級長は筆者の世代ならば勉強がよく出来た子がなった。また勉強がよく出来る子は性格もよいとだいたい思われていたし、実際そうであった。それがおかしくなり始めたのは、やはり筆者の世代からかと思ったりもする。
つまり、昭和26年生まれ以降だ。先日来年度の自治会長を決める会合を開いた。わが自治会内の14人の組長が集まり、その中から会長と各種委員の7名を決める予定であった。とにかく筆者が次期会長を決めねば、来年度もずるずる引き受ける羽目になる。であるから、何が何でも出来たばかりの規約に則って14名から選ぶ覚悟であった。迷惑なのはその14名かもしれない。これまでなら、会長など四役も10名ほど必要な各種委員も10年以上も連続担当してくれていたので、何の役割もしなくて済んだ。それが、種々の事情によって各種委員は半分以上も交代することになった。くじ引きで決めるのは最後の手段で、ともかく相談することになった。ところがまとまるはずがない。会長になるのは絶対にいやで、各種委員ならまだどうにか出来るという人ばかり。それで2時間20分を費やして、結局会長を決めることが出来なかった。四役が頭を突き合わしてまた誰かを推薦せねばならないが、その当てがない。14の自治会のうち、わが自治会のみが今まで規約がなく、また同じ人物が長年会長を務めて来た。正直なところ、これは他の自治会から笑われている。なので、筆者は絶対に4月からは新たな顔を会長に据えたいが、思惑が外れた。会長の役目はとても多く、来年度からはそれを四役の他の人が幾分かを受け持つことにして、今までの半分程度の労力で済むようにしたが、それでもみな固辞する。その理由は、時間がないというより、みんなの前で主役を演じるという場が苦手であることだろう。それに、一昨日の会合では筆者はある人物の言葉に反応して声を荒げた。そのある人物は同じことを今までに数回、しかも人前で言い放って筆者を侮辱した。それでも年配者と思って反応せずにいた。その年配者は会長を務めたことがない。そのため、その人物に引き受けてもらうのがよいと思うが、まず役不足で、本人もそれを自覚しているだろう。筆者がこの4年の間に会長として費やした時間とエネルギーは、わが自治会ではまず誰も出来ないだろう。それに対してねぎらいの言葉はなく、むしろみんなの前で侮辱されるのを14名の組長が目の当たりにしたのであるから、みんな会長などになるものではないと尻込みして当然だ。だが、仮に来年度も筆者が担当すると、再来年も誰もが拒否するのは目に見えている。それでは規約を作った意味がない。規約における、本年度の組長は来年度に空きが出た四役ないし各種委員を担当するという仕組みは、自治会住民全員に4回のアンケートを実施して決めたことだ。ただし、どういう方法で決めるかまでは決めなかった。これがまずかった。これを決めなかったのは、「そんなことをすれば全員が自治会を辞めてしまう」という意見があったからだ。筆者はそうは思わなかったが、誰かが名乗りを上げてくれると善意に考え、それで『「絶対に」組長の中から会長を選ぶ』とか、『くじ引きによる』といったことを規約に記さなかった。これが甘かったかもしれない。会合当夜、ろくに規約の内容を理解していない人がいた。その人は筆者の話が長いので早く済ませるべきと腹立たしげに意見した。そして自説を述べたが、それは作ったばかりの規約を根底から覆す内容で、今さら何を言っているのかと唖然とさせられた。そしてそういう人に限って「絶対に」に会長になる気はない。
そうそう、14名と書いたが、実際は12名でふたり欠席した。欠席すればその人に会長や各種委員を割り振ることは出来ない。そういうことがないように、告知を2回配り、全員が出席出来る日時を決めた。ひとりは10日ほど前に電話して来て、どうしても出席出来ないと言ったが、筆者はそれでは他の組長に迷惑がかかるので、各種委員のどれかを引き受けてほしいと言った。すると快く承諾を得た。その人はまだ30歳で近日中に3人目の子が生まれることもあって、会長を押しつけるのは無理だ。それで各種委員でも最もふさわしいものを引き受けてもらった。もうひとり欠席者がいた。それは予想した人だ。出席出来ないとの連絡もなしで、存在しない人のように無視するしかなかった。前に書いたが、その人は義務教育の先生だ。筆者が小学生の頃、先生は尊敬すべき人に見えたし、実際そうであった。中学生になると、案外そうでもないと思うことがたまにあったが、それでも先生は「仰げば尊し」で、人生で最初に出会う知的な年配者であった。そうであるから、学級委員もそれなりに目立った好人物であった。自治会の役員などアホらしくてやってられるかというのがおそらく学校の先生の偽りのない思いだろう。わたくしはそこらの俗人とは違うぞという選良意識だ。そういう鼻持ちならない精神だけが膨らんで、尊敬に値することは著しく減少した。これが日本の義務教育の先生の平均的な姿とは思いたくないが、筆者にとって学校の先生は年を重ねるごとに価値が低くなって来ている。橋下市長が、先生はクビになる心配がない職業であるからもっと競争意識を持ってもらわねばと発言し、そのための評価基準を変えるつもりでいる。これは先生に「級」を設けようということだ。高級もあれば低級もあるのは、児童や生徒と同じだ。教師という職業が聖なるものではなくなったということで、今では誰もが筆者のように思っているのかもしれない。だが、迷惑なのは子どもたちだ。「仰げば尊し」が死語になり、思い出すたびにありがたいという年配者がいなくなる。そうして大人になった時、誰かを尊敬することになるだろうか。尊敬の思いがなくなれば、人生はつまらない。筆者が人生を楽しんでいるとすれば、それは思い起こすたびに心の中が明るくなるような人物が何人もいるからだ。人生の意味はそういう人との出会いにある。それは義務教育の場で本当は育まれるべきだが、低級な教師が増えているようで、日本の将来は暗い。今日は別の話題にするつもりが、書き始めたのが深夜1時半を回っていた。今MOの中に保存している未発表写真を選んだところだが、偶然と言おうか、空を仰いだ写真があった。わが家の前の木立に群がる雀だ。1か月ほど前に撮った。小鳥が枯れ木に集まる様子はかわいい。雀の学校には教師はいるのだろうか。親がその役目をするか。親が「仰げば尊し」の筆頭格であるべきだが、今はそれもあやしくなっている。