廻船でかつて運ばれたのか、たとえば京都の伏見人形のとても古いものが富山で初出しされたりする。それは今日の弘法市や天神市の業者の品物にも言えるが、全国規模のネット・オークションではもっと顕著だ。
もちろん富山からの初出しとしても昭和初期あたりに富山に持ち込まれた可能性はあるから、江戸時代に船で運ばれたとは言えないが、出品者の中にはわざわざ昔の廻船問屋の血筋の人から仕入れたといったことを注釈する。それはあながち嘘とは思えない。それはともかく、京都まで来なくても、上方の珍しいものは地方の大きな港を抱える街でも金さえ出せば手に入った。船は陸路より一度に大量の物品や人を運ぶことが出来る。また、その利点を生かして、積載量ぎりぎりまであらゆるものを詰め込んだ。諸国の品物が大坂に一度集められ、廻船を使って江戸その他日本中に運ばれた。こういう大坂の特殊な位置は今では考えにくい。港湾は今でも機能しているが、飛行機による輸送が断然速くなり、送料は割高になってもそれに頼ることを誰しも経験している。となると船による輸送は時代遅れで、廻船を復元して展示しても時代錯誤と思われかねないが、大量輸送の利点は今でもあり、原油はタンカーで運ぶ。海に囲まれる日本はまだまだ船は重要だ。そのことを示すのが、先日の中国軍艦によるレーダー照射事件で、海の重要性を再認識させられた。戦艦大和といった巨大な造船技術は、材質は違えども、日本に大きな船を造る技術があってのことだ。それを示す一例が「なにわの海の時空館」の中央に展示されている菱垣廻船「浪華丸」だ。「菱垣」は文様に詳しい人ならすぐに「檜垣」を思い出す。似たようなもので、「菱垣」は菱型の連続模様を形成する垣根だ。これが廻船の両脇についている。今日載せる最初の写真ではわかりにくいが、波が当たるか当たらない辺りに木材で組まれているその模様がどうにか見える。これは何らかの機能を持つものではなく、廻船の種類を表わす記号のようなものとされる。
「なにわの海の時空館」を建設する案が出た時、真っ先に考えられたのが菱垣廻船の復元ではなかったろうか。半円球のドームはこれがすっぽり収まる形をしている。この船は展示用の実物大模型ではない。会場に小さなモニター画面が置かれ、この船が実際に海を進んでいる様子を撮影した映像が流されていた。そのまま港に係留させ、人々をたまに乗せて大阪湾を料金を徴ってクルージングしてもよかったように思うが、そのための人件費その他、あるいは運行許可を得るのが難しかったのかもしれない。そして建物を造ってその内部に収容することになった。それが「なにわの海の時空館」だが、半年ほど前のTV番組では、この館を赤字のために閉館するとしても、浪華丸を解体撤去するのに億単位の金がかかり、それも難しい問題だと誰かが意見していた。造ったはいいが、動かすことは出来ず、また展示も無理、解体も困難となると、まさに箱物行政の難しさを露呈した感じだ。「浪華丸」が無用の長物で、税金を食い潰すやっかい者に見えて来るが、この船を実際に目前にするとその威容に打たれる。これほどの大きな船が大坂湾を初め、日本中をぐるぐると廻り続け、大量の物を消費地に運んだことは、教科書の短い記述では決して得られない感動を与える。廻船は多くの木材と船大工を費やしたもので、大きな屋敷を一軒建てるといった程度の規模の話ではない。積荷は人々の欲望を満たし、全積載の総額はどれほど巨額に上ったことであろう。そういう船であるから安全第一は言うまでもないが、一方では速さも求められた。ほしい物は一刻でも早く手に入れたいと願うのはいつの時代でも同じだ。人々のそんな思いを廻船は担っていた。充分頑丈に建造されたのは当然だが、そういう大型の木造船が今では皆無であるから、復元に不自由はなかったかと思う。そこは船の学者がたくさんいて、江戸時代の廻船を復元するための設計図は何ら問題ではなかったのだろう。そして、大工の力を合わせて浪華丸を復元した。これだけでもロマン溢れる話で、児童や生徒に熱く語ることが出来るのではないか。
浪華丸を収容するために「なにわの海の時空館」の場所と規模が決まった。一旦解体し、もっと内陸に展示することも可能であったと思うが、どうせなら海が見える場所がよい。そこで現在の住之江区の西端となった。大坂が西へ西へと埋め立てを続け、陸地は広くなり、小さな船が運行する川もほとんどが消えたが、港湾施設は現在も機能していて、それをもっと拡大化させることは念願でもあろう。そういう時に江戸時代の大坂湾が果たした役割を浪華丸の復元という形で忘れないようにすることは安いものではないか。そういう歴史や文化に大阪が今まであまりにもお金を使わなさ過ぎた。過去の栄光を懐かしむというのではない。それを踏まえて今後もあるという気概を、子どもに教えることが大人の役目ではないか。この館は4階から1階まで半円球内部をぐるぐると周りながら、絶えず右手に浪華丸が見えている。その雄姿をあらゆる角度から眺めてほしいという配慮でもあろう。そういった大人の密かな思いを子どもたちはよくわからないままにも感じる。欲を言えば、館の一部の壁面を可動性にして、浪華丸がいつでも出入り出来るような設計は出来なかったのであろうか。それには船を水面に浮かべておかねばならず、とすれば潮の干満があるし、また悪天候では館の内部も波が大きくなる。それに船底に貝や藻が繁茂して木材が劣化する。それはわかっているが、せめて館外に数年に一度は出して浮かべることの出来る仕組みがほしい。完成時は進水させて海を走ったはいいが、今ではすっかり模型化し、本当に浮かぶと思う人は少ないのではないか。それにしてもかつてはたくさん運行していたこうした大型木造船がすっかりなくなったことは、西洋の鉄の船、しかも汽船の方が頑丈であるからという理由によるが、船も積荷と同じ消費材であったことを示している。江戸時代と比べて大坂の街並みがすっかり変わったと同時に人々の欲望の運搬道具も変わった。そして菱垣廻船が一艘でも復元されたことは、まだ江戸時代の大坂を忘れないでいたいという人たちがたくさんいることであり、近畿を考えた場合、大阪しか菱垣廻船はふさわしくなく、「なにわの海の時空館」は大阪が元気な街であり続けるには必要な施設と思う。浪華丸を解体して燃やしてしまうようなことがあれば、それこそ大阪の恥ではないだろうか。