そごう心斎橋本店開店記念「心斎橋物語展」-煌めくモダニズム-。これがチラシやチケットに印刷されている正式な展覧会名称だ。このたび心斎橋そごうが新しく建て変わり、そのオープニングが7日にあった。

9日に早速出かけた。大阪地下鉄御堂筋線の心斎橋駅南改札を出ると、そこは長い間そごうが閉鎖されていたのでさびれた感じがしていたが、この日は違った。いつもは心斎橋筋商店街にそのまま出るスロープを上がるが、スロープ手前左に地上に出る階段が新しく出来ていた。みんながそこを上るのでつられて出ると、百貨店の係員が大勢の客を誘導している。そのまま列に並び、間もなく百貨店の地上1階から中に入ることが出来た。入ってすぐにカルチェやブルガリ、やフェラガモといった海外のファッション・ブランド店が目白押しで、これについてはまたかと思ったが、一流店の証拠としてそうした店が百貨店の重要な位置を占めるのはもう日本では常識になっている。このそごう百貨店の目と鼻の先にある御堂筋の一等地に、ヴィトンやシャネルは自前のビルで大きく存在を主張しているから、一体日本はどうなっているのかと思う。一流ブランド品を身につけて下町の長屋から出勤する女性は珍しくないが、そうした実生活の貧しさを忘れたいために、せめて身につけるものは一流ブランド品となっているのかもわからない。だが、ブランドとわかるロゴやデザイン、色合いをしていなければ、おそらくほとんどの人は買わない。一流ブランド品を持つことによって自分まで一流と錯覚しているのだとしたら、笑いを通り越して悲しい。ま、それでもそうした品物を買うしかお金の遣い道のない金持ちが一部にいるはずで、ブランド熱に目くじら立てることでもない。百貨店に入ってすぐに正面の天井に和紙で出来た大きな羽根をかたどったオブジェがぶら下がっていた。これは中に電灯が入っているようで、ぼーっと明るく暖かく光ってシャンデリア代わりになっている。なかなか豪華でソフト、それに和の雰囲気もあって、周囲の海外ブランド店を圧しているようなたたずまいには好感が持てる。この作家の店が11階かにあった。どこで制作している人かは知らないが、女性であったと思う。和紙を使用した造形はここ数年大きなブームになって来ている。日本独自の素材のよさを見直し、それを積極的に使用するのはいいことだ。こうした百貨店の中央入口の最も目立つところに作品が飾られれば、また反響が大きいはずで、さらにいろんな和紙造形作家に出番が回って来るだろう。
心斎橋に最初に行った記憶が鮮明にあるのは中学1年生のことだ。大人に連れられて小学生の時にも行ったことがあるが、それらはあまり覚えていない。中学に入ってからは同級生とたまに出かけた。自宅から市電や市バスに乗って30分ほどの距離にあった。その当時、心斎橋筋商店街の路面は茶色やベージュ色のタイルを使用して曲線模様が描かれていた。これが面白く、心斎橋と言えばすぐにその川が流れているような曲線模様を連想したものだ。それがいつの間にか殺風景な、どの商店街にもあるようなものに変わってしまった。同じ頃からではないだろうか。心斎橋にパチンコ屋が増えたのは。そして若者が闊歩する街になった。昔はもっと大人の歩くところで、店も落ち着いた、いかにも老舗が多かった。今はけばけばしい店ばかりが自己主張し、歩いているのは10代が最も多いだろう。筆者が小学生の当時は大人が本当に大人に見えた。今、自分がその年になって思うのは、昔いたような大人がいないことだ。大人がどこかに駆逐されて、都市文化は若者だけのものになった。大人が遊べるところ、大人が気持ちよくいられる場所が繁華街からことごとくなくなったように思う。若者がわが者顔で歩くようになると、大人は時代遅れの人間であることをどことなく恥じ、遠慮がちに通りの端を行く。そんな大人を見てよけいに若者は大人を尊敬もせず、むしろ馬鹿にして、場合によってはオヤジ狩りと称して昔の山賊のように身ぐるみ剥ぐというから恐ろしい。大人はますます縮こまってしまう。なぜこんなことになってしまったか。新しいものこそよいと時代が常に言って来たからだ。それを知っている若者は、自分たちが20代半ばになることを内心びくびくしている。そんな年齢になれば十代から老人扱いされるからだ。かくして繁華街にはますます子どもがのさばる。そして、そんな子どもを金で買ってどうにかしようという情けない大人もいて、ますます殺伐とした空気が繁華街に流れる。心斎橋から南下して戎橋へ入ると、その圧倒的な人の流れと大型ネオンの看板群に圧倒されるが、大人が用もないのにひとりで歩いて楽しいところでは決してない。大人はどこへ行けばいいか。
そんなことをそごうが考えたのかどうか知らないが、新装オープンとなったそごうには大人が寛げる空間ということをコンセプトにして、店の選択や配置、その他デザイン的な面も含めて11階と12階の各店を大正ロマン風のレトロ調に設えた。それで9日に行った時もこれらふたつの階には老人の姿がとても目立った。新しいもの好きな大阪人はこういった場所があると聞くと、すぐに出かけて行く癖があるが、集まって来た老人はみなそんな感じがした。だが、それはいいことだ。前述したように、今までそのような人々は心斎橋をほとんど歩いていなかったか、歩いていても端っこで目立たぬようにしていた。心斎橋を少しでも大人が楽しめる空間にするという考えは、豊かな年金生活の老人から絞り取ろうとする店の考えもあるだろうが、それでも店内のあちこちには無料で座れるゆったりとした椅子が目立ち、何も買わなくてもしばし時間を過ごすことが出来るようにしてあった。レトロ店はほぼ全部がこの展覧会のチケットのタイトル文字にあるように、大正時代に流行したような古風な字体を用いた特製の木彫りの看板を掲げ、一瞬時代を遡ったかのように感じられる雰囲気を演出していた。その徹底ぶりには遊び感覚が溢れ、好感が持てた。11階から14階までは中央部分が吹き抜けになっていて、これも都会の中のオアシスといった雰囲気がしてよい。14階には今回の展覧会が開催されたギャラリーや、それに劇場もある。11、12階のこだわりの各店からはそれぞれが老舗としての文化の香りが伝わるが、それと相まっての14階の文化施設であり、11階から上層の階は心斎橋そごうが自信を持って提供するものであることがわかる。また、14階からはそのまま見晴らしのよい屋上に出ることが出来る。その一角には伏見稲荷大社から分霊を勧請した小さな神社がある。よく会社の屋上にある社業繁栄祈念の神社と同じだが、宇賀之御魂大神を祭るもので大正8年に建てられたものだ。こうした施設を以前とは違ってそのまま見せるところにも、新出発の気概が感じられる。その小さな社にはたくさんの人が列を成して見て回っていたが、それなりにそごうの歴史を再認識出来る点で宣伝効果は大きい。屋上にはその他にオリーブの木を植えた空間やそれを縫う回廊など、今までの百貨店のイメージを一新して露骨な金儲け一辺倒の施設がひとつもないのがよい。こうした新しい空間における新しい戦略に対して隣の大丸が今後どう対抗して行くかだが、それは一定期間の売り上げをまず見ての話のはずで、今後が楽しみだ。
今、東京の百貨店で大阪展が開催されている。ちょっとした大阪ブームと言ってよい。先頃INAXギャラリーで観た『肥田せんせいのなにわ学』もそんな動きを察しての企画であったのかもしれない。そしてこの展覧会は『肥田せんせいのなにわ学』の一部を拡大した内容と言ってよく、数百点の資料によって主に80年前以降の心斎橋の歴史を辿ろうというものだ。図録があれば買うつもりでいたが、国書刊行会が出しているCDつきの充実した書籍が代わりに売られていた。それはいつでも本屋で買うことが出来るものなので買わなかった。展示資料がとても多いので、時間の関係上(この日は展覧会を4つ観た)、全部をつぶさに観ることは出来なかった。人によっては見所がかなり違うはずで、どれも興味深い内容であった。大阪人でもあまり知らないことがたくさんあることにまず感心したが、大阪生まれの大阪暮らしの高齢の老人にすれば懐かしいことが多いだろう。筆者の子ども時代でも心斎橋はきれいなよそ行きの服を着て歩く場所という考えが人々にあったが、それは1920年代の心斎橋からしてそうであったらしい。「心ブラ」という言葉が流行ったようだが、これは東京の銀座をぶらつく「銀ブラ」に対抗した言葉だ。だが、チラシにはこうある。『…大正14(1925)年に大阪市が東京市を抜いて日本一のマンモス都市になった「大大阪」時代から昭和初期にかけて、心斎橋は黄金期を迎えます。日本最初の公営地下鉄が心斎橋-梅田間を開通し(昭和8年)、御堂筋が建設され(昭和12年完成)、モダニズム時代を極めた建築家が手がける百貨店の華麗な店舗が完成、ウィンドウショッピングが「心ブラ」と呼ばれ流行するなど、この時期、心斎橋は大きく発展します…』。大大阪時代は7年ほどしか続かなかった。東京が大阪と同じように周囲の町や村を合併して人口が一気に500万になったからだ。「心ブラ」の言葉が流行った頃は、東京より大阪の方が大都市で、「銀ブラ」の方がまねしたのかもしれない。その『大大阪の歴史をもう一度』ではないが、大阪人が自信を持って大阪を誇るべき時代が少しずつにしろ到来し始めているのかもしれない。そのためには積極的にもっと大阪本来のものを発信し続ける必要があるが、さしずめ今回の展覧会はそんな動きのひとつとして機能すると考えることも出来る。
話を戻すと、地下鉄御堂筋線の心斎橋駅の改札を出た途端、あちこちの柱に宮沢りえが真っ赤な地色に白い大きな鶴を染めた友禅振袖を着てポーズを取っているポスターが貼られているのを見かけた。そごう百貨店が新装記念に宮沢ええを起用していることはなかなかの意気込みだが、その振袖は通常の着こなしではなくて、かなりアレンジしたものであった。ポスターに近寄ってよく見ると、そのキモノはどうやら昔のものであることがわかった。それでこの展覧会の最後のコーナーの最後の展示品としてその振袖の実物が衣桁にかかっていたことで、想像は当たったが、昔のキモノで身丈が短いため、おそらく宮沢りえには通常の着つでは合わなかったのだろう。そのために一風変わった着こなしをさせたのだと思うが、さすがによく似合っていた。それはキモノというものが数十年程度経っても着こなしひとつで現代風にどうにでもアレンジ出来ることを証明してもいて、同時にもっと別の暗示を示している気もした。というのは、大丸にしてもそごうにしても元はキモノを扱う呉服商であったことと、百貨店がファッションを初め、流行や文化の中継点、発信点であったという事実の再確認をさせている点だ。チラシの裏面にまた話を戻すと、上左部のチラシの4分の1を占める面積で昭和初期の豪華なキモノが印刷されている。ここにも呉服が百貨店のルーツであることを暗に示しているように思えるが、そうしたキモノ文化が今では限りなく片隅に追いやられ、百貨店でも売場面積が縮小一方の傾向にあるのは、矛盾を抱えた日本文化の現状を伝える。新装そごうの11、12階のレトロな店舗群の中に、キモノや帯の染み抜きなどを担当する小さな店があった。眼鏡をかけたひとりのおじさんがそこには座っていた。そんな小さな店でも、所有する古いキモノや帯をどのようにして補修しようかと悩んでいる人に取っては救いの手になるだろう。京都ならいざ知らず、大阪ではそうした店はもうほとんど一般人には目の触れないところにあるか、消滅したに違いないからだ。古いものを完全に廃れさせるのではなく、価値を見出して保存ないし、立派に使用し続けるという考えは今こそ大切であり、消費文化の最先端を担って来た百貨店がわずかながらでもそうした役目を負うことは今後はもっとあってよい。同様の意味で、宮沢りえが古いキモノをモダンに着こなしている姿は、あまり効果はないにしても、若い世代に日本文化を再発見させる効力が少なからずあるのではないだろうか。
心斎橋はその名のとおり、元はれっきとした橋であった。会場でメモして来たが、江戸時代の元和8(1622)年に、長さ35.5、幅4.2メートルの橋として、船場と島之内を結んで長堀に架けられた。名前は美濃屋岡田心斎に因んでいる。当時このあたりは出版業や本屋が集まっていたというから意外だ。今でも心斎橋には古本屋がありはするが、長堀通り北にある丸善はもう閉鎖が決まったし、大阪のこのあたりと本とはイメージが結びつかなくなっている。これは残念なことだ。今回の展示資料の中に「柳屋と三好米吉」のコーナーがあった。三好は宮武外骨のあの滑稽新聞を編集発刊した1881年生まれの人物で、同新聞を1912年に終刊した後、船場に柳屋という書店を開店し、木版画で刷った祝儀袋や便箋などを販売した。竹久夢二から版権を買い受けて独占的に夢二の絵を使用したものを売るなどする一方、新たなイラストレーターの才能を発掘してなかなか気を吐いた。渋谷修という人のイラストになる祝儀袋がずらりと並んでいたが、それは見事なもので、今でも充分に通用する、もしくは今ではもうこんな才能は出ないと思わせるほどのものであった。三好が魚眼レンズを使用して自分の顔を撮影した写真もあった。そこに見える面がまえはなかなかふてぶてしく、気骨が充分に伝わった。外骨と組んで滑稽新聞を出すほどの人物であるからそれは当然であろうが、そんな反骨の、そして美というものもよく理解した人物が今の大阪にどれほどいるかと考えると、心もとない話で、大阪文化の新たな発信を考えるのであれば、まず人材が必要であることを知る必要がある。百貨店だけあっても仕方のない話で、大阪に根を下ろして住んでいる人物にどれほどユニークな者がいるかが問題だ。出版業がことごとく東京に移ってしまい、大阪はもうその分野ではすっかり諦めている気配があるが、これをまずどうにかする必要があるのではないか。ことは簡単には進まないが、まず意識することが大切で、たとえば外骨と三好の関連で、もっと大阪を意識づける展覧会が開かれてよい。
そこでつくづく思ったが、この展覧会の全資料をそっくりそのまま恒常的な施設で常設展示出来ないものだろうか。あまりに長くなるので、もうここでは触れないが、若冲のパトロンだったという人物の店が心斎橋にあったという話などは初めて知ることで、京都との関連で掘り起こすべき文化を大阪はふんだんに持っていることに今さらに気づく。江戸時代まで遡らずとも、この80年でよいから、大阪にやって来る観光客にコンパクトに大阪の歴史を知ってもらうことを考えてもよい。それにはちゃんと歴史博物館があるが、そこまで足を運ぶのが大変で、もっと繁華な場所で、若者が闊歩する街中でどうにかならないものかと思う。大阪人自身が大阪の歴史をさほど知らず、自信を持てないとすれば、こんなもったいない話はない。これも今回知ったことだが、「大阪人」という名前の雑誌が出ているらしい。いつの間にそんな雑誌がと思うが、財政最悪状態の大阪がもっと観光客誘致もかねて自己宣伝に努めるのはいいことだ。ぜひともどんどんやってほしい。話を戻して、心斎橋はその後明治6(1876)年にドイツより輸入して弓型の鉄製トラス橋に架け替えられ、明治42(1909)年にはガス燈つきの石橋に変わった。鉄の橋は今は鶴見緑地に使用されているそうだが、このことも今回初めて知った。石橋は1964年に長堀が埋め立てられた際に取り壊され、翌年復元されて現在に至っている。長堀の地下には1997年にクリスタ長堀という地下街が出来たが、これは今は人通りがとても少ない。クリスタ長堀が出来てからは心斎橋の石橋はほとんど存在を忘れている。そのために実際にまだあるのかどうか自信がないほどだ。心斎橋という橋がほとんど人に忘れ去られたのに、商店街だけは営々と人の波が途切れない。それでもそごうの向かい側にはパチンコ店が今なおチンジャラと派手な音を発していて、心斎橋筋商店街が落ち着いた独自の雰囲気をかもすのはまだまだ無理な気がする。