京都の金閣寺近くに日本画家の堂本印象美術館がある。私設であったが、平成4年4月から府立となった。印象自身がデザインしたその建物は、外観の壁面に印象らしい抽象模様のレリーフがあり、その前を通る誰もが振り向かずにはおれない。

外観だけではなく、内装も同様に凝っていて、印象という画家の美意識の高かさがよくわかる。それよりも、そんな建物に自作のみを展示出来た経済力の方に、凡人としてはもっと驚いてしまうが、印象の死後しばらくは社団法人として運営されていたのが、結局維持管理が困難になったのか、建物と2000点もの絵がそっくり府に寄贈された。それを機に建物外観のレリーフは全部灰色に塗り替えられたようだが、それでも相変わらず目立っている。堂本尚郎という画家の名前はいつも堂本印象と一緒に出て来る。あまり知らない人は父とその息子かと言ったりするが、印象は尚郎の伯父に当たる。印象はどんな絵でも難なくこなす抜群の才能を持っていて、京都ならではの洗練された雰囲気に満ちた絵を描いた。昭和50年に83歳で亡くなったが、画歴が長い分、画風の変遷もはなはだしく、印象のように多作であって自在に作風を変貌させた画家は珍しい。しかし、どの時期の作風も紛れもなく印象そのもので、中だるみの時期というものがない。戦後は抽象画を手がけるが、それはどこか書から導き出された印象があり、岡本太郎の独特の書と通ずるところもある。書のような抽象画と言えば、墨の黒を強調した重い感じの作品を思い浮かべるが、印象のそれは金箔や紫、赤、緑、青といった華やかな原色を伴って、華麗と呼ぶにふさわしいものが多い。そこは戦後ほどなくした昭和28(1953)年に、半年ほどヨーロッパに滞在した経験から納得させられるが、時代の先端の空気を敏感に感じ取る能力に長けていたことは京都出身の画家の面目を伝える。ヨーロッパから帰国して1950年代半ば以降、抽象の作品は登場するが、それは具象ではあらゆることをやってしまい、抽象しかやり残した道がないと思ったことを思わせ、ヨーロッパの空気を吸っていきなり当地の新しい絵画運動などに感化されたというようにはあまり見えない。しかし、ヨーロッパ絵画をいろいろと見る間に美術がどういう方向に動いて行きつつあるかを感じ取ったのは間違いがない。その伯父のヨーロッパ行きに同行した尚郎は当時24、5歳で、伯父以上にヨーロッパの最先端の絵画については瞠目したであろうことは充分に想像がつく。
今回の展覧会の最初のコーナーは伯父と同じく日本画を描いていた当時、つまり最も初期の作品が掲げられていたが、紫や緑の階調で整えられたパリの街角の風景画はほとんど伯父そのものと言ってよい画風で、伯父の圧倒的な影響の下から出発したことがよくわかる。だが、その伯父はありとあらゆる絵画を次々とものにして行く怪物的存在で、それを乗り越えることの困難さは誰の目にも明らかだが、尚郎の心中の重圧は他人の想像を越えるほどのとてつもないものであったろう。そこで尚郎は帰国後ほどなくした1955年にパリに留学し、日本画から洋画に転向する。この決心はよほどのことであったろう。そしてすぐに尚郎はアンフォルメルの絵画を描き始めるが、それはひょっとすれば伯父の抽象画時代にかなりの影響を与えたかもしれない。尚郎の描く50年代の荒々しいアンフォルメル絵画は、当時パリで盛んであった絵画運動に殴り込みを仕かけるというよりも、むしろ印象やそれまでの日本画全体の幻を打ち壊したいという欲求の表われと思えるほどに迫力に富む。尚郎の描くそうした絵画が、東洋からやって来た若い才能の精神性のある抽象画としてパリで歓迎されたであろうことも充分に想像出来る。だが、今回、そうした作品をまとめて見ると、時代に強く則していた分、かえって古臭く見えた。破壊はあっても、その次の構成がまだ見えていないもどかしさがある。そして、そういう絵画の時代がひとりの画家において長らくは続かないこともよく伝わった。だが、面白いのはそんなアンフォルメルの時代に次の作風がちゃんと模索され、その萌芽が確実にあることだ。伯父もそうであるが、画家が作風を変えて行く時、必ず過渡期に位置するものがある。抽象画の場合はそれが特に重要だ。なぜなら、いきなり別の作風に転ずるのであれば、それは単なる思いつきでスタイルを変えただけのファッションと見られるからだ。抽象画は子どもでも描ける単純が画面をしている場合が多いが、それが本当に心に迫って来るのは、画家が内的必然を経てそれを描いたかどうかという精神性が伝わってのことだ。描くことそのものは簡単かもしれないが、その前にどれほど画家が熟考し、模索し、何か自分だけのものを発見したかといったことが大切なのだ。その点で抽象画は禅に似ている。伯父の絵画はそれに対して言えば、職人的名人芸により傾いた仕事だ。だが、それはそれで頂点に上りつめるのは大変なことで、結局具象も抽象も到達点は同じだ。
尚郎が印象のいる京都を離れてパリに住み、そこでアンフォルメルの運動に出会えたことは幸いであった。だが、尚郎はアンフォルメル運動のひとりとしてそのまま進むには異邦人であり過ぎたし、また自由人でもあって、アンフォルメルのその先を、前人未踏の抽象の領域を孤独にひたすら突き進むことを自らに課した。しかし、尚郎が自己の独自性を自問する時、浮かび上がって来るのは東洋や日本の精神性ではなかったか。生まれてすぐにパリに住んだのではなく、20代も半ば過ぎとなると、どうあがいても生まれ育った土地の風景や空気が自分の核として頑固に存在している。そして最初に学んだのが日本画であれば、それで培った画材や主題も忘れ難いものになっている。パリという異国に住んで自己のオリジナリティを表現する時、一見パリ風な作品にはなっても、根本は日本から逃れられないだろう。わざわざ日本を売り物にするというのではない。自己表現をきわめようとするほどに自然と日本的なものは出て来ざるを得ないものと言ってよい。それは伯父からの圧倒的な影響を免れることよりも、もっと強い壮絶感のようなものを強いたのではないだろうか。だが、画家にとってパリとは元々そんな土地であろう。それを思えば尚郎は日本というしがらみの多い狭い世界ではなく、もっと自由に絵画というものを考えて実行出来る土地に住むことの心地よさも味わっていたのではないか。いずれにしても伯父のいる京都にいて日本画を続けていれば、何事も伯父と比較され、そのうちに伯父のミニ・サイズの画家として終わった可能性が大きい。伯父とは違う土俵に出て、伯父が到達しなかったような抽象画の世界の追求に邁進した尚郎の画業は、巨視的に見れば戦後の日本画がどのように抽象画として発展し得うる道があったか、また微視的、つまり尚郎自身の簡潔した仕事として見れば、どのような内的必然を伴った論理的発展の跡が見受けられるかというふたつの興味をよく示している。
会場にかかげられた最初の作品は作者蔵の「双生」と題する20号ほどの横長の絵だ。図録はハード・カヴァーの豪華なものが比較的安価で売られていたが、買わなかったので、この作品が描かれた年度が正しくわからないが、たぶん1952年前後であったと思う。処女作ではないはずだが、尚郎が自己を回顧する時の最初の作として指定したことはなかなか興味深い。ほとんど墨とわずかな赤だけで描かれていて、人の片目のクローズ・アップが画題となっている。瞼の輪郭の中に描かれているのはふたりの胎児だ。これは尚郎が胎児を見つめているように見えるが、実は描かれているのは開いた瞼ではなく、女性の陰部と言う方がふさわしい。ここで面白いのはその瞼状の陰部の中にふたりの胎児が巴状になって眠っていることだ。そして赤くて細い糸が一本横方向に連なっていて、ふたりの胎児を結んでいるように見える。具象画だが、象徴性に富んだこのような作品を若い尚郎が描いていたことは、すでに伯父の画風とはほとんど関係のない自己主張をしていたことを明かすもので、伯父の影響を受けた日本画の道を進むことを早い時期から拒否していたことがよくわかる。つまり、尚郎にすれば伯父風にも描くことは出来たが、もっと別の作風をすでに持っていたのであって、それを後年に向けてどんどん開花させて行ったことは今回の展覧会で実によく示されていたが、堂本と言えば印象がただちに想起される一般的な認知において、ひとつの常識を覆す契機になったと言ってよい。ところで「双生」で描かれるふたりの胎児は何の象徴であろうか。これは簡単に言えば東洋と西洋かもしれない。日本画と洋画と言い換えてもよい。あるいは伯父がやり尽くした画業に対して、今度は自分が発展させねばならない仕事ということも出来るか。さらには、ふたりの胎児は自分と自分の画業を見つめるもうひとりの冷静な自分と言うことも可能かもしれない。いずれにしても、これから画家としてバリバリやって行こうとしている時のこの胎児は、まだ見ぬ世界に対する恐れと期待が入り交じって示されていて、尚郎のその後の長い画業の出発点に置くことは、実にドラマティックな効果を与えている。
そして、尚郎のアンフォルメル時代の終焉にこの「双生」をふと思わせる要素が立ち現われるが、そこにまた赤い糸で結ばれた尚郎の模索し続ける精神の跡が見られてスリルがある。その一例は、ひとつの画面の左右にふたつの無定型な形が描かれたもので、それはほとんど風神と雷神の比喩に見える。菅井汲もそうであったが、日本人画家がヨーロッパにわたって活動する時、意識するしないにかかわらず、日本人的アイデンティティのようなものが絵に立ち現われる。それは前述したように、ヨーロッパ人が最初からそうしたものを日本人画家に求めてその痕跡を理屈づけようとすることがあるにしても、まず孤独とも言える異国で自己を虚心に見つめると、そこに浮かび上がって来るのはどうしようもない日本人としての拭い去れない諸要素であるからだ。したがって、尚郎の先の絵を風神雷神の抽象化と見ることは、尚郎自身が否定しても間違いとは言い切れず、むしろそういうようにも見られる広くて自由な空間をその絵が保持していることを尚郎は誇るべきだろう。絵というものは画家が意識したとおりに描かれて、人にその寸法どおりに鑑賞されるものでは決してない。画家の無意識もまた描き込まれ、それが意外な方法で鑑賞者に伝達される。それこそが絵の面白さ、深さと言える。さて、「双生」が発展したとみなせる風神と雷神に見えるふたつの相並ぶ形象は、嵐雲をそのまま描いたようなアンフォルメル時代を経た次の画風において、さらに明確に強調されて居残ることになる。別々に描いた縦長のキャンヴァスをぴったりとふたつ並べて1作品としたものもこの時代にあるが、これもどこかで「双生」の発展を思わせる。また、アンフルメル時代の絵具をぶちまけたような作風は、もっと落ち着いてじっくりと絵具の質感を確認し、あたかも佐官が幅広いヘラで漆喰を壁に塗り込めたかのような厚塗りの重厚な画面の時代へと変遷するが、その時代の色調が黒と赤を基調にしていることがまた「双生」から続く尚郎の根源性を示し、着実に自分を見失わずにしかも新しい画風に至る自信が垣間見える。画面片隅に盛り上げた絵具をヘラで一気に引く作業を繰り返すことで色面の筆致を構成するそんな時代の絵に特徴的なことは、予め塗っておいた下塗り色と、その上部にヘラで一気に大量の別の色を引くことの色の対比で、画面の緊張感を作り上げている点だ。油絵具であるので、絵具をきわめてうすく使用しない限りは、下塗りの色が上塗りから透けては見えないが、絵具を塗り重ねることで水彩画のような絵具の透過効果を少しずつ模索していることがうかがえて興味深い。また、どれも同じような抽象画面に見えても、そのすべてがそれぞれの作品に対する過渡期的作品と言ってよく、ある作品には微妙に次の作品が予感されている跡がある。これはどれも同じではあるが、どれも違うということであり、どれも尚郎でありつつ、どれも尚郎の違う面を照らしていることを示す。尚郎がこの時代のそうした作品を「連続の溶解」と名づけていることはよく理解出来る。
佐官屋の仕事を思わせるヘラで大量の絵具を引く仕事の次に、円がモチーフに登場する。これは東洋で理屈づければ曼荼羅だ。伯父は仏画もよくし、曼荼羅に想を得た絵も描いたが、尚郎が宇宙的なものを志向するのは、直接的には人間が月面を歩くといった時代感覚の影響もあるが、抽象画家としてさらに根源的なものに遡るという意識の中から必然的に導き出されたものであろう。ニューヨークに拠点を移したことで、ミニマル・アートの影響もあるに違いないし、画面が一気にカラフルになって行くのは、アメリカのヒッピー文化の遅ればせながらの感化と見ることも出来る。画面からは絵具の盛り上げ状態が消滅し、円の輪郭をかっちりとロットリングで描き、それをフラットなうす塗りで埋め、しかもあちこちが重なった状態に描くことで、下になった円の色が上からわずかに透けて見える作風に移行して行く。油絵具の質感から透過感に重点が移ったようなこの時代の作品は、重厚から軽みへの移行と言えるが、油絵具と長年の格闘を続けながらのこの絵具の盛り上げから絵具の相互浸透へという移行は、絵具を自在に操ってそれを絶えず絵画の根本の重要な意味として位置づけてもいて、これは伯父があまり考える必要がなかった油絵画家としての宿命もあるが、マチエールと絵の思想との関係を常に念頭に置いている冷静さが伝わって心地よい。円のモチーフもどんどんと進展し、やがて規則正しく並べられた円の輪郭の素地のうえに、反転を繰り返す曲線輪郭を持つ色面が斜め方向に入り組んで進行することによって、水面の流動感を表現したような画風に変遷して行く。この円を利用した規則正しい曲線輪郭を持つ色面は、心斎橋筋商店街のかつての路面のタイル文様そのままだが、かっちりと固定した強固な曼荼羅構造を基礎にしたがえつつ、曼荼羅を構成する諸要素が規則正しく揺らめいているような宇宙感がある。風神雷神が入り乱れようなアンフォルメル時代の絵画からは遠い仕事のように見えるが、形を変えた風神雷神、あるいはその精神、さらには東洋文化が到達した独自の抽象世界感と感ずることも出来る。円という完結した単純な形を用いながら、どこまでヴァリエーションが可能かという、これら反転を繰り返す曲線色面を使用した作品群の微妙な変遷は、最初に最小単位のあるものを用意し、それを少しずつ変化させて多数の作品を作って行くミニマル手法と同じで、鑑賞する立場から言えば、10数年の作品を一瞬に感じ取ってしまえる点で、全体として大きな変化に乏しい大味風味に映る。これは抽象画家の宿命であり、たとえばモンドリアンの作品もそのように変化して行った。ピュアなものを感じさせはするのだが、一瞬で絵の意味が感得出来てしまい、後は記憶の中で反芻すれば充分という気にさせる。またモンドリアンとは違って、尚郎の絵はどちらかと言えばどれも巨大なサイズで、それらが少しずつわずかな変化を見せているのは、大きな会場で順に見て行くと多少退屈さと疲れを感じる。ところが、そう思わせるところで、作品がまた意外な新変化を見せているところがさすがだ。
この円相から出発した水面の波動を描いたような構成主義的作風は、紙を使用したレリーフ状の作品というかなり突飛な数点や、また赤、青、黄の原色を使用した華麗な色の氾濫、さらには反転する曲線に色面が収まらず、飛沫が隙間に散在するという偶然の要素を取り込むなど、ヴァリエーションは大変豊かで、観ていて圧倒的な生の肯定の印象が伝わって楽しい。尚郎の全画業の頂点にそれらは位置する作品と言ってよい。高齢の尚郎だが、今回の展示では最新作が最後にまとめて展示されていた。それを見る限り、さらなる変貌を遂げつつ、しかも相変わらず尚郎の内面熟視から来る新世界の表現であり、その全く保身に陥らず、絶えず攻めの方向で新しい脱皮を模索し続けていることは見事と言うほかない。ロットリングの細い線できっちりと描かれていた円相群は溶解消滅し、ついには滲み効果を利用した水面の蓮の葉と言ってよい具象とも抽象ともつかない作品に至っている。それらはモネを意識した題名であったが、モネも具象から出発してついには抽象画に至った大家だ。そのモネが日本庭園に憧れて睡蓮を連作したことに相対するように、尚郎は独自の昇華を成して、無地の白い空間である水面に、緑の染みによる蓮の葉のような形を描く。それはほとんど古き水墨画と同じ禅の境地に至ったものに見える。背後の色が透けて見えるほどに油絵具をどんどんうす塗りにして行った結果、和紙の墨が滲むのと同じ効果をキャンヴァスで表現しているが、ここに日本画家として最初に出発したことに回帰しようとしている尚郎の長い旅の輪が閉じようとしていると見ることは許されるであろう。そして、それら幽玄の境地に達したような画面のコーナーからはまた一番最初に掲げられていた「双生」にそのまま会場は右回り方向で連なっていた。白地に滲む蓮の葉の楕円と、あたかも水墨調に黒々と描かれた「双生」とを並べると、そこには双生児のように似た何かがある。ふたつの時間的距離はちょうど半世紀になるが、画家の人生の長さとしては充分であろう。そのスパンに並べられた全作品は、伯父とは全然違った方向で絵というものを真剣に模索し続けて来た、輝かしい1個の画家の宇宙観の跡が見受けられる。