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●『ウフィツィ・ヴァーチャル・ミュージアム』その1
な手をしているので、昨日はハンマードリルを3時間ほど使って右手の皮がずるりと剥けてしまった。それで残りの作業はその傷が癒えてからとなる。ま、今日は別の話題にしよう。



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昨日書いたように、春先になるとふらりとどこかへ出かけたくなる。虫が這いだすのと同じことだ。その虫を狙ってコウモリも飛ぶ。思い出したので書いておくと、10日ほど前に隣家でコウモリを見つけた2日ほど跡、夕暮れにムーギョへ向かい時、一匹のコウモリが筆者の頭上をしきりに羽ばたいているのを見かけた。筆者が見つけたコウモリではないだろうが、早くもコウモリが飛び交う時期になったことに驚いた。筆者が隣家で発見したコウモリは、眠りを無理に醒まされたのではなく、冬眠から目覚める時期に当たっていたということだ。コウモリがせわしなく餌を求めて飛ぶのであるから、人間はもっとだ。それで筆者も何となくおろおろしてどこかへふらりと行きたくなる。そうは行ってもイタリアは遠しだ。このあまりに遠く離れた地のことを思うと、時に発狂しそうになる。たとえば、フィレンツェに行くにはパスポートの用意を初め、飛行場に行き、そして半日以上も飛行機に乗らねばならない。そのあらゆる手間と時間を考えるとぞっとする。それだけ手間をかけてようやく現地に立つのは、よほど我慢強い性格であらねばならない。思いは一瞬で現地に飛ぶのに、現地に実際に立つには相当な困難を覚悟せねばならない。その困難を思うと狂おしい。それでなるべく遠方のことは考えないようにする。ところが筆者のそうしたもどかしい遠方への思いは人間なら当然のようで、少しでも早くという交通手段が発達して来た。飛行機はその代表で、次にはリニア新幹線がいよいよルートを決める段階になっている。40年前に決めたことによれば京都は素通りする。そのため、東京から京都は80分かかる。これを京都を通るルートにすれば60分で済むと言う。60分はたとえば嵐山から梅田まで阪急電車でかかる時間であり、京都市内であれば嵐山から下鴨神社まで市バスで優にそれ以上はかかる。それを思うとリニア新幹線の速度は漫画的に速い。これは途中の景色を楽しんだり駅弁を食べるといったことは一切無視して、とにかく1秒でも早く目的地に着きたいという人間の心理の賜物だ。これはおそらく永遠になくならず、むしろより重視され、いつの日かタイムマシンのような機械を作って瞬時に目的地に立てるようになるだろう。
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 それは欲望のなせるわざで、欲望は人間にとっての最重要の性質だ。本能と言い代えてもよい。本能すなわち欲望だ。老いると欲望が減退すると言われる。たくさん食べられなくなり、また異性との交わりも若い頃のように活発ではなくなる。欲望が少ない老人が社会を牛耳っていると若者は窮屈だ。とはいえ、老人は老人ならではの欲望があろうし、時としてそれは若者のそれより大きくてやっかいかもしれない。そのことで思うのは、昔何かで読んだ老夫婦の話だ。ふたりは食通で、一流と言われる店をあちこち食べ歩くのが趣味だ。ある割烹料亭に行った時、出された魚にほんのわずかしか箸をつけなかった。たくさん食べられないことも理由だが、その魚のどこが最もおいしいかをよく心得ていて、そこだけほんの少しつまむだけで満足し、しかもその店の腕前がわかると思っていたのだ。筆者はとうていそこまでのグルメにはなれないので、何とももったいない話で、しかもその店にすれば95パーセントかそれ以上をそのままゴミとして処分するのであるから、あまりいい気ではないだろうと思ったが、店主にすれば本当の味を知っている客だと喜ぶかもしれない。若者にそういう食べ方は無理であり、あらゆるものをあらゆるところで食べて来た食通だけの贅沢だが、そういう老人が増えるのは仕方がないこととはいえ、喜ぶべきことか。昨日書いたように、大人になるとほかにない苦味を持った食材をほしがる。味覚が洗練されるのは老人になってからとして、その時にはたくさん食べられないから人間とは何と悲しいものかと思う。それで筆者が言いたいのは、老人のグルメなど無視すればよいということだ。出された魚のごく一部の部位しか箸をつけずに満足出来るのであれば、最初から板前にそう告げてその部分だけ出してもらえばいい。老人の贅沢は資源の無駄だ。そう言いながら、筆者も還暦過ぎてその仲間入りをし、そのわずかな核となる部分のみ味わえればそれで満足という気持ちは何となく理解出来るようになっている。それは時間で言えば一瞬ということだ。一瞬で何もかもわかる。老人に限らずそうだが、老化するにしたがってなおさらそうではないか。一瞬だけ満足した記憶が何年、何十年も古びない。そういう記憶を老人になるとたくさん持っている。人生はそういう一瞬の決定的な感動に時々巡り合えることに意味がある。
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 その感動は突き詰めれば人間との関係だが、そうでないものもある。自然とのかかわりだ。人間を客観視すると言えばよいか、なぜ自分は生まれてここにいるのだろうといった疑問を時に抱き、眼前の萌える草が妙に愛おしく思えたりする。そういう感情に浸っている時には他者は存在しない。他者との関係で感謝の念を思い抱くことがあるかとなれば、人によりけりだが、昔は両親や学校の先生にまず感謝しろと教えられた。それがその後は曖昧になり、親殺し、先生殺しが珍しくないニュースになり、政府はまた道徳の授業を復活しそうな気配だ。それによって師を敬う気風が増せばいいが、どうも問題はそう簡単ではない気がする。さて、前置きばかりで本題に入れないので、ここで強引に題名に絡めて書く。今日から数日取り上げるのは京大の総合博物館で先月見た展覧会だ。フィレンツェのウフィツィ美術館の名品をデジタル画像で紹介するもので、去年だったか、同じ博物館で開催された同美術館の磯崎新による玄関設計と多少関係があるのかと思わせられる。こういう展覧会は美術館で開催するのが本当はいいと思うが、それほどの展示面積を必要としないし、本物の絵画の展示ではないので美術館はふさわしくないという意見もあるだろう。問題はその後者にある。美術館は本物の絵画や彫刻を飾る場であって、それを映した画像は複製であって本物の価値とは比べるべきではないという思いが支配的で、これは今後も変わらないだろう。ところが、長い前置きに書いたように、老いて経験を重ねた人間は、さんざん一瞬の極上の出会いを経験して来ており、それに照らして本物偽物は峻別出来るし、また偽物であってもそこにそれなりの味を噛みしめるすべも知っている。この場合の偽物は複製と言い代えてもよい。たとえば、筆者はフィレンツェに実際に立つための時間や労苦にはとても耐えられないと思っている。そして、TVのフィレンツェの紹介映像からでもあたかもその場所に立ったかのような想像を逞しくすることが出来る。そして、そのことが現実のフィレンツェに立つ労苦を思うと発狂しそうになることを少しでも忘れさせてくれる。つまり、偽物が本物の代用をしてくれる。これは鮮明な映像や画像がますますあたりまえになって来た21世紀ならではの思いかもしれない。そうとすれば22、23世紀は人間はどのように感性を変化させ、現実とその映像との差を区別しているだろう。前に書いたように、筆者はこの現実がすべては夢のように思えることがしばしばある。それも老化のせいと片づけるのがいいのかもしれないが、あらゆるおいしいものを食べ尽くし、目の前に出された丸ごと魚一匹のごく一部だけ食べて満足する老夫婦も案外そのように思っていたのではないかと考える。
●『ウフィツィ・ヴァーチャル・ミュージアム』その1_d0053294_1224629.jpg

by uuuzen | 2013-03-22 23:59 | ●展覧会SOON評SO ON
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