看板はなく、出入り口の上部の壁面にあまり上手でない手書き文字の「TORATTORIA」がかすれて見えた。「トラットリア」は日本でもそれなりに知られている。
京都国立博物館前のホテルには、通りに面してごく小さな、ノートほどの大きさの看板があって、そこに黒い文字で「TORATTORIA」が記される。先日家内と同館で展覧会を見た後、通りをわたってその店に行った。木製の階段を上った2階がその店だ。満員であった。喫茶だけなら下にも別の店があると言われたので別の階段を使って、つまりホテルのロビーに通じる階段から下りた。そこでは何となく落ち着かないのでそそくさと外に出たが、大きなドアをボーイが3人がかりで開けてくれた。ま、次回は満員でない時に行きたいものだ。話を戻して、トラットリアはレストランよりは格が落ちるのだろう。だが、先の博物館前の店は有名なホテルが経営するので、喫茶だけでも普通の店より割高だ。「レストラン」と表示すればコーヒーだけが目当ての客が来ないと思って、またあまり馴染みのない言葉を使う方が洒落ているという考えから、「トラットリア」と記しているのだろう。それをここでは「食堂」としておくが、今日取り上げる映画の内容からしてもふさわしい。映画の舞台は、アドリア海に面したイタリア中部のアンコーナという港町に近い田舎の食堂だ。戦後間もない頃で、トラックの運転手がよく立ち寄る店で、大通りに面している。大通りとはいえ、舗装されておらず、車はとても少ない。見通しがよく、戦後間もない田舎ならではの空気が漂う。この食堂前の道は本作では重要で、何度も映り、本作の起承転結に大きく関係している。この道を通って他の街に行くから、街道だ。田舎のことであるから、案外今でも似た雰囲気のままかもしれない。右京図書館では以前からこのDVDがあることを知っていたが、ジャック・ニコルソン主演の同名の映画を昔家内と映画館の封切りでアメリカ映画を見たこともあって、後回しにした。そろそろ見たいものが尽きて来たので、ようやく借りた。
それはそうと、ネットで調べると、同じ題名の映画は4本あって、ジャック・ニコルソンが出たのは81年で4番目に当たる。30年ほど前になるので内容はすっかり忘れたが、郵便配達は出て来たであろうか。本作は同名の小説を原作にしながら、監督のルキノ・ヴィスコンティは「OSSESSIONE」と名づけた。これは「妄執」という意味だそうだが、ちょっとわかりにくいので「妄想」でいいのではないだろうか。そう思って本作を見ると、誰がどんな妄想を抱いたのかがよくわかるかと言えば、案外そうでもない。そこで改めて考えると、たぶんこんなことかと思い至る。昨日はジャン・ルノワールの映画を取り上げ、そこに父の絵画の裸婦を見る人たちが必ずしも清らかな思いばかりではないと書いた。「清らか」の反対がここで言う「妄想」と思えばよい。となれば、昨日の映画『ピクニック』も中流家庭の5人がパリ郊外の田舎にピクニックに訪れる平凡な行為の陰に若い女が性行為につながる出会いを半ば無意識に妄想、期待していたことになる。同作の撮影に同行したヴィスコンティは当時30歳であった。そして本作は36歳で、処女作であった。となれば、『ピクニック』との関連を思ってもおかしくはないだろう。とはいえ、本作はもっと荒々しい妄想を描き、前世紀の空気を濃厚に漂わせる『ピクニック』とは格段の差がある。これは原作が19世紀のモーパッサンと、アメリカのジェームズ・ケインという20世紀の作家との差でもあるが、ヴィスコンティが『ピクニック』のようにセックスを主題にしながら、殺人という大きな犯罪を絡めた物語に興味を抱いたのは、戦後すぐのイタリアの世情を反映したかったからか。不倫と殺人をテーマにする本作がカトリックの国で歓迎されるとは思えず、イタリアでは公開してすぐに上映禁止になった。原作者の許可を取っていなかったことも原因とされるようだが、著作権にはまだ厳しい時代ではなかったか、あるいは原作に描かれる舞台をイタリアに移し、原作にはない場面を挿入したので、監督としては盗作した思いはなかったのかもしれない。原作は読んでいないが、たとえば本作では食堂の太った主がオペラ好きで、喉自慢大会で優勝する場面があって、これはアメリカでは考えられない。ヴィスコンティの後の『夏の嵐』でもオペラは冒頭から登場し、自国の芸術を誇る思いが見える。
原作の小説から拝借したのは、夫には満たされない思いを抱いている女が別の男に性的魅力を感じ、夫を計画的に殺した後、愛人と一緒になったのはいいが、それは束の間のことで、すぐに事故死してしまうというおおまかな筋運びだけであろう。それはジェームズ・ケインの小説が最初の創作ではなく、似た物語は昔からあったに違いない。今でも同様の出来事は世界中に起こっているのではないだろうか。それはともかく、ヴィスコンティは『ピクニック』に描かれた、許嫁がいる若い娘が出会ったばかりの男に身を任せるという物語を心に秘めながら、女の妄想をもっと強力にした物語との出会いを待っていたのではないか。そこにケインの『郵便配達は二度ベルを鳴らす』との出会いを得、それをイタリアの現在に置き換えることにした。アンコーナやその付近を選んだのはなぜだろう。イタリアの北部と南部を結ぶ街道沿いの街にすればイタリア中が関心を抱くと考えたかもしれない。また、本作を撮影するには、大都会よりも鄙びたところが便利だ。あるいはイタリア通ならばわかる特殊な事情があったとも考えられる。このアンコーナを選んだ行為は、後のアントニオーニの映画に通じているように思う。たとえば『情事』だ。それは一種の観光映画とも言えるところがあるが、本作も無名的な村を舞台にするものの、土地の風土が如実に反映され、イタリアの田舎を堪能した気分になれる。また、本作のオール・ロケの手法は『ピクニック』譲りであって、たとえばヴィム・ヴェンダースのロード・ムーヴィーに影響を与えている気がするが、演劇にも手を染めたファスビンダーにはその傾向はあまりないのではないか。話をまた戻して、本作は上映中止になったまま蔵入りとなり、ふたたび公開されたのは監督の没後であった。このことを監督はどう思っていたのだろう。筆者は他のヴィスコンティの作とは違って、登場人物たちの体臭が漂って来そうな生々しさに驚き、またこれほどの作を最初に撮ったことに改めて巨匠と呼ばれるだけのことはあると納得した。モノクロでしかも明暗がとてもくっきりし、やや粗い画質がまた印象的で、これは確かネガが没収され、保管していたポジから焼き直したためだ。
ヴィスコンティは本作こそがイタリアのネオ・レアリズモの端緒となったと主張したそうだが、このブログで取り上げたロッセリーニの作に比べると反ファシズムの思いは直接的ではない。そのため、イングリット・バーグマンがロッセリーニの作と同じ時期に本作を見ても、ヴィスコンティの作品に出演したいとは思わなかったに違いない。主役が殺人犯という映画は彼女のイメージにはそぐわない。ネオ・レアリズモが具体的にどういうことを指すかとなるとこれは明確な定義があるとは思えないし、ヴィスコンティが本作が同時代の現実をよく反映し、しかも反ファシズムの思想もこもっていると思ったにしても、それは充分納得出来る。殺人や不倫も含めて現実は存在するし、本作に登場する俳優たちはみな時代と場所を体現している。たとえば昭和30年代でもいいが、過去を懐かしんで美化する思いが人間にはある。昭和30年代が現在とは全く違って極悪な人物がおらず、いじめもなかったかと言えば全然そうではない。そのことをよく知っておくべきなのだが、人間はいやなことは忘れやすい。そして悪よりも正義に軍配を上げ、そのことを描く作品を持ち上げる。本作が悪を描きながら、最後は敗北するのは、公序良俗に反する映画は上映出来ないことからして当然ながら、監督はそれでも悪につながる妄想はなくならず、しかもそれは男女の一瞬の出会いによって生まれるものであることを言いたかったのだろう。つまり、不倫や殺人をあらゆる仕組みで禁止しても、その効果はない。それが人間の真実で、そのことを描く本作が「新しいリアリズム」であると自負した。この女の性本能をヴィスコンティは関心を抱き続け、『夏の嵐』でも描く。そこでは安食堂の女ではなく、伯爵夫人が主役で、性の欲望に突き動かされる。
映画の最初、一台のトラックがその食堂の前に停まり、荷台からはただ乗りしていた労働者風の若い男ジーノが降りて来る。そして食堂の中に入って注文するが金はほとんど持っていない。食堂の主ブラガーナはジーノが戦争で同じ海兵であったことや、機械に詳しいことを知って親しみを覚える。また、ブラガーナとは不釣り合いの若くて美しい妻ジョヴァンナは、夫にジーノを店の手伝いをさせることを薦める。行く当てもないジーノは早速雇われるが、車の修理をブラガーナにたのまれた時、さしてどこも悪くないのに、ある部品を引き抜いてポケットに隠す。そしてその部品をブラガーナに買って来てほしいと言うと、早速自転車に乗って出かけるが、途中で油を売ってすぐには帰宅しない。その間にジョヴァンナはジーノを誘い、ふたりはねんごろになる。映画ではあくまでもジョヴァンナが積極的で、夫との日常生活が耐えられない様子がわかる。ひょっとすれば彼女はそのようにして店にやって来る若い男を次々に誘惑していたのかもしれない。夫は『ピクニック』に登場するアンリエットの許嫁と同じで、間男になってもそれに気づかない。ジョヴァンナはジーノと新たな生活を送りたいと考え、ふたりは駆け落ちを画策するが、風来坊のジーノについて行く覚悟がジョヴァンナにはない。惨めな風采のジーノを見れば、これは無理もない。夫にひとまずしたがっていれば、食うには困らないし、それなりに着飾ることも出来る。そこでジーノのみが去ってしまう。そのままでは『ピクニック』とほとんど同じだ。ところが、『ピクニック』と同じように、ふたりの再会の場面が用意されている。そして、悲劇に向かう。ジョヴァンナはやって来ず、ジーノは電車に乗る。電車賃が払えないので車掌から下車するように言われるが、向い側に座っていた同年代の男が支払ってくれる。大道芸人で、スペイン人だ。彼は一緒に働かないかと言う。それにしたがうジーノで、人の集まる場所で芸の披露を手伝う。宿は同じ部屋にふたりで泊まる。それで暗示されるのは同性愛だ。ジーノはジョヴァンナから誘われた時もスペイン人から誘われた時も、同じくすぐに受け入れる。これはほかに行く当てもないということもあるが、女と交わることも男とベッドをともにすることも大差ないと思っていることをほのめかす。
このスペイン人は自由気ままを愛している。その一方で男好きなのだろう。ジーノを雇ったのは憐れと思ったからではない。仕事においてもセックスにおいても利用したかったからだ。それはジョヴァンナも同じだ。ジーノとスペイン人の共同生活はどれほど続いたのだろう。ある日、いつもと同じように繁華な場所で仕事していると、着飾ったブラガーナとジョヴァンナと出会った。何も言わずに去ったジーノのことをブラガーナは悪く言わず、旧友に出会ったように歓迎する。ブラガーナがレストランで開催されている喉自慢大会に出演し、アリアを披露している間、すぐそばのテーブルでジョヴァンナはジーノに戻って来ることを訴える。その言葉にしたがってジーノは食堂に戻る。スペイン人はジーノが女の言葉にしたがったことを察知し、嫉妬する。戻ったジーノだが、心は晴れない。ジーノは何をしても満足しない根っからの放浪人だ。ジョヴァンナの引き留めは気に食わない。ジョヴァンナは自動車事故に見せかけて夫を殺すことを計画し、ジーノと実行してしまう。保険金が後に転がり込むが、夫は妻には内緒で保険に入っていた。多額の金を得たジョヴァンナを見たジーノは怒る。金のために夫を殺したのだとジョヴァンナを責める。本当はそうではなく、ジョヴァンナはただジーノの愛だけがほしかった。ふたりの間に溝が入る。殺害現場には目撃者がいて、警察はジーノとジョヴァンナを怪しいと睨む。そんなある日スペイン人は食堂にやって来る。一緒に大道芸の生活に戻ろうと言うが、ジーノは拒否し、スペイン人を殴る。彼はジーノとジョヴァンナが夫を殺したと思っているが、そのことを知られていると思ったジーノは彼に口外するなと言う。やがて警察の手は迫るが、スペイン人は警察の尋問に知らぬ顔をする。ジーノを警察に売るほどには憎く思っていないのだろう。殺人行為にさいなまれ、また警察がじりじりと詰め寄って来る気配にジーノはジョヴァンナを憎む。だがジョヴァンナはジーノが他の女のもとに走らないように、また大道芸人と旅をしないようにと必死だ。ある日彼女は忌まわしい殺人の記憶がまとわりつく地元を後にして、別の街で暮らすことを計画する。また彼女は妊娠していて、そのことをジーノに打ち明けると、彼は人が変わったように再出発を思う。警察の疑いは間近に迫っているので、車で早速家を後にする。ところがカーヴを曲がり切れずに、ブラガーナが死んだ時と同じように車が堤防の草むらを転がり落ち、運転していたジーノだけが助かる。
ジョヴァンナを演じるクララ・カラマイは本作にぴたりだ。イタリアの典型的な美女と言おうか、「かわいい」ではなく、「きれい」という言葉がふさわしい。ジーノはマッシモ・ジロッティで、どことなくマーロン・ブランドに似ている。もっと優男だが、イタリア人ならではの顔だ。ザッパの息子ドゥイージルに似たタイプで、やはり典型的なイタリアの男優と言うべきだろう。彼は『夏の嵐』にも登場し、伯爵夫人を手玉に取る中尉を演じる。本作がデビュー作のようだが、ヴィスコンティは適役を見つけた。スペイン人の大道芸人はもっと個性的な顔をしているので、より覚えやすい。ジェームズ・ケインの原作には大道芸人は登場しないだろう。それに匹敵する役柄の別の男も出ないのではないか。この点は81年のジャック・ニコルソン主演の作品を見るべきか。本作は放浪するスペイン人を登場させることで、同性愛がほのめかされ、より本作の原題である「妄想」が強化された。また、男の同性愛はヴィスコンティの『ヴェニスに死す』につながっていて、処女作である本作の重要性がわかる。うまく計画したことが最後に失敗するという物語は、たとえば『太陽がいっぱい』のような、後のフランス映画で繰り返される。本作は原作にしたがって『郵便配達は二度ベルを鳴らす』と題されているが、これは日本だけのことであろうか。この題名は別の映画で有名になっているので、今では内容を勘違いすることはないものの、「郵便配達」の意味がわからないと思う人は多いだろう。筆者が考えるに、それは死神だ。殺人を画策して実行したものは、次には死神に復讐されるという意味に捉えるとわかりやすい。悪いことをすればいいことはないという教訓を思うもよし、ただ単に幸運は長続きしないとするのもよしで、広く多くの人々に示す作品の限界を一方では示しているとも思える。それは言い代えれば娯楽作品という制限だ。2時間かそこらを画面に引き留めた結果、誰もが満足するには、明確な「結」が欠かせない。ジョヴァンナとジーノが別の街で子を産んで幸福に暮らしましたでは、観客は「うまいことやりやがって」と歯ぎしりし、金を返せと文句を言う。人間は他人の失敗を見たいものだ。現実は本作のように死神にすぐに復讐されるだろうか。大きな犯罪がばれないままに生涯暮らす人は多いであろう。そういうことがわかっているだけに、せめて一編の映画においては悪事を働いた者が苦味を味わう結果を求める。