鈍ってしまうのは何事においてもか。齢を重ねると物忘れがひどくなる。それは脳細胞のどこかが鈍化しているからと言えるが、物忘れを鈍化と決めつけるのはどうかという意見が赤瀬川原平の『老人力』であったように思う。
先日から何度か書いたハンマードリルのブルポイントは、相手が堅いコンクリートやモルタルであるので、数時間も使わないのに先端が磨滅する。この鈍化の程度が過ぎると新しいものと交換せねばならないから、使い古したものは何でも用済みということになる。そこで思い出すのが榊莫山がちびった毛先の筆を捨てなかったことだ。そういう筆はそれなりの使い道があると思っていたのだろう。ブルポイントに話を戻すと、ハンマードリルを買った時におまけでついていた大小2本のブルポイントは、先端の鈍化ぶりからてっきり役に立たないと思っていた。そこで新品を買って使い始めると、数時間経たずして同じように磨滅した。そしてそうなったから使い勝手が悪いかと言うとそうではない。むしろ自分の使い癖がついて使いよい。鈍化必ずしも「用をなさない」ではないのだ。ただし、「必ずしも」であって、「絶対に」とは言えない。これは先ほど家内から聞いたことだが、若い女性アナウンサーが司会をしたTV番組で、ある老女優が一、二世代若い女優と対談したと言う。家内が面白かったと言うのは、司会と世代舌の女優が老女優から罵倒気味の言葉を浴びせられたことだ。老女優が言うのは、真剣な恋愛経験をしたことのない女性にはそれがどういうものであるかわからないということだ。司会はごていねいに、真剣な恋愛というものがどういうことかを老女優に訊いた。すると、「あんた、馬鹿じゃない?」と返された。司会の女性はそれなりに美人で知的であるはずだが、男と死ぬか生きるかといった恋愛をしたことがなく、またする勇気もないのだろう。それほどに自分はエリートであると思い込み、周囲の男どもを侮っているのかもしれない。そんな女性に老女優が経験して来た恋愛を説明しても理解出来るはずがない。それをわかろうともせずに、説明を求めるのであるから馬鹿としか言いようがない。この話を家内から聞いて、秀才であっても何かが元から鈍化しているのがたまにいる、いや、よくいることを筆者は思った。
小学1年生の時、背の高い真面目そうな男が担任から委員長に任命された。おそらく入学前のテストの際に一番成績がよかったのだろう。その男子は2年生の時にも委員長になった。当時筆者はとても目立たず、おそらくクラスの中にいるかいないかわからない子であった。ところが筆者はその委員長が真面目かもしれないが馬鹿に見えて仕方がなかった。同じように人を観察する性分は今ももちろんある。これは有名高を出たとか、有名な会社に勤めているとかといったこととは関係がない。賢いと本人は思っていてもどうしようもない馬鹿はいる。それは筆者にとって大切と思える何かが決定的に欠けている場合だ。つまり、何かが元から鈍い。そういう人は案外多く、先のTV番組で言えば司会の女性だ。恋愛をしたことがないからわからないと擁護することも出来るが、いい歳をした美女が恋愛をしたことがないということ自体、馬鹿だ。あるいはそういう女性が増えているとするならば、時代が何かを決定的に鈍化させるようになっている。これは由々しき問題で、多角的かつ真剣に研究すべきだ。よく言われるように、その由々しき問題の根源にはコンピュータ時代、ネット社会がある。文字を手で書かなくなったことが最大の原因であるという人もいる。また、TVで盛んに宣伝するように幼稚園児から公文をさせ、反射神経を高める。そのコマーシャルを見ながら家内は、「幼稚園から教育が大切な時代になっているね」と言うが、筆者は「小さい頃は何もせずにぼけっとしている方が大切だ」と答える。大人になってロボットのように働かねばならないというのに、まだ数歳からさまざまなことを頭に詰め込む。そのさまざまなことはみなゴミのようにくだらない。子どもへの虐待だ。そのように虐待された子どもが社会を形成するようになると、「熱烈な恋愛とはどんなもの?」と真面目に質問する馬鹿女が増える。そして一方ではすぐに誰とでもセックスして妊娠し、結婚後数年で別れたりもする女も増える。恋愛というものが軽くなっているのだ。それと同じように、芸術的体験も質がきわめてうすくなって来たのではないか。それは本物に出会わないからではない。日本では今まで考えられなかった国宝的名画が毎年のように外国から持って来られて展覧会が開かれる。それに海外の有名美術館に行くことは、その気さえあればほぼ誰にでも可能になった。にもかかわらず、そうでなかった時代よりも人間が芸術を愛するようになったかと言えば、むしろ逆ではないかとさえ思う。
さて、本展のエントランスの説明は、ベンヤミンの有名な論からの引用で始められていた。ベンヤミンは版画という複製芸術を引き合いに出しながら、複製は感動が少なく、今後はますます複製が増える趨勢にあって、芸術的感動の質が変わると言った。本展ではその言葉を否定的に捉えず、肯定的に解釈していたが、それは当然だ。ウフィツィにある名画中の名画を最先端の撮影技術でデータ化し、視力があまりよくない人には本物と区別がつかないような精細な原寸大の複製が印刷されることを文明の勝利と謳歌し、その積極的な活用を喧伝したいと思っている。名画の前に立つことなく、名画の微細な部分が明瞭に見え、今までごく一部の人にしかわからなかったような隠された真実が明らかになることは、どう考えても複製でこそ可能な利点であろう。筆者は名画を数十倍に拡大した映像を別に見たいと思わないので、絵具のひび割れまでくっきりと見えることが名画鑑賞つまり芸術的感興とどう関係しているのかわからない。そんなひび割れに当の画家は関与していないし、予期はしても顕微鏡で見るように拡大して見てほしいとは思わなかったであろう。絵を科学的に分析することで画家や時代の特質がわかるから、昔から名画を構成する材質を調べる研究はあった。それがデジタル撮影時代になって加速化し、今では現物とほとんど変わらない複製を作るまでになった。そのことでオリジナルの価値が下がることは全くない。むしろ、高まる。ウフィツィはそう考えるからこそ、名画を超高画素で撮影し、そのデータを今後広く活用しようとしている。ベンヤミンが考えたオリジナルのアウラはそのままで、精巧な複製が氾濫するだけならばいいが、そうとも言えない事情が一方で起こって来る可能性はあるだろう。まず、精巧な複製を先に見て、あるいはそれしか見ない状態で、その原作が名画であると実感出来るかどうかだ。「モナ・リザ」の実物を見たことのない人は多いと思うが、見た筆者でもその印象は強くない。強くあるほどに絵の前に立つことが許されなかった。ところがその複製は巷に氾濫しているし、名画中の名画という定評もある。これは、子どもですら、それが本当の名画かどうかわからないままに、名画であると刷り込まれることを意味している。そして大人になって原作の前に立ち、何十人にひとりくらいは、その不思議な魅力に雷に打たれたような感動を味わうかもしれない。そうなればいいが、そうでない人はみんなが昔から名画だというのでそうかと思う程度であり、またさして興味を持つこともない。名画とはだいたいそのようなものだ。それでも名画であるのは、複製からでも伝わるその本質の片鱗だ。だが、そういうものは名画に限らずある。
となると、本展が考えるように、名画の複製であっても接しないよりはましなのかどうかだ。ベンヤミンは複製はオリジナルのようなアウラがないと言った。それは確かだ。本物に勝る複製があるはずがない。また、本物と瓜ふたつとはいえ、本展で原寸大で展示された名画はみなうすっぺらい印象が拭えなかった。ボッティチェリの「ヴィーナスの誕生」はウフィツィで見ると、光の当たり具合によって画面中ほどに水平に少しキャンヴァスを継いだ段が見える。本展の複製はそこまでの再現はなく、全体は1枚の完全に平らな紙だ。また光沢もないし、印刷のインクもどこか全体に色が鈍い。そうしたことは数十年もせずして格段に進化すると考えられるが、あらゆる角度から見てオリジナルと区別がつかない程度までに複製を作る必要があるかという問題がある。キャンヴァスの継は絵の本質とは関係のないものと言えるし、それはいわば名画にとっての欠点と呼ぶべきものだ。ところが、それは当時はそうしなければならなかった必然でもあったろうし、そこにこの名画の生々しい真実がほの見えている。それはともかく、デジタルカメラは平面を再現するのはどこまでも精緻なものが可能になったが、画布の継ぎといった立体的なものを再現することは、3Dの印刷技術に頼らねばならず、彫刻ならいざ知らず、絵画ではその思想は適用しにくい。結局のところ、オリジナルは複製には到底かなわない情報を持っていて、それらすべてを再現することは不可能ということだ。つまり、オリジナルのアウラは決定的で、複製はそれを超えることがない。ところが超えると思うのは人間の勝手で、そこに馬鹿が増殖する原因もある。本物の恋愛をしたことのない人にいくらそれを説明しても理解出来ない。それは感じるもので、説明でわかる質のものではない。名画の本質も同じことだ。感じないままに名画であると信じ込まされている人や、芸術を感じることに鈍いことを自覚しない人は多い。今日の最初と最後を除いた3枚の写真は、本展に設けられた上映室で、ウフィツィの内部が3つのコの字型に並ぶ大画面で紹介されていた。筆者が同じ部屋を見た時はとても混雑していて、また部屋はもう少し暗かった。