尊敬する映画監督としていいのかどうか、ファスビンダーはアメリカで映画を撮った後、スイスに引退していたダグラス・サークに会いに行った。サークはドイツ人だが、奥さんがユダヤ系で、ナチから逃れるために渡米した。
ファスビンダーはアメリカで映画を撮った後、スイスに引退していたダグラス・サークに会いに行った。サークはドイツ人だが、奥さんがユダヤ系で、ナチから逃れるために渡米した。ファスビンダーが感激したサークの作品は50年代のもので、6本を立て続けに見たようだ。この世で最も美しい映画と言うほどに感激し、その後の自作に影響を受ける。そうして出来た作品が以前このカテゴリーで取り上げた『四季を売る男』だ。それがどの程度サークの作品と関係があるかを知りたいが、そのためにはファスビンダーとサークの全作品を見なければならない。ファスビンダーのDVDはまとめて買ったが、サークのものはまだだ。中古でも4,5万円するので手を出しにくい。それで最も有名なのかどうか、安価で買える『風と共に散る』を昨年末に買った。それをようやく先日見た。56年の作品で、色がとても鮮明であることに驚いた。日本の映画では70年代のものでももう色褪せているものがあるが、サークの作品はDVD化する際に新たに焼き直したのかもしれない。ファスビンダーがこの作品を見てどう思ったのかは知らない。インタヴューで感想を述べているかもしれないが、彼の著作を読むのはもう少し後にしようと思っている。ついでに書いておくと、彼の『ベルリン・アレキサンダー広場』はようやくDVDとブルーレイが発売される運びとなった。そう言えばヘルツォークの映画も3枚ずつセットにされて発売が始まった。それはファスビンダーのDVDもだが、時代順に組み合わされていない。これはボックスによって売れ行きの度合いに極端な差が出ることを警戒しての措置だろう。『ベルリン・アレキサンダー広場』は10年ほど前にドイツ文化センターで5日ほど連夜通って見たが、内容をほとんど忘れた。DVDで見直したいが、手元にある全5箱を全部見終えてからと決めている。それはともかく、サークの本作は筋の運びといい、テンポといい、典型的なアメリカ映画で、ファスビンダーが影響を受けたとすればどういう部分かと首をひねる。この世で最も美しいという表現からは、映画に描かれる愛情だろう。
ファスビンダーが感激したサークの映画はメロドラマと言われる。日本ではこの言葉は正しく理解されているのであろうか。お涙頂戴の内容で、特に若い女性が好む恋愛悲劇といったイメージが強いと思うが、そうしたいわゆる女々しいと表現した方がよさそうな内容にファスビンダーが今さら心を動かされたのはどうも腑に落ちないと筆者は先入観があった。それでともかくサークの作品を見なければならないと考えた。『風と共に散る』は戦前の大作『風と共に去りぬ』にあやかろうとした雰囲気が強く、また題名からしてメロドラマにふさわしいが、原題は『WITTEN ON THE WIND』で、これは『風に記されて』の意味で、『風と共に去りぬ』を思い出すのは無理もないか。原作は45年のロバート・ワイルダーの小説で、脚本は別人、サークは監督だけを担当している。さて、見た印象は、さすがの名作で、無駄な場面が一切ない。あまりにもうまく編集されていることがかえって物足りないと言おうか、見ている間はハラハラさせられるが、見終わった数時間後にはすっきりと忘れてしまう。開高健はそうした映画こそが名作と言っている。作品が未完成の場合、その部分に納得出来ずに、いつまでも心に残る。その意味からすれば、『風と共に散る』は最高級の名作で、職人芸の極みを見る思いがする。これは俳優やカメラマン、作曲家や美術担当者、編集者や監督など、すべての分野の人たちが洗練されたプロであってこその仕事で、当時のハリウッドは名作をいとも簡単に量産出来る体制が完成していたと見るしかない。また、ドイツから移住したサークがアメリカでこうした作品を撮ったのは、ドイツ人の才能がアメリカ式に染まり切った結果であるし、そのことをファスビンダーがどう思っていたかの興味が湧くが、これもいつか確認したい。結論を少し言えば、『四季を売る男』はサークの作品とはおそらくどこも似ていないと思う。何もかも影響を受けるには、ファスビンダーはもう成熟し切っていたのではないか。また、先日感想を書いた『出稼ぎ野郎』は、「どこか青臭い」と表現したように、若い男女の純粋な愛を結末に持って来ていて、それはメロドラマのひとつの典型で、ファスビンダーがサークの作品に感動するのは当然であったと言えるかもしれない。
さて、『風と共に散る』はエイズで死んだロック・ハドソンと、60年代の日本のTVでも大人気をさらった『アンタッチャブル』の主役を演じたロバート・スタック、そしてヒロインはドロシー・マローンとローレン・バコールの関係を描くもので、一言すれば億万長者の子は愛情に飢えて不幸であることを物語の中心に据える。これは映画にはよくある話で、またいつの時代でも現実にそうである場合が多いだろう。映画を見るのはたいていは平均的な庶民で、そういう人たちの心を満たすには、億万長者も、いやそうであるからこそ、本当は不幸であることを描く方がよい。金が腐るほどあっても心が満たされないより、貧乏でもささやかなことに幸福を見出せる方がよい。そう観客は思って映画館を後にする。本作はそういった意図を持って製作されたのではないが、サークが原作を読み、それを映画化したいと思ったのは、愛情は金の多さとは関係がないことに同意し、また「似た者同士」が結ばれることが自然と考えたからだろう。この「似た者同士」という表現は最初の方に一度だけ登場する。映画の最初の場面は、ロック・ハドソン演じる石油会社の社員ミッチ・ウェインと、ローレン・バコール演じる同会社のニューヨーク支店に新たにやって来た秘書のルーシーの出会いだ。ミッチは言葉には出さないが、ルーシーの利発な言葉の受け答えに魅せられ、一目ぼれをする。そこでミッチはルーシーに「似た者同士」と言うが、これは口説き文句だろう。ミッチは本社のあるテキサスから社長の息子のカイル・ハドリーと飛行機でニューヨークにやって来たのだが、その理由は、おいしいステーキ・ハンバーグを食べるためだ。このことからわかるように、カイルは金はありあまるほどあって、またわがままな行動をする。カイルとミッチは少年時代からの友人で、カイルはミッチを頼りにしていて、どこへ行くにもお供をさせる。ミッチはカイルのボディ・ガードと言えばよいだろう。ロック・ハドソンは見事な体格で、また真面目さを漂わせ、50年代のアメリカの理想的な男性像を体現しているように見えた。筆者は彼の名前はよく知っていたが、その風貌と演技をしげしげと見たのは今回が初めてだ。比較的貧しい出のようで、エイズであることが公表されてから同性愛者であることが明るみになったのではなかったか。
カイルはミッチがルーシーを部屋で対面した後すぐにやって来て、たちまち魅せられる。ミッチと同じように一目ぼれをしたのだ。ミッチは当然遠慮する。そうして強引なカイルはプレゼント責めでルーシーを落とす。正確に言えば、落としたかに見えたが一度は逃げられる。後を追って真剣な愛であることを伝えてふたりは結婚する。カイルの父はテキサスの人口2,3万の村では一番の金持ちだ。まともな人物で、ミッチの父親を尊敬している。そして、ミッチに娘のマリリーをもらってほしいと思っている。マリリーとカイル、そしてミッチの3人は幼馴染で、村外れの池のほとりの隠れ場でよく遊んだ。田舎であるから、そういう人間関係は後々まで人生を左右する。マリリーはミッチのお嫁さんになりたいと思いながら成長したが、ミッチは妹のように思うばかりで、結婚相手とは考えない。これはあまりの経済的格差で「似た者同士」ではないからでもある。大人になったマリリーは色気でミッチに迫るが、ミッチは指一本触れない。マリリーとミッチが結婚すれば、石油会社をもっと大きく成長させ、悲劇は起こらなかったであろう。ひたすらマリリーはミッチにすがるが、無視されるたびに彼女は村の若い男と肉体関係を結び、そのことが村中の男に知れわたる。そうしてミッチから叱られたいマリリーだが、ミッチは彼女のことが眼中にない。それは、カイルもまた弱い人間で、酒好きのあまり、よくトラブルを起こすからだ。その面倒を見ることに忙しいミッチで、ハドリー一家と関わることに嫌気が差している。そこにルーシーが現われた。だが、彼女は人妻だ。カイルとルーシーが何のトラブルもなく結婚生活を送り続けるのであれば、このドラマは成立しない。そこで用意されているのは、カイルの精子の勢いが弱く、ルーシーがなかなか妊娠しないことだ。カイルは医者に診てもらって自分の生殖能力を知る。そして酒浸りになる。マリリーの男遊びとカイルの飲酒に悩まされ、ついに父はある日、階段から転がり落ちて死ぬ。この場面は先月書いた『風の中の牝雞』の田中絹代の演技を思い起こさせる。製作は本作が後なので、日本映画に影響を受けたかもしれない。
良識ある父親が事故死してハドリー一家は終わりかと思われるが、ミッチがマリリーやカイルをどう立て直すかが終盤の見どころになる。だが、精神的に弱い兄と妹はそう簡単に家業に邁進出来るはずがない。悲劇はさらに続く。それは幼馴染であった3人に大きなひびが入ることだ。自分は子をもうける能力がないと思い込んでいるカイルの前に、妻ルーシーが妊娠を告白する。その直前、ルーシーがミッチと一緒に車で町まで出かけたことをマリリーは目撃していて、兄に対して妻がミッチと浮気しているとほのめかす。車で出かけたのは医者に診てもらうためで、ルーシーはカイルの子を妊娠していることを知った。ところが妻の言葉を信用せず、子の父はミッチであると邪推する。マリリーはミッチが振り向いてくれないために嘘をついたのだが、そういうところがある女性とわかっていたのでミッチは彼女を愛することが出来なかったのだろう。嵐の吹きすさぶ夜、カイルは酒をらっぱ飲にしながら黄色のクラシック・カーを運転し、自宅に向かう。そして、ルーシーの目前でカイルは居合わせたミッチに銃で脅す。ふたりはもみあいになり、銃が暴発してカイルは玄関の外に出て死ぬ。邸宅の地下室には黒人の召使夫婦が住んでいるが、ミッチがカイルに向かって「殺す」と言ったことを裁判で証言する。そのほかにもミッチに不利な証言が相次ぐ。一番重要な証言者はマリリーだ。ルーシーはよそ者であるから、ミッチと結託して夫を殺したと疑われている。カイルが死ぬ直前、ミッチはハドリー社を辞めてイランの石油会社に向かうことを父に話していた。そしてルーシーがカイルの酒癖の悪さに耐えかねていたことを見て、愛を告白していた。「似た者同士」が回り回って結婚出来るかどうかは裁判次第だが、ミッチがルーシーを見初めたことをマリリーが許すはずがない。証言台に立ったマリリーはミッチが撃ったと証言する。このことでミッチが殺人罪と判決されるかと思いきや、マリリーは当夜の出来事の真相を言う。それは彼女に残されたミッチへの最後の愛の告白だ。この場面は感動的だ。
マリリーはミッチを手に入れることは出来なかったが、彼を殺人犯の疑いから解放した。映画の最後ではマリリーが父親の机に就き、社長を継ぐ意志がある様子が描かれる。マリリーが目覚めたのは、ミッチのルーシーへの愛が本物と思ったからだろう。その愛の純粋さと強さの前にマリリーは身を引く決心をした。いくらミッチが憎くても、まさか殺人犯として刑務所に送ることは出来ない。そこまで悪人ではなかったのだ。カイルも同じで、兄妹は心が少し弱かった。それは金持ちゆえか。そう考えてもよし、そうでなくてもよい。本作はカイルを演じるロバート・スタックとマリリー役のドロシー・マローンが目立っていて、ふたりは本作で受賞した。ロック・ハドソンは颯爽とはしているが、難しい役ではない。いわゆる悪役の方が演技力を要する。本作で興味深いのは、石油会社の金持ちを描くに当たってのさまざまな小道具だ。たとえばルーシーが勤務した初日、事務所で10点程度のポスターを並べる場面がある。それらはみな「ハドリー社」の文字がさりげなく印刷されている。同じことは同社の名前がパトカーのドアに記されていたり、紋章が何度か登場するところにも見られ、50年代のテキサスの匂いがぷんぷん漂う。実際の油田を背景にした場面や、ミッチが油田探索の地図を広げてカイルの父と話し合ったりするなど、油田を掘り当てて大金持ちになったハドリー家を表現することには、説明さ加減が多少鼻につくが、当時のテキサスの典型的な成金を示すにはとても効果的だ。大金持ちになってからのカイルとマリリーはミッチと過ごした子ども時代こそが桃源郷であるという思いを拭い去れず、昔のままの純粋さを残すミッチが羨ましかったと見てよい。では兄と妹が貧しさに戻れるかと言うとそうではない。であるからなおさらやけになって日々を過ごす。地元の安酒場でカイルが飲んだくれる場面がある。1本5ドル程度のトウモロコシのスピリッツを飲む様子を見て店主がもっといい酒を飲めるのになぜかと訊く場面がある。酔いたいから飲むカイルだが、質の悪い安酒をあおるのは、地元のごく普通の人たちと同化したい思いからではないか。自分だけが金持ちになったことがさびしいのだ。腐るほどの金があっても、人のまごころをつなぎ留めておくことが出来ないことを知っている。そういう金持ちは少なくないだろう。筆者が中1の時、木材問屋の大金持ちの同年の息子が親の財布から1万円札を頻繁に引き抜いて、周囲にいる平凡な同世代の子を手当たり次第に寿司屋で食べさせていた。当時の1万円は今の10万くらいか。寿司屋の主はいつも親と来る子なので別段不思議にも思わなかっただろう。筆者はそいつから誘われたことが2,3回あったが、無視した。さびしい、そして魅力のない金持ちには接近したくない。