこの女性のすべてを描き出している。「モナ・リザ」のようには微笑まず、豊かな暮らしであったにもかかわらずそのさびしげな表情は、16世紀以降に流行する人生の虚しさを描く「ヴァニタス」の絵画に連なっているように思わせる。エレオノーラはこの絵の衣装を着て葬られたと言われて来て、10年ほど前に墓から遺体を掘り起こして確認が行なわれたが、別の服装であったという。この話からは、ヨーロッパ人のやることは東洋人とは違うと思わせられる。また、墓に収めるにはあまりに豪華な衣装でもったいないと思われたのだろうか。ではこの絵の衣装はその後どうなったかだが、人手にわたって100年と経たずにボロになったであろう。残ったのは絵の中においてで、ブロンツィーノの瑞々しい表現力によって、同じものが再現出来るだろう。なお、本展の解説で始めて知ったが、この絵の背景の青は、よく見ると水辺の風景で、母と子はバルコニーに座っている。よく知っていると思う絵でも、知らない部分がある。今日の4枚の写真は、各作品ごとに用意された大型のタッチ・パネルに映じられた画像を、スマートフォンのように指を開いて拡大させたうえで撮影した。
●『ウフィツィ・ヴァーチャル・ミュージアム』その4_d0053294_2355520.jpg

by uuuzen | 2013-03-25 23:55 | ●展覧会SOON評SO ON
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