廃版にはなっていないだろうが、一部の内容や図版が取り代えられているだろう。12年前の3月にフィレンツェに行った時、当然ウフィツィ美術館はしっかりと見て、売店で厚い画集『Uffizi Gallery』を買った。

表紙はボッティチェリの「ヴィーナスの誕生」から、そのヴィーナスの顔だ。これは本展の図録も同じで、図録の表紙はウフィツィ側からの指定があったのだろう。『Uffizi Gallery』の裏のバーコード上には29ユーロの値札が貼ってある。日本の展覧会図録と同じような体裁で、値段も似たようなものだ。こういう本を買ってもどうせほとんど見ないのはわかっているが、何か記念になるものをと思う。さきほどほとんど10年ぶりにその画集を手元に引っ張り出した。そして京大総合博物館で紹介されていたラファエロの「ヒワの聖母」の図版を見た。すると、全体に茶褐色を帯びて古くさい。この絵は1998年から修復プロジェクトが始まった。筆者がウフィツィに行った時に見たかどうか覚えていないが、たぶん展示から外されていたのではないか。修復が完了し、ラファエロが描いた当時に姿が蘇り、おそらく『Uffizi Gallery』の同図版はその修復が完成したものに置き換えられたであろう。このように、歴史的名画も時とともに古くなるのではなく、かえって新しくなったりもするから面白い。それは名画が生きている証拠でもある。ただし、この修復はどこまで描かれた当時の姿に戻すことが可能かどうか、ケース・バイ・ケースではないだろうか。日本では仏像や寺院は年月を経た状態をよしとして、作られた当初の姿に絶えず戻すという考えはほとんど見られない。年月を経て状態が変わることは自然なことで、それを無残とは捉えず、むしろ風雪を耐え抜いたありがたさと思う。製作者が作品を完成した時点でのその姿を理想と考えるとは限らない場合があり、年月を経てどこか汚れたり欠損したりの風化した状態になってこそ真の美しさが宿ると考える立場はある。たとえば早死にした有元利夫には、そうした風化の跡を描き込んだ作品がある。実際はそういう状態になるには最低でも100年はかかるだろうが、有元は自分が死んだ後、作品がそのように朽ちてもなお美をたたえている状態を望み、生きている間にそういう作品の状態を見ることがかなわないので、自分で風化の跡を描き込んだ。その作品が100年後に本物の風化の跡をそのうえに留めれば面白いと思うが、その頃の修復家は有元の思いをどう考えるだろう。

長い年月を経過してさまざまな風化の跡を刻印しても、製作当時とは異なるそれなりの味わいを獲得するのであればよいが、これは作品の種類による。陶磁器はその影響をほとんど受けないが、染織品は色が褪せてしまう。褪色加減を予め想定して染めることはまず無理だ。したがって染織品は製作された当初が最も美しく、年月の経過で見る影がなくなる。染色に携わる筆者はそのことが悔しいが、形あるものは遅かれ早かれ姿を変えると覚悟しておきたい。それに自分が死んだ後の作品のことなどあまり考えない方がよい。ウフィツィに収まっている名画も、画家にすればそこに展示され、世界中から多くの人が毎日見に押し寄せるとは想像もしなかったはずで、死後のことに執着することはない。それよりも、生きている時にいかに自分を表現し得るかだ。ウフィツィは世界大戦争がない限り、今後数百年はまず衰えるはずがないし、そこで見られる名画は人間が生んだ名画中の名画として評価は強固であり続けるだろうが、そう思うと何だか途端に面白くなくなる。名画中の名画はあるべきで、それには文句はないが、描いた本人は世界を代表する名画になる意識はなかったかもしれず、作品の隅から隅まで充分満足していたとは限らない。ここで言いたいのは、名画中の名画は欠点がないのかという問題だ。どこまでも完璧であるから名画中の名画という評価を勝ち得たと言えるが、そのあらゆる細部までを画家が責任を持って描いたかとなると、数百年経った状態では絵具の剥離や変色など、画面の多少の劣化は生じているし、画家が墓から蘇ってその絵の前に立った時、即座に絵筆で部分を描き直し始めることはあり得る。つまり、画家にとっては不満足な点がわずかでもあるはずで、それを名画中の名画と讃えるのは絵として完璧ということとは少し違う思いがあるためのように思う。あるいは完璧の定義が違うかだ。何事も欠点をわずかに抱えているのは当然で、その欠点も含めて完璧という意識だ。言い代えれば、欠点があるからよいという思いだ。これは欠点のないものはつまらないという思いと裏腹にある。そこで連想することは、画家は完璧な人間ではなく、おそらくきわめて傲慢なところも持ち合わせていて、そういう不完全とも言える人間が人間的意味でも完璧な作品を作ることの面白さだ。つまり、ウフィツィの名画中の名画は、きわめて人間的ということだ。これはルネサンス芸術の根本でもある。

昨日掲げた写真からわかるように、本展はウフィツィの名画中の名画をわずかに選んで紹介している。ピエロ・デラ・フランチェスカ、ボッティチェリ、ミケランジェロ、ラファエロ、レオナルド・ダ・ヴィンチ、ティツィアーノ、ブロンツィーノ、カラヴァッジョで、ボッティチェリは3点で最も多い。これは日本で彼の人気が高いためではなく、ウフィツィを訪れる人ならば誰しもその絵の前に立って来た甲斐があったと満足するからだ。ところが実際にウフィツィを訪れると、あまりの多くの人のため、ひとつの絵の前に長らく陣取ることは無理だ。そこでと言うのではないが、21世紀に入って急速に進化したデジタル撮影技術を使っての精巧な複製や、画面での微細な部分の鑑賞を可能にする試みがなされて来た。本展はそのひとつの到達点ないし出発点となるもので、フィレンツェに行かずともウフィツィの代表的名画が原寸大の複製で鑑賞出来、しかも実物の細部を瞬時に拡大して画面で確認出来る仕組みが紹介された。これは数億画素の画像データあってのことで、そのデータさえあれば永遠に名画は同じ状態で再生出来るし、たとえばいずれは壁紙といった商品に画像が再現されるだろう。あるいはすでにそういう商品はあるのかもしれない。これは20年ほど前のことだが、アメリカかヨーロッパのどこかの会社がボッスの「悦楽の園」を原寸大に印刷したものを販売していた。壁紙ではなかったと思うが、それにも使えるようなものだ。当時はデジタル撮影がなかったので、画質は本物に比べて不鮮明で色もよくなったはずだが、今では実物とさして変わらないものがもっと安価で製造出来るだろう。好きな名画を自宅に原寸大で飾りたい人は少なくないはずで、そうした人に向けて今後は複製名画の新たな商品が生まれる。本展では上記の画家の作品が原寸大で印刷されて壁面に飾られた。それとは別に名画の細部を自分で画面を操作して拡大するタッチ・パネル、それにその名画がウフィツィの内部でどのような場所に展示されているかを体感させるための、3方向の連続画面を設けた暗がりの部屋があった。これは現実のウフィツィの体験とは違うが、実際にウフィツィを訪れても見ることの出来ない作品の細部情報に溢れていて、名画を全く新たな角度からつぶさに味わう機会になっていた。それは本物を前にしての体験ではないので、贋の感動になりそうだが、そのあたりのことを明日書く。