口説かれて悪い気はしないのは男女ともだろうが、初対面で身を任せるのはよほど響き合うものがあって、それは体が心の言うことを聞かないほどに生殖本能に突き動かされていとも言えるだろう。
今日取り上げる映画は印象派の画家オーギュスト・ルノワールの息子ジャンの1936年撮影の作品で、40分弱の白黒の短編だ。原作はモーパッサンの『野あそび』で、予算不足か、撮影時間がなかったためか、それに忠実にではなく、最後あたりがやや場面が省かれた。わざわざそれを撮影せずとも話は通じるし、またかえって説明的でなくなって、原作よりうまく詩的にまとまった。なかなか内容が濃く、40分程度とは思えない。ジャンは第2次大戦中にアメリカの亡命し、戦争が終わって10年ほど経ってフランスに戻った。本作は撮影当時は未完成で、陽の目を見なかったが、本作の助監督であったジャック・ベッケルが完成を目指し、原作と比べて欠ける最後に近い場面は、文字による説明を挿入することで物語をうまくつなぎ、36年に撮った映像のみで編集を終えた。その完成が46年のことで10年のブランクがある。文字による説明はごく自然で、ほとんどそれがあったとは気づかないほどだ。韓国ドラマでは最終回によくあるように、「それから3年後」といった間の置き方で、原作の小説にはその合間が描かれているが、それを省いても結末がすべてを物語る。モーパッサンの小説は大半が短編であるから、本作が40分ほどの長さであることはかえって印象的でよい。モーパッサンの小説は苦味が利いた後味で、夏目漱石は評価しなかったと思うが、確かに好き嫌いはある。このブログに書いた『サン・ミケーレ物語』を読むと、彼の生々しい人物像が浮かび上がり、天才かもしれないが、あまり近寄りたくない気にさせられる。1930年代はモーパッサンが死んで30年ほど経っていた。ジャン・ルノワールがその小説を映画化しようと思ったほどに当時はまだ根強い人気があったのだろう。今でも忘れられた小説家どころか、今後も末長く読み継がれて行くであろうし、それはジャンの本作も多少は寄与しているかもしれない。
画家ルノワールの息子が映画監督であることはあまりに有名で、筆者は10代半ばから知っていた。だが、その作品を見る機会に恵まれなかった。それが半世紀経ってかなった。予想していたものとはかなり違ったが、逆に父の絵を思い直すべきかという思いもしている。ルノワールの描く女性像は、豊満な美女や美しい顔立ちの少女で、そこには健康的な美は濃厚でも、猥雑や淫猥を思う人は少ないのではないか。だが、その考えを少し改めた方がいいかもしれない。女の裸を見て、いつの時代でもセックスの妄想を膨らませる男は多い。その意味でルノワールが描いた女もまた、清潔一辺倒ではなく、こういう女を抱きたいといった思いで鑑賞もされるだろう。そういう面も含みながらの女性像で、ルノワールは冒すべかざる聖女とばかりは思っていなかったのではないか。たとえば彫刻家のロダンだが、彼の女性像も同じだ。一時ロダンの愛人であったカミーユ・クローデルを描いた映画が20年ほど前にあって、その中でロダンはアトリエでモデルを描きながら、急に彼女の体を貪る場面があった。そういう動物としての男の部分をふんだんに持っていた精力的なロダンであったからこそ、あれほどの大作を次々とものにすることが出来たと考えるしかない。同じことは案外ルノワールにも言えるように思う。その多作された父の絵画を少しずつ売却しながらジャンは映画を撮った。父の作品と息子の映画がどうつながっているかは、本作を見ればよい。たとえばマネの「草上の昼食」を思い出すのもよいし、またモネが描いたような、印象派ならではの写生地や情景、光と影の戯れがふんだんに現われる。ただし、白黒であるから、印象派の絵画のような鮮やかさは想像で補わねばならない。その分と言っては何だが、ジャンは父が絵画に盛り込めなかった物語の描写に邁進した。それは父の絵と同じように男女を描くが、男女となればセックスに至る行動が物語となる。それは純粋な愛である一方で動物的な衝動を含み、清らかさと淫猥さが裏表になる。その両面を描く、あるいはほのめかさねば作品としては嘘になる。そういう思いがジャンにはあった。それはモーパッサンの原作の力かもしれないが、その原作を選んで映画化しようと決めたのはジャンであるから、同じことだ。
さて、DVDはいつものように右京図書館から借りた。DVD1枚に40弱の作品のみでは、収録可能時間があまりにあまるから、特典映像が用意された。それはいわゆる本編のメイキングで、ガチンコを持った人物が各カットごとに映り、何度か同じ場面を撮り直している様子がわかる。これは本編を見た後ではやや退屈だが、カットごとに監督がどれほど腐心したかがわかる。大半は俳優がセリフを間違うために撮り直している。また、理想の場面が撮影出来た時は、ジャンが「エクセラン!」と発して、そのテイクが採用されたのだろうが、実際にそうであるかどうかは一度見ただけなので明らかではない。このメイキング映像も本編とほぼ同じ長さがあった。もう一編、俳優のカメラ・テストを撮ったものがあった。主要登場人物を立たせてあらゆる角度から撮るもので、本編の主役となる男女が仲よく寄り添い、時に男優が女優の肩から手を回して乳房の上に手を置いて恋人同士であることを自然に表現しているのは、本編撮影に向けての心の準備だろう。この男女は実際の恋人でも夫婦でもないから、カメラ・テストの段階でいとも気軽に男優が女性の乳房に手を置き、しかもそのことを全く女優が不思議な顔ひとつしないのは、日本ではあまり考えられない気軽さと言えばいいか、すでに映画の登場人物になり切っていて驚かされた。女優の名はシルヴィア・バタイユで、名字におやっと思う。解説書によれば、当時ジョルジュ・バタイユの妻であった。有名な女優で、ジャンは彼女を使って何か撮ろうと考え、それが本作になった。カメラ・テストの映像では特にわかるように、彼女は鼻がかなりずんぐりしている。今ならばただちに整形してほっそりとさせるだろう。ところが、そのずんぐりさが特徴となって忘れ難い顔立ちとなっている。整形が大流行してからは、真の美女はいなくなった。みなぺらぺらの薄さで、吹けば飛ぶようだ。シルヴィアはその点、当時の美女の一代表で、その美しさが本作の名作ぶりの理由にもなっている。
シルヴィアはパリの金物商のひとり娘アンリエット役を演じ、平凡な許嫁がいるという設定だ。父は太った男、母はぽっちゃりしてまだ色気が漂う愛想のいい女だ。父の母だろうか、ほとんど認知症寸前のおとなしい老婆も登場する。これら5人が天気のよい日に田舎にピクニックに訪れる場面から始まる。馬車は隣家から借りたものだ。その田舎は野原や小川があって、印象派の画家たちが描いた場所のはずで、ジャンのお気に入りであったのだろう。郊外にピクニックに出かけるのは現在と同じで、違うのは馬車が自動車になったくらいだ。ある宿に着き、早速5人は遊びに興じる。男は釣りを目指し、女はブランコで、せっかく田舎に来たのであるから、思いっきり遊ばねば損というはしゃぎぶりがよく伝わる。本作で特に執拗に映されるのが、アンリエットがブランコに乗る場面だ。どのようにして撮ったのか、カメラは揺れるアンリエットの胸から上部を捉え続ける。このような、思わずカメラの位置を想像させる場面はほかにもある。意表を突いた映像を求めたことは、いかにも画家の息子だ。そうした個性的で印象的な場面は映画全体の質を上げると思っていたのだろう。実際そうだ。また、白黒の映像は光と影であるから、これは西洋絵画の根本でもあって、色彩はなくても絵画性を宿すことが出来る。モーパッサンの小説の物語性をなぞるだけではなく、田舎特有の景色の生々しさをふんだんに捉え、鑑賞者も現地でピクニックしている気分になれる。たとえば、登場人物が小舟に乗って川を行く場面がある。カメラは乗船者の眼差しとなって、揺れる川面を大写しにする。映画の最後近くではその自然が急に雨に襲われる。これは予定していなかった場面で、雨に祟られて撮影が遅れた。これ以上は待てないようになって、小説にはないその雨を採り込んで撮影を続行した。その雨の場面が図らずもアンリエットの心中を表現することになり、映画は当初の計画よりも多彩さを獲得した。
アンリエットと母が並んでブランコをしている様子を見ているふたりの男がいる。彼らは宿に食事に来ていた。ふたりは馬車が宿に接近して来た時から注目していて、パリから洒落た身なりの女がやって来たと話し合う。彼らが宿の一室でテーブルに向かい合って食事する場面は、ジャンはなかなか納得が行かなかったようで、メイキング映像によれば何度か撮り直された。ふたりとも髭を生やし、片方のロドルフが痩せていて、もう片方のアンリは丸顔だ。アンリの方が好青年だが、どちらも男前というほどではない。ロドルフは積極的で、早速アンリエットを物にしようと考え、アンリの女に興味のないことを揶揄する。アンリは女なら誰でもよいというのではなく、理想像があるようだ。食卓の脇にある木製の閉じた小窓をルドルフが勢いよく開けると、10数メートル先にアンリエットがブランコしている様子が見える。これは画面のフレームの中にさっと新たな画面が舞台のように突如開くかのようで、とても印象的だ。次の場面では家の外からその室内を捉え、にやにや笑うルドルフが中心となる。彼の眼差しはか弱い獲物を前にした獣のそれだ。早速ふたりは外に出てアンリエットに声をかける。そして釣り道具をほしがっていた許嫁や父に竿と餌を与え、よく釣れる場所を教える。そのようにして邪魔者を追いやっている間に、アンリエットを口説こうというわけだ。ルドルフがアンリエットに言い寄ろうとすると、すかさずアンリが彼女を奪って去る。先を越されたルドルフは母で満足することにし、誉めそやす。その言葉にまんざらでもない母で、ここには都会の小市民に対するシニカルさが見て取れる。ともかく、気分よく田舎の空気を満喫しに来たのに、早速異性に声をかけられてはしゃぐ母と娘だ。純粋そうに見えるアンリエットであるし、また許嫁がいるにもかかわらず、軽々と男たちの申し出に応ずるのは、都会よりも田舎の人の方が狡猾と言うべきか。あるいは女はどこに住んでいても同じで、男に口説かれることを待っていると言うべきか、モーパッサンなら後者の見方だろう。ルドルフの考えはモーパッサンの若い女を漁る性癖に通じている。
婚約者の男を演じるのはいかにも平凡、あるいはそれ以下のぼんくらと言ってよく、どう見てもアンリエットとは似合わない。どうしてそのようなつまらない男とアンリエットを両親が結びつけようとしたのか。だがこれは現実にはよくあることだ。「似た者同士」が結婚するとは限らない。観客は許婚者の男性を一瞥してそう思うだろう。案の定、想像どおりに物語が進展する。アンリはアンリエットを舟に乗せて、緑豊かな岸辺に連れて行く。そこは誰もやって来ない。そういう場所に連れて行かれると、普通は拒否する。ところがアンリエットは男を疑うことを知らないのか、あるいは婚約相手にはない魅力に参ってしまったのか、たちまち岸辺で寝転んで唇を許す。最初はアンリの求めを拒否するが二度目は応じる。この場面もメイキングでは長々と映る。キス・シーンであるから、シルヴィアにとっては最も難しい場面であったに違いない。この最高に盛り上がる場面、つまりクライマックスを理想的に撮影するには、予めふたりに疑似恋愛をしてもらわねばならない。それが先に書いたテスト映像における仲睦まじさだろう。本作の撮影では監督の友人たちが同行し、またちょっとした場面に登場もした。それらの人物はイタリアの映画監督のヴィスコンティやフランスの写真家のラルティーグなど、当時のジャンの交友を知るには実に興味深い名が並ぶ。解説書を一度だけ読んだのでもう忘れたが、ジョルジュ・バタイユは同行したのだろうか。妻が出るからには行ったと思うが、男優との絡みを見て嫉妬しなかったのか。さて、小説ではどう描かれているのか確認していないが、アンリエットとアンリはそのようにして木陰で体を重ねて宿に帰る。その時に大雨が降り、アンリエットの心の動揺が反映される。それはピクニックの終わりでもある。婚約者の男や父はアンリエットとアンリとの出来事を知らない。何事もなかったかのように5人はパリに戻る。場面はそれから2年後に一気に飛ぶ。小説ではその間が若干描かれる。
ある日、アンリはひとりで舟に乗って、2年前にアンリエットを抱いた木陰に行く。すると、そこに先客があった。アンリエットとかつての婚約者だ。茫然とするアンリを見つけたアンリエットは、かたわらで眠っている夫から離れ、アンリのもとに歩む。アンリエットはその後何度もここを訪れていると言うと、アンリエットもそうだと応じる。そこで夫が起き上がったようなのでアンリエットは元の場所に戻り、アンリもそそくさと立ち去る。一度の触れ合いがお互い尾を引き、忘れ難い思い出になっている。これは悲劇か。そうかもしれない。モーパッサンの小説特有の苦い人生の結末だ。このふたりのその後はどう想像すればよいか。アンリエットが冴えない夫を棄ててアンリに走ることがまず考えられる。だが、それにはさらなる悲劇が伴う可能性が大だ。それをするのであれば、そもそも2年前のピクニックの後にアンリエットは結婚すべきではなかった。ずるずると決められた人生にしたがったため、後悔が募る。それが小市民というもので、モーパッサンはパリの金物商という設定の中に、美貌は持っているがごく平凡な女を想定したのだろう。一方のアンリの人物描写はどうか。女にさして関心がなかったのに、ブランコで揺れる彼女を見ていると、一瞬にして打ちのめされるものがあったのだろう。これも充分あり得ることだ。どういう仕事をしているのかわからないが、婚約者の男のように収入はないはずで、それは身なりからもわかる。彼女の父はそういう男には娘を嫁にやれないと考えるはずだ。また、アンリには彼女を何が何でも奪い取ろうというほどの勇気はない。こういった人間の複雑な感情は絵画では表現出来ない。父の絵画を誇りながら、息子は映画という新しい、そして可能性に満ちた表現に胸を躍らせた。そのことは本作一本で充分に伝わる。前述したように、ヴィスコンティがジャンのもとにいたことは、その後のイタリア映画の発展を思えば意義が大きい。それはまた絵画と映画のつながりと、イタリア絵画からフランス絵画へ、そしてフランス映画からイタリア映画へという影響の応酬の一端を示してもいる。