罰則があるのかどうか、右京図書館から借りるDVDは、2,3日程度の遅れならば何も言われず、その日にまた別のものを借りることが出来る。昔中央図書館に通っていた頃はそうではなかった。
1日でも遅れると、当日は借りることが出来ず、翌日出直すのはとても面倒でバス代もかかるので、数年して通わなくなった。今日取り上げるDVDは2か月ほど前に一度借りた。2週間あれば充分鑑賞出来そうなものだが、見るのはそれなりの覚悟がいる。こうして書く文章も同じだ。そう考えると、こうして毎晩書くのは、よほどのエネルギーがありあまっているのかもしれない。それはともかく、このDVDを借りたのは先月下旬であった。返却は2週間後であるから、延滞はひどかったことになりそうだが、2月前半に長い休館日があって、その分鑑賞はゆっくりとかまえることが出来たはずなのに、やはりぎりぎりまで見なかった。もうそろそろ返却日ではないかと調べると、ちょうどその日だ。返却に走らねばならないところを、2日の遅れはいいかと思い、ようやくその日、つまり月曜日に見た。その翌日は休館日で、20日の水曜日に返しに行った。先ほど調べると、ドナルド・リチーは19日に88歳で亡くなったことを知った。その前日、筆者はこのDVDに入っている彼へのインタヴューを最後に見た。DVDのジャケットには若い頃すなわち収録されている作品の頃の顔が印刷されている。インタヴューは老齢だ。その顔がとてもよく、何となくほっとした。それにしても、彼の顔についてそう思っている頃、彼は天国に行くところであった。このDVDについては昨日感想を書くつもりが、今日も落ち着かず、また別の話題にしようかと思った。だが、19日に死んだことを先ほど知ったからには、今日書いておくべきと思い直した。2か月前に一度借りながら見なかったのが、18日に見終えたのは何かの縁かもしれない。そう思って、彼の仕事を知りたい思いになっている。このDVDで有名と言うより、数々の、主に映画に関する著作で知られている。筆者は映画通ではないので、彼の名前はこのDVDで初めて知った。右京図書館ではないが、他の図書館に彼の著作はだいたい揃っているようなので、今後少しずつ読みたい。
DVDのパッケージ裏面には収録されている全作の簡単な説明がある。リチーの「フィルモグラフィー」は本DVDに収録されていて、本DVDには収められなかった重要作もいくつかあるようだ。また、本DVD収録作以前にたくさん撮っていて、全作をDVD化すれば数枚は必要ではないだろうか。それはあまりに商業性の観点からは無謀な行為で、時代順に代表作が6点選ばれた。この6作にしても商業的とはとても言えず、ある作品はロンドン、パリ、ニューヨークでは上映禁止になり、東京でも密かに上映された。東京でもと言うのは、リチーは滞在が半世紀に及び、本DVDの全編が16ミリで、また全作が日本人を使って日本でロケされた。ならば日本語が堪能であったかと言えば、特典のインタヴュー映像はみな英語で話している。著作もすべて英語で書かれたようで、日本語は多少はわかったと思うが、普段は話さなかったのではないだろうか。戦争が終わってすぐに来日して日本の映画評をアメリカの新聞に書き、一旦帰国して再来日し、そして本DVD収録の作品を1962年から68年の間に撮った。これはビートルズの活動期と平行していて、筆者はそのことから収録される短編映画の雰囲気を味わった。内容はビートルズとは関係はないが、6編を順に見て行くと、過激さが増して行くことがはっきりとわかり、そのことはビートルズの作品の変遷に共通している。これはそれほどに60年代は世界的に密度の高い時代であったことを示すだろう。リチーは68年以降はあまり撮らなかったようで、これは69年に帰国したからだ。アメリカでも撮ればいいものを、そうならなかったのは、日本人を使って日本で撮ることがよほど性に合っていたからだろう。それだけ日本を愛していたと言える。本DVDのパッケージで最初に目についた言葉は、リチーが溝口や小津、黒澤の映画を最初に欧米に紹介したということだ。これは知らなかった。とても重要なことなのに、映画通にしか知られていないのではないか。批評家は他人の作品で飯を食っているので、作家よりも低く見られる。リチーの名前もそのようにして日本を代表する映画監督の名前の向こうに隠れている気がする。
有名な映画や映画監督についての批評本は数多くあるが、アメリカ人が日本映画について何冊も書くことは珍しいだろう。しかも最初に紹介したとなれば日本映画ファンは必読ではないか。言葉の深い部分を理解することが無理な外人に何がわかるかという意見があるかもしれない。だが、外部の目は大事だ。日本人が日本の映画や監督について論評することが必ずしも的を射るとは限らない。筆者はまだ1冊も読んでいないが、おそらくアメリカ人ならではの視点があって、日本映画のよさを見直すきっかけになるように思う。もうひとつ思うのは、本DVDからわかるように、リチーは子どもの頃から映画を撮っていたことだ。これは技術的なことに造詣があって、撮影機を手にしたことのない批評家とは一味違う眼差しから書いているはずで、また、本DVDを同時代の日本あるいは外国映画と比較することでリチー作品の特質が浮かび上がる。筆者はてっきり6編は外国を舞台にしていると思っていたが、全部日本で、しかもセリフがないことに監督のこだわりを見た。セリフがない映画は以前このカテゴリーに取り上げた
新藤兼人の『裸の島』を思い出す。1960年の作であるから、リチーに影響を与えたかもしれない。だが、これは60年以前のリチーの作品を見ない限り、断定は出来ない。セリフがないのは、リチーが日本語を理解しなかったからかもしれない。終戦直後の日本人は、アメリカ人を目の当たりにして、無言か言葉少なであったはずで、そういう日本人の態度がリチーには印象深かったのではないか。言葉が通じなければ身振り手振りに頼るしかない。ボディ・ランゲージの可能性を認めたことで、好きな映像趣味が頭をもたげ、日本人を扱って短編映画を撮る気になったのだろう。それは言葉がない分、象徴的な内容になる。寓話的と言ってもよい。その傾向は年々増し、本DVDに収録される68年の「シベール」は「ゼロ次元」というハプニング集団を使って撮影され、前述したように、欧米で上映禁止になった。ホロコーストを想像させるというのが理由であった。当時リチーはそのことに納得出来なかったが、インタヴューの時点ではわかると発言している。筆者は一度しか見ていないが、ユダヤ人の虐殺場面を多少は感じた。だがそれ以上に素っ裸の男5人と女ひとりが繰り広げるSM行為と言ってよい場面の連続に、パゾリーニの『ソドムの市』の先駆を見る思いがした。その一方で女王然とした女に陰茎を細い紐で縛られたり、肛門に火の点いた線香の束を突っ込まれたり、また仰向けになった男の口元に女が陰部を押しつけたりする様子を見ると、酷いという思いとは別に笑いが生じた。リチーはコメディを思って撮ったと言うが、それはかなり黒い笑いだ。
「シベール」は朝10時から午後4時まで費やして撮ったというが、20分の長さは編集によって多くがカットされたのであろう。「CYBELE」と綴り、これはギリシア神話に登場する地母神だ。それをわかったうえで映像を見ると理解しやすい。シベールである女はひとりでよく、それに尽くす男は最低5人はほしい。男たちは典型的な日本のサラリーマンといった顔立ちで、女は中年のでっぷりした人物が選ばれている。当時「ハプニング」という行為の芸術が流行り、街中で裸になる行為はよくあったので、リチーのアイデアに彼らは即座に呼応した。陰部丸出しであるから、通常はそこをぼかすべきだが、その処理は施されていない。DVD化された年にあってはもはやそこまで気を使うことはなかったのであろう。また、地デジ画質に馴染んだ目からは、全体に粗い画質で、細部はよくわからない。インタヴューでこの作品についてリチーが語っているのは、まず音楽の重要性だ。ムーレやラモーなど18世紀フランスの壮麗な音楽を使用していて、冒頭は古い石灯籠の数々が映り、次いでどこかの寺の境内の裏手といった場所で男たちが画面両側から滑稽な身振りで歩んで来て鉢合わせになるが、その舞踏的な動きと音楽の対照は確かに一度見ただけで忘れ難い。やがて女が現われて男たちはされるがままになり、最後は男たちが寝転ぶ上に女が重なって動きを止める。リチーは「野蛮なまでの音楽のスペクタクルを、ディヴェルティメントのように使いたかった」と語り、これは音楽の壮大さとは違って、映像の中の男女の行為が深刻ぶらずに、明るく軽々としたものであることを主張している。続く「フレームの中と外の差異に気づき、こうした光景を生む文明そのものを問題にしていることを知ってほしい」は、簡単に述べられてはいるが、解釈は簡単ではない。「フレームの中と外の差異」は、作品に描かれる世界が現実からあまりにかけ離れていることをリチーが知っていることを示す。「こうした光景を生む文明」とは、「こうした作品を生む文明」と言い代えてよいだろう。「シベール」は製作された時代の文明に呼応した産物であって、現実からかけ離れた映像を求める好みが時代にあったことになる。つまり、目を背けずに、時代の鑑であることを認めよということか。これはどんな作品でも時代の産物であることからすれば、ごく当然のことを主張しているが、時代の様相は商業的に大ヒットした作品ばかりではなく、こうした上映禁止になる作品も見なければよくわからないというリチーの自信が覗いている。
67年の「五つの哲学的童話」は47分と長いが、5話が連なる。リチーが最も好きな作品で、日本マイム研究会と出会ったことで実現した。「ゼロ次元」とは別の集団だが、無言の行為であり、また裸になる出演者を含む点では通じるところがある。出演者は、平日はごく普通の仕事があったので、撮影は一話ずつ毎日曜日に行なわれた。第5話は、素っ裸で笑顔の男が銀座の街の歩道を平然と歩く。その様子を主に背後から、また擦れ違う人々は驚く様子を含めて撮影し、当時かもう少し後か、世間を騒がせた「ストリーキング」を想起させる。今でも裸で街中を歩く人がたまにあるが、ストリーキングの原点はこの作品にあるかもしれない。インタヴューによれば5話とも寓話で明確な意味を持っているとされるが、それはリチーの説明を読まねばならない。素っ裸で街中を歩くことにどういう意味を持たせたか。これは最後の場面で、銀座とは全く違った、どこか田舎の山の見える場所に移り、裸の男が山に向かって走って行くところを見ると、ほとんどシュルレアリスムで、夢の解釈に戸惑うのと同じような気分を味わう。裸で街中を歩くというショッキングな様子をただ楽しんでもよいし、もっと深い意味が隠されていると知っておくこともよいといったように、前衛芸術のように難解でまた印象に強く、面白い。第3話は、「シベール」と同様、黒いユーモアが濃厚だ。ピクニックに自然豊かな公園の一画にやって来た男3人と女ひとりの集団を描く。彼らは草むらにシートを広げ、食事に入る。何とそれは、ひとりの男を横たえ、服を脱がして刃物で切りつけて肉片や内臓を食べる。そうして最後には男は骨と食べ残しの状態になり、それを3人がシートにくるんで持ち帰るところで終わる。この映像を三島由紀夫は大いに喜び、上映中、連日訪れた。そして感想を書き残している。簡単にまとめる。「無法なファルス、黒いユーモア、食事の日常性、礼儀作法と残酷な描写、そのコントラストがヒステリックな嘲笑を誘う。人間主義の偽りのない告発。われわれの文化こそ、カルバニズムの上にあるかもしれない」男を食べる男女3人は、獣ががつがつ食べるような素振りではなく、レストランで食事するような態度だ。人間は人間を食べないが、レストランで半分生のステーキに舌鼓を打つのは、レストランという場所によって野蛮さを覆い隠してはいるが、石器時代の人間と同じ行為をしている。つんと澄ました人々は、野蛮とは無縁と思っているが、それは滑稽なことだ。
さて長くなって来たので後は簡単に済ます。67年の「熱海ブルース」は62年に熱海で2日を費やして撮影された。温泉地での男女の出会いをコミカルに追ったもので、リチーの当時の奥さんのアイデアによる。最初の編集では40分であったが、67年に半分に縮められ、また音楽を武満徹が担当した。ピアノ・ソロで、ビル・エヴァンス風だ。武満は本DVDには収録されていないが、63年の「ふたり」と題する35ミリ、60分の作品に出演している。同作には左幸子も出演していて、当時のリチーの人脈がわかって興味深い。「熱海ブルース」は昭和の温泉地特有の建物がたくさん映る。海辺には江戸時代からありそうな大きな松が生えていたり、また男優が持つ大きな蛇の目傘や女性が被るスカーフ、それに石原裕次郎の映画の看板といったものが、どことなくやくざ映画を連想させる。登場するのは男と女のふたりだけで、男は女を見かけてしりきにモーションをかける。スカーフが風で浜辺に飛ばされたのを見て、高い岸壁から下りて足を濡らしながらそれを拾うが、女は素知らぬ顔をして立ち去る。だが、その後また出会った際は女は男に肩を寄せ、ふたりは一緒に風呂に入る。ところが、男は先に上がって、女に別れの合図をして駅舎に向かう。これは口説くことのみが目的であったということなのだろうか。ここで書いておくと、リチーの作品は裸がよく登場する。しかも男のそれが目立つ。リチーは同性愛者ではなかったか。そして日本の男が好きであったように思う。同性愛を感じさせるのは最初に収録される「戦争ごっこ」もだ。これも三島好みではなかったろうか。彼の「午後の曳舟」を連想させるような無抵抗の死が描かれる。千葉の海岸で撮られ、海水パンツを履いた小学生男子ばかりが10数名登場する。同性愛を連想するのはまだまだ早い年齢だが、白い山羊が連れて来られ、それがみんなにいたぶられて死んでしまう場面は、「シベール」に通じる生と死の儀式で、性の問題がほの見えている。ひとりのけ者にされる子どもとその他全員が対比され、渚で死んでしまう白い山羊をみんなで砂浜に埋める場面や、また海が大きくしけて、のけ者になったひとり以外は全速で山羊を埋めた場所から走り去って行く様子など、子どもたちの笑顔は声が聞こえないので、不気味に映る。リチーは子どもに演技させられないので、土方巽が代わりをした。その効果があったと言うべきだが、やや不自然な場面もあって、撮影が難しかったことを思わせる。撮影中に台風がやって来たためでもあるが、波が次第に高くなる様子は、物語をドラマテッィクに高めている。また、ざわめく波と風の音が印象的で、このサウンドトラックの編集に撮影以上の時間を費やした。セリフがない分、音楽や効果音に気を配り、そのことがどの作品でも大きな効果を上げた。