帆柱を抜いたうえで船全体をクレーンで吊り下げて陸地に移動し、底にこびりついたフジツボなどを洗浄したことが昨日紹介した菱垣廻船のサイトに書かれている。
帆走はごくわずかな期間であったのに、船底にしつこい汚れがこびりついたことは、菱垣廻船を建物の中に収容しなければ、劣化を早めることは目に見えている気がする。江戸時代には船底のフジツボなどを定期的に除去したのであろうか。千石船が一艘も伝わらなかったのは、陸上の木造建築に比べて木造船の寿命が短かったためもあるだろう。それに蒸気船の威力を見て大型の木造船はもはや時代遅れと悟ったはずだ。菱垣廻船を復元し、試航させた後は室内に固定しての展示となったが、「なにわ海の時空館」のガラス・ドームは海に浮かぶので、陸に上がったとは言い切れない。大津波が襲ってドームを破ると、菱垣廻船だけは海上に浮かんで無事となるかもしれない。そのことを予想して海にドームを建設したかと言えば、廻船は同館の十数分の1の10億円で済んでいるのでそれはないだろう。それはともかく、クレーンで吊り下げれば移動は簡単で、船底を洗浄し、館内に展示することはそんなに大問題ではなかったと思う。この館を訪れた直後、ビデオ・デッキを購入し、古い録画テープを一か所にまとめ、試しに映画を1本見た。3倍速で92年に録画したヴェルナー・ヘルツォークの「フィツカラルド」だ。これが見たかったのでない。たまたま手に取ったのがそれであった。実のところ、テープのラベルにはもう1本「イヴの総て」の文字が書かれていて、家内にそれを見せたかったので手に取った。なぜ見せたかったかと言えば、それを録画した20年前、家内は見ているのだが、数年後に誰かにその映画について話し、テープを貸してほしいと言われながら、筆者が別人に貸していて、それを返却してもらった時には、家内はすでに誰かに貸すことをすっかり忘れていた。それで、出て来たそのテープを家内は早速見たが、20年前のようには感動しなかったようだ。その次に入っているのが「フィツカラルド」だ。これは筆者が見たかった。この映画は82年の製作で、日本での公開時に家内と映画館で見た。その時あまり感動した記憶がない。10年後に深夜TVで放送された時はもう一度見たいと思って録画した。二度目もこんなものかという気がしたが、ヘルツオークの映画は可能な限り見ようと今も思っていることもあって、ほかの監督の映画にようにいいとか悪いとかいった評価を抜きに別格としてヘルツォークの才能を高く買っているので、「こんなものか」という表現は「ヘルツォークにしては」というただし書きつきだ。
では彼の凡作かと言えばそうではない。今回20年ぶり、三度目に見て思いがまた違った。クラウス・キンスキーが亡くなった後、ヘルツォークは彼を偲んでドキュメンタリーを1本撮っており、その中で「フィツカラルド」の名場面がふんだんに引用されていたので、三度見たというのは本当は正しくないかもしれない。キンスキーとの関係をドキュメンタリー作品として残しておこうとしたところに、ヘルツォークとキンスキーの悪縁といったことが見えるが、一方でヘルツォークがドキュメンタリー作家の素質がかなり強いことも示している。「フィツカラルド」は半ばドキュメンタリー映画と言ってよい。ドキュメンタリー映画は現実を映像で示そうとする。「現実は小説よりも奇なり」とよく言われるが、映画は映像上のことに過ぎない。であるからこそ、「なにわ海の時空館」の菱垣廻船は、その実物の前に立ち、内部に立ち入ってみるという現実の体験が大きな意味を持つ。その点、ヘルツォークはどのように考えているのだろう。映画がどこまで現実の迫力に迫ることが出来るか。しょせん映像は「絵に描いた餅」だが、それでも誰もやらないことを実践する可能性は残されている。これはどんな表現者でも思い抱くことだ。あらゆる小説が書かれ、あらゆる技法であらゆる絵画が描かれて来たのに、今後も小説家や画家は出て来る。自分だけの何かが可能であろうと、一種無謀なことを思うからだ。ヘルツォークは人間がそもそも無謀なことをして来たことをよく知っていて、そういった狂気と言ってよい事柄に目を向け、そのことを映画の主題にすることをもっぱらとする。それを映像で示すには、撮影されたものが途方もないことを実行しているということを鑑賞者にわからせるしかない。それが映像の持つ大きな力だが、コンピュータ・グラフィックスの時代になって途方もないことを表わす映像は現実をそのまま捉えずに画面の加工で容易になった。その技術が今後もっと進化すると、CGとは誰も気づかない精巧なものが生まれるだろうが、一方で人々はデジタル時代の画像は、最初から嘘が入り込んでいることを知っている。82年当時はまだフィルムを使い、ものすごい行為をしている場面を撮影すればものすごい力を持つことを、監督も鑑賞者も信じることが出来た。もちろん模型を使ったり、多重露光による映像の組み合わせ技術はもっと昔からあったが、それらはCGとは違って、鑑賞者を騙すと言うより、作り事を前提として楽しもうという暗黙の了解が作り手と受け手の間にあった。こう書けば、CGを使った映画はつまるところ迫力に欠けるという結論になりそうだが、CGを使ったドキュメンタリー映画があり得ないことを思えばそれは正しく、この「フィツカラルド」を引き合いに出せば決定的に言えるだろう。となればヘルツォークは幸福な時代、つまりアナログ時代の監督で、デジタル時代からは取り残されたことになるかと言えば、去年3月、本ブログの連続2500日目の投稿となったヘルツォークの新作
『世界最古の洞窟壁画 忘れられた夢の記憶』からわかるように、3D撮影を採用するなど、時代の流れはよく把握している。
本作の途轍もない映像は、蒸気船がアマゾンの奥地でインディの人海戦術によって陸をよじ登る場面だ。模型やCGを使えば簡単に出来るものを、ヘルツオークは長期ロケを行なってその映像を撮りたかった。丘の頂上を登った船は今度は坂を下ってまた川に浮かべねばならない。そして映画のストーリーとしては、その丘越えを果たした、つまり主人公のフィツカラルドの目論見の成功を約束する作業はインディオの妨害で頓挫する。せっかく白人たちに協力した彼らがなぜ汽船を今度は急流に飲み込ませたか。これは本作におけるドキュメンタリーではなく作り話としての部分を代表することだが、アマゾンの奥地に住む19世紀末のインディオたちは白い衣服の神がいつかやって来ることを信じて暮らしていたという設定だ。フィツカラルド演じるクラウス・キンスキーは最初から最後まで白の麻のスーツにつばの広い白い帽子を被る。それがインディオたちには神の到来に見えた。そしてフィツカラルドの言うままに船を丘に引き揚げ、また川面に下ろす。ところが死者が出るなどして。インディオは船をアマゾンの急流に飲み込ませて厄払いを実行した。この急流画面の船は水流が粗く、模型の船であることはすぐにわかるが、映画の最後は船がぼろぼろになりながらも出港地に戻る必要があって、本物の船を急流に飲み込ませる危険を冒すことは出来なかった。そのことも賭けとして実行していれば本作はもっと迫力も獲得したが、急流の中で沈没するとせっかく丘を船が登った映像も無駄になる。そこは映画を完成させるために模型を使わねばならない事情があった。そういう作り事の部分はあっても、森の樹木を伐採し、汽船を人力で少しずつ丘に登らせて行く場面は目を疑う。ヘルツォークはその場面を見せるためにこの映画を撮ったのだ。それがどうしたと思う人はあろう。本作は物語もさることながら、映像が実際に人間が行なったものであるという現実性により意味と説得力がある。これはCGとは正反対の考えで、多くの人力を費やした無謀とも言える行為はそれだけ人を圧倒することを証明している。その圧倒性にどういう意味があるかという意見が次に出るかもしれない。ヘルツォークが言いたいのは、人間はそのように無茶をして来たし、今もしている動物であることを言いたいのだろう。
それでも本作の冒頭は未明のアマゾン流域のジャングルを捉え、人間の行ないは結局自然にいつかは敗れるといったナレーションがある。これは本作撮影当時では大きな意味を持つかもしれない。アマゾン流域のジャングルは80年代に急速に切り開かれ、スティングなどの一部のロック・ミュージシャンはその森を守る運動を起こした。ところが始まった開発の勢いは衰えを知らず、やがてあまり報道されなくなった。今ではどうなっているのだろう。グーグル・アースで森の破壊度がわかるだろうか。本作ではアマゾン流域の大きな木を切り倒す場面が出て来る。汽船が丘を登る場面はそれこそ丘全体を丸坊主にした。それは森の破壊そのもので、ブラジルやペルー政府の許可を得ての撮影に違いない。そして許可が出たのは流域が開発の機運のさ中にあったからに違いない。となれば、ヘルツォークは逆算の思考によってこの映画を構想したのかもしれない。つまり、アマゾン流域のジャングルがどんどん消えているからには、それに乗じて100年前の物語を映画化出来ないかという考えだ。おそらくそうであったと思う。どうせ開発される地域であれば撮影許可は出やすい。ところが、そういう開発は本作が舞台とする19世紀末にもあって、そのことを揶揄する意図での映画化であったとも言える。そうなれば、ヘルツォークはスティングと同じように、根本はアマゾンの森を守れという考えであったことになるし、そのことが冒頭のナレーションが表わす。南米に白人が入植して以降の破壊はアマゾンの森をほとんど消してしまうところまでに至ったが、本作はそのことを批判し、安易に環境保護を訴えるものではなく、冒頭のナレーションに表現されているように、人間がどんなに途方もないことをしようと、いずれ自然は盛り返して人間の痕跡を消すという、自然保護主義者から見れば楽観的と謗られかねない態度だ。
ヘルツォークはオペラの演出をしばしば行なっている。以前に書いたが、筆者はヘルツォーク演出のベルディの『ジョヴァンナ・ダルコ』のDVDを買ったものの、まだ見ていない。ヘルツォークのオペラ好きは本作のフィツカラルドに投影されている。彼はアマゾンに鉄道を敷く事業を起こして失敗し、今は愛人と暮らしながら製氷業を小さく営んでいる。大のオペラ好きで、世紀のテナー歌手のカルーソーがブラジル北部のアマゾン流域のマナウスのオペラ劇場にやって来ることを聞きつけて、ボートを日夜漕いで演奏会にやって来る。オペラ好きの事業者は当時は珍しかったのだろうか。オペラ・ハウスが建設されるほどであるから、金持ちでしかも趣味人はオペラを好んだのだろう。だが、本作ではフィツカラルドとは対照的にゴムの製造で大金持ちになった太った男が登場し、オペラに関心はない。本作で面白いのはここだ。フィツカラルドは単に金儲けのために未開拓のアマゾンのジャングルに入り込み、そのために汽船を丘を越えさせるのではない。目的は金ではなく、自分の住む地域にオペラ・ハウスを建てることなのだ。簡単に言えば芸術のために金が必要なのだ。そしてそのためには無謀な行為をいとわない。三度目に本作を見て筆者が最も感じ入ったのは、フィツカラルドの愛人が彼に汽船購入のための費用をぽんと出したことだ。その場面を今日は3枚の写真で説明する。汽船を購入したのは、ゴム業者がまだ手をつけていない奥地に入り込むためだ。フィツカラルドはその場所の説明を太った成金から説明を受ける。どう考えても不可能な航路で、契約の際に公証人は自覚を促す。そしてペルーの法律では、契約から9か月以内にその土地に踏み込んだことを証明せねばならないと言われる。フィツカラルドはそれは承知で、「誰もやらないことをやる」と返事し、隣りに座っている妻は「金持ちになる」と重ねる。これはフィツカラルドと愛人の思いに差があるかと言えばそうではない。金持ちになってオペラ・ハウスを建てることでふたりの考えは一致している。これが実によい。芸術家の奥さんとはこうあらねばならない。女が金目的だけでは、芸術家の男はすぐに逃げ出す。本作を見て救われる点は、フィツカラルドの狂気に嬉々として同調する愛人だ。彼女はそれこそもっと金持ちの男と暮らすことは出来るはずだが、それをしないのはフィツカラルドの途方もないロマンに惚れているからだ。
男が女に夢を語ることは毎度のことだ。たいていの女はそれにころりと騙される。そして騙されたとわかっても仕方なしについて行く。それが現実というものだが、本作では男は夢をかなえるべく、一世一代の賭けに出る。もっとも、鉄道を敷く夢も同じようなものであった。そういった桁違いの夢を持っていた白人が100年前は南米にたくさんいたのだろう。ヘルツォークはその末裔だ。大きな夢を抱き、それに実際に賭ける男が多いことは、破れる者もまた多い。大部分がそうだ。本作でも案の定フィツカラルドは夢をかなえられない。船の丘越えに半年ほどかかり、結局9か月以内に帰港出来なかったのか、汽船は太った成金に買い取ってもらう。このあたりのことが三度見てもよくわからない。丘を越えた時点で未踏地に入ったことになったはずで、土地の権利は法的に獲得出来たのではないだろうか。船が港に戻るのは絶対条件であるから、急流に飲み込まれたことは予想外の出来事にしても、土地の権利を得ることの支障にはならない。おそらく9か月以上経ってしまったのだろう。船を売った代金でフィツカラルドはオーケストラを雇い、それを船上で演奏させる。フィツカラルドは葉巻をくゆらせながら満面の笑みを浮かべて船の屋根に立ち、その姿を川岸の愛人が大喜びするところで映画は終わる。金儲けは出来なかったが、賭けには買った思いだ。そのことを愛人は賛美する。使い切れない金を持ったまま死ぬ人はいくらでもいる。そういう人の夢は単に金を稼ぐことであったのか。本作に登場するゴム成金はその代表であろう。オペラを理解しない無粋な男だ。今はそんなのがごろごろいる。本作は芸術を理解しない人にはよさがわからない。筆者が本作を30年気になり続けているのは、フィツカラルドのように独力で無謀なことに挑戦する態度だ。女の支えはあるが、女を口説くのも才能のうちだ。フィツカラルドにはそれがあった。どんな男にもそれに見合う女はいる。シャンソンの「愛の讃歌」ではないが、本作の愛人はフィツカラルドの夢をかなえてあげることを自分の夢と思っている。今回はその点が最も感じ入った。また、オペラ・ハウス建設の夢は断たれたのに、満足気なフィツカラルドの態度はどうだ。人類のどんな途方もないこともいずれ自然の威力の前で跡形なく消える。それはわかり切ったことだ。その現実の中で誰もやらないこと、つまり不可能に挑戦することこそ、真の男だ。狂気、阿呆、どう呼ばれようとかまわない。ヘルツオークはフィツカラルドに自分を重ねた。ヘルツォークのような監督がひとりもいない映画界ではつまらない。「なにわ海の時空館」の菱垣廻船もロマンがあってよい。クレーンを使わずに人力で館内に引き上げる作業をTVで放送すれば、開館の前評判がもっとよかったのではないか。