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●『出稼ぎ野郎』
他的なところは誰にでもある。異質な存在を排除しようとするのは本能であろう。ところが異質であるはずの男女が交わって子孫を残すのであるから、他者を同化することも動物の本能と言ってよい。



今日取り上げる映画はファスビンダーの初期作だ。1969年の作で、同年は『愛は死より冷酷』を撮り終えていた。2作を比べると、前者はギャングもので、本作は西ドイツ、特に映画の舞台となったミュンヘンの街中の若者の生態を描き、また作風はそうとう異なる。本作の方がより様式的で、舞台劇を意識した仕上がりとなっている。最も様式的な場面を今日は3枚の写真で紹介しておく。最初は通りに面した集合住宅の外壁にたむろする様子で、登場人物の組み合わせが異なって何度も同じ場所が登場する。この場面では小鳥のさえずりが聞こえ、また通りを行く電車の音なども漏れて来る。カメラを固定しているので、どういう建物か、また通りの幅やこちら側の様子は一切わからない。2枚目の写真はその建物につながる道と考えてよいが、突き当たりが駐車場になっていて白い車が2,3台停まっている。そのほとんど突き当たりから登場人物のさまざまなペアがゆっくり語り合いながら歩いて来る。カメラがふたりとの距離を保つのは最初の写真と同様でも、人物がこちらに向かって歩いて来るので、カメラも同じ速度で後ずさりする。この場面では必ずピアノ音楽が流れる。この最初と2枚目の写真に代表される場面はみなよく晴れた陽射しのもとで撮影されている。これは本作の特徴で、『愛は死より冷酷』のように夜の街の場面が全くない。また不安を誘う音楽も使われないので、全体に明るい印象が強い。これはファスビンダーの作品では珍しいのかもしれない。この明るさがとてもよい。ミュンヘンのごくありふれた市街の一画の空気をよく捉えているように思える。『愛は死より冷酷』はどちらかと言えば作り話の度合いが過ぎているが、本作は若者の生活をごく自然に描いていて、映画監督としてデビューしたての頃にこのような作風の違いを持っていたことに感心する。それは映画作りの一方で舞台にも力を入れていたためだ。3枚目の写真で注目したいのは背景で、真っ白だ。ファスビンダーは背景を強く意識し、白にこだわったのは『愛は死より冷酷』も同じで、これも舞台劇への思いによるものだ。
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 3枚目の写真からわかるように、筆者は本作を英語字幕のDVDで見た。去年秋に一度見て昨日も見た。比較的簡単な英語であるし、また英語がわからなくても本作が言いたいことはほとんど誰でも理解出来ると思う。筆者はファスビンダーのDVD全集を買ったので、日本語字幕ヴァージョンも持っているが、それを紙箱から引っ張り出してもいない。英語がどのような日本語訳になっているかの興味がないではない。だが、ドイツ語から英語へ移すのと、日本語へ訳すのとでは、前者の方がまだ構文を崩していないから、ファスビンダーの言いたいことをより理解するには英語字幕の方がよいと考える。その英語も字幕であるからどこまで忠実に訳しているかとなると、かなりはしょってはいるだろう。本作のほとんど最後で男ふたりが軍に志願すると語り合う場面がある。ひとりの男は海軍に入ってU-Bootに乗りたいと言う。そのUボートを字幕はSUBMARINEとしていた。もちろん間違いではない。ドイツの潜水艦はUボートが代名詞になっている。Uボートは戦前までのものかと思っていると、戦後も潜水艦はそのように呼ばれ続けたことがわかる。さて、ドイツ語をどう訳すかとなると、本作の題名がまず問題だ。Katzelmacherは辞書によれば「イタリア人の綽名」とある。元来は木製の台所用具を造って生活していた南チロル地方の住民のことと説明が続く。Katzelの原意は「木製の水汲み柄杓」で、ドイツ人からすればKatzelmacherは南方人に対する侮蔑語なのだろう。これをどう訳すかとなると、本作の意図から「出稼ぎ野郎」ということになるが、「野郎」は多分に当時のフランス映画の邦題に倣ったもので、本作が撮られた69年をよく示していると言うべきだろう。蛇足ながら、ザッパのアルバムでは原題に「野郎」に相当する言葉がないにもかかわらず、「いたち野郎」と題されたものがある。この命名もヌーヴェル・ヴァーグの映画をよく見た当時の人たちによるものだろう。
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 『愛は死より冷酷』ではファスビンダーはハンナ・シグラとともに主役を演じたが、本作もそうだ。また本作には後のファスビンダーの映画に登場する俳優が何人も出ている。これらファスビンダーの仲間で、ファスビンダー組と言ってよい。そう呼べば当然ファスビンダーが抜群の存在感を持ったボスということになるが、それは本作を見ればよくわかる。確かに個性豊かな男女が全部で10人ほど出て来るが、ファスビンダーは彼らとは違う貫禄がある。それは周囲を圧するというものではなく、きわめて純粋と言えばよいか、とにかく目立ち、そして魅力的なのだ。筆者はファスビンダーの映画のどこに惚れたかと言えば、彼の表情だ。男が男に惚れると言えばいいか、前に書いたように、彼が同世代であれば、近づきになりたい人物の代表だ。人間的魅力に溢れていると言えば表現が単純過ぎるが、おそらく彼の周囲に集まった人たちはみなそういう思いを抱いたのではないだろうか。これも蛇足になるが、ザッパにもそういうところがあって、たくさんのミュージシャンがいつも集まった。映画は音楽以上に多くの人を集め、動かす必要がある。どういうフレームにどういう形で俳優を収め、どういう演技をさせるか。これは指揮者と同じような、何もかもわかった総合的な才能を必要とする。そしてファスビンダーはよく自ら演じたので、音楽で言えばピアノを弾きながらオーケストラを指揮したモーツァルトのようなものだ。モーツァルトは34歳、ファスビンダーは38歳で死んだから、夭折した点でも似ている。多作であった点でもそうだ。話を戻して、本作ではファスビンダーがギリシアから出稼ぎにやって来た男を演じている。映画の半ばあたりで登場し、街にたむろする若者たちに波紋を引き起こす。ハンナ・シグラは彼の目の光に魅せられ、若者たちの中ではただひとり彼を養護し、ギリシアに行くことを決意する。また、その他の若者もそれなりに身の振り方を決める。
 60年代末期の西ドイツは外国人労働者が多かったのだろう。でなければ本作の主題を見つけられなかったのではないか。西ドイツは日本と同じように高度成長が目覚ましく、外国からの労働者を必要としたのだろう。だが、本作では若者たちは仕事がなくてみなぶらぶらしている。であるからこそ、最後に軍隊に入ろうと意見する者もいる。また、若者たちにあまりいい仕事がなかったからこそ、外国人労働者をより排斥したのではないか。本作では若者たちはファスビンダー演じるヨルゴスを最初イタリア人と思う。ところがギリシア人で、経済事情はイタリア以上に厳しかったであろう。ギリシアは昨夜のTVニュースでも紹介していたように、失業率が若者では6割に上っている。本作から半世紀近く経ったのに、ギリシアはさらに貧しい国になったかのようだ。一方の西ドイツは東と統合してドイツとなり、ヨーロッパでは最も豊かな国のひとつになったが、その陰には外国人労働者の受け入れが続いた事情もある。80年代になると韓国など、アジアからも大量に労働者がわたった。また、そうした結果、右翼が勢力を増し、本作に描かれる問題が全く改善されていないようであることがわかる。本作の冒頭、ヤアク・カルズンケ(Yaak Karsunke)という男優の言葉が引用される。英語字幕を噛み砕けば、「無意識に古い間違いを永続させるより、新しい間違いを冒す方がましだ」というものだ。ヤアクは『愛は死より冷酷』その他、ファスビンダーの映画に登場している。また本作はマリー・ルイゼ・フライサー(Marie Luise Fleisser)に捧げられているが、この女性は20世紀に入ってすぐに生まれた文学者で、ファスビンダーは彼女を書物を愛読していたのだろう。彼女の著作が日本でどれほど訳されているのかは知らない。ファスビンダーにとっては母親か祖母世代で、第1,2次大戦を経験し、また戦後ドイツも知っているので、敬愛すべき点が多々あったと思える。こうしたことは本作の日本語版DVDの解説に書いてあるだろう。それを読めばいいのに、面倒でもあるのでこのまま進む。
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 本作に登場する若者はみな金欠で、また性の処理の悩みを抱えている。これはいつの時代でも共通する。ハンナ・シグラ演じるマリーはエーリッヒの彼女だ。だが、彼は働かず、また何をしていいのかわからないのか、悶々とした日々を送り、マリーに暴力を振るったりもする。エーリッヒの友人にパウルがいる。彼は年配の男に誘われ、危ないアルバイトをしている。見つかれば警察沙汰になる。そのことを彼女のヘルガはたしなめるが、やはり暴力的に扱われる。ある日彼女はパウルの子を孕むが、それを知ったパウルはエーリッヒに相談し、暴力を振るえば中絶すると言う。実際そのようになってしまうが、それでも彼女はパウルから離れない。本作に登場する若者はみな昔は同じ地元の学校を出たという設定のようだ。貧富の差があるから、卒業後は付き合わない者も出て来る。そんな女性としてエリザベトがいる。彼女の両親は描かれないから、死んだのかもしれない。彼女はいくつか部屋のある家に住んでいる。頭の禿げた、背の低いペーターと同棲しているのはいいが、エリザベトは金の盲者で、ペーターが働かないことに業を煮やし、追い出そうとする。ところがそこは男女の仲であるから、また何事もなかったかのように暮らす。彼女はパウルやヘルガ、マリーらのグループには近づかないようにしている。自分は金持ちで身分が違うと思っているのだろう。エリザベトとは反対に金に困っているロウジーがいる。彼女はパウルやエーリッヒなど、金をもらうためなら誰とでも寝る。彼女は女優になるのが夢で、そのカメラ・テストを受けたりもするが、そのための費用は自分持ちであるから、厳しい現実が明らかにされる。それに女優になるには若いうちで、もう数年もすれば賞味期限切れとなる。だが彼女は自分がTVに出て、地元の友だちの鼻を明かしたいと願っている。彼女のもとに最もよく訪れるのはフランツだ。立て襟のジャケットを着て、金はそれなりに持っている。それは真面目に働いているからだ。女を買うくらいの金はいつも持っている。これらの仲間にもうひとりグンダという女性がいるが、ヘルガやマリーほどに美人ではなく、またロウジーのように売春はしたくない。どこにでもいるような平凡な女性で、また噂話が好きで法螺を吹く。
 彼らがたむろしてところにヨルゴスが通りかかる。ギリシアからの出稼ぎで言葉はほとんど通じない。パウルとエーリッヒはたちまち敵愾心を抱き、いつか袋叩きにしようと画策する。局部を切り取るリンチをしてやろうなどと、生々しいことをパウルはエーリッヒに相談する。ヨルゴスの住まいはエリザベトの家だ。守銭奴の彼女はペーターの部屋にヨルゴスを同居させた。そのことをパウルらは非難するが、月150マルクで貸していることを知って驚く。それが法外な家賃であることをヨルゴスは知らない。パウルは外国人労働者はドイツにやって来て労働力の助けになり、儲けた金をドイツに支払う現実に満足する。これはいつの時代、どの国でも大なり小なり同じだろう。それほどに外国人労働者は差別され、搾取されている。そのことをファスビンダーは訴えたかったのかもしれない。さて、ヨルゴスと同じ部屋で寝起きするペーターは、パウルやエーリッヒ、グンダのいる前でヨルゴスの局部の大きさが立派であることを言う。その時のみんなの無言の反応が面白い。右端に座っていたグンダは何か思うことがあったようで、ある日道ばたでヨルゴスに出会い、声をかける。彼女はいるのかと質問すると、それを最初は理解しないヨルゴスだが、セックス・フレンドのことかを思って、いないと返事する。その理由をグンダは、自分が理由かと訊く。それを否定したヨルゴスは即座に彼女から離れて去る。この時のふたりの話は含みがある。グンダは明らかにヨルゴスの性器に関心を抱いて声をかけたのだが、自分を誘おうとせず、あまりに素っ気ない態度に腹を立てた。そしてヨルゴスの悪口を仲間に言いふらす。自分はヨルゴスに押し倒されて辱しめを受けたと言うのだ。ところが、マリーだけはそのことを信じない。彼女はエーリッヒの暴力から彼と別れ、今はヨルゴスの純粋な眼差しに憧れているのだ。ヨルゴスは結局パウルたちに袋叩きにされる。ヨルゴスはなぜ自分がそんな目に遭うのかわからない。それを慰めるマリーで、公園のベンチでふたりはあれこれと言葉少なに語り合う。ヨルゴスはマリーに一緒に美しいギリシアに行こうと誘う。だが、彼には妻も子もある。それを知りながらマリーは彼について行くことを決心する。マリーは超ミニのワンピースを着て、エーリッヒらからは淫売だと言われている。それを言えば本作に登場する若者はすべて誰とでも寝るようなフリー・セックス主義者で、マリーだけが性にだらしないとは言えない。
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 ファスビンダーの青年時代はおそらく本作のような人間関係であったのだろう。ヨルゴスはパウルによって共産主義者の烙印を押されるが、当時の東西ドイツの緊張を思えば、若者たちが自由主義を標榜し、外国人労働者を排斥しながら、フリー・セックスに浸っていたことは充分想像出来る。映画の冒頭の言葉における無意識の状態で続く過ちは、本作で描かれるようにまず人種差別だ。ファスビンダーは後にユダヤ人をあまりに紋切り型的に描いて批判を受けるが、筆者はその脚本を読んでいないので、彼がどこまでユダヤ人嫌いであったのかはわからない。性に関しては男女どちらも愛することが出来たが、当時は今ほどにゲイの関係は認められていなかった。本作では女性と男性のベッド・シーンはあるものの、男同士、女同士のそれはないし、また同性愛のほのめかしもない。それが描かれていれば、本作はもっと過激な作品として別の評価を受けたであろう。マリーがヨルゴスに惚れるという設定は、無為に過ごす若者たちにあっても、純粋な愛を求めてやまない思いがあったことを示して、明るい結末を形成している。それは本作が室内を描く際にも夜の場面がないことと呼応している。マリーとヨルゴスの将来は多難であるのは充分想像出来るが、それでも観客は彼らが純粋な愛によってひとまずはともに行動することを知って、いいものを見た思いがする。筆者もそういうように描いたファスビンダーが好きだ。これは彼が映画監督として出発したばかりであったからか。マリーとヨルゴスの将来に暗雲が待っていることは、予想出来はするが、それを言えば誰の人生も同じだ。いつか人間は老いるし、また死ぬ。それを暗雲と捉えれば、それの訪れは不可避であるから、それまでの間は信じる者に付き添って行くことを幸福と思うしかない。本作はそういった男女の純粋な愛を謳い上げたもので、青臭いかもしれないが、ファスビンダーの初期作として忘れ難い。
by uuuzen | 2013-02-15 23:59 | ●その他の映画など
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