児童の送り迎えをする要員を自治会から1,2名出さねばならないのに、朝と下校時の午後3時少し前に30分ほど時間を取れる人がなかなかない。筆者は朝が苦手で、登校時にはまだ眠っている。
下校時だけでもいいが、毎日となると、よく出かけることがあるので無理だ。それに子どもの好きな大人に限るという条件つきで、定年退職した誰でもいいとは言えない。筆者はよく郵便局に行く途中で下校時の子どもたちに出会う。自治会住民の子ならばたいてい顔を知っているので「お帰り!」と声をかける。すると「ただいま」と返事があるが、同じ子でもにこりとする場合と、無表情の場合とがある。後者は考え事をしているのだろう。今日はそんな男の子に出会った。すれ違いながら、子どもが悩むことは大人のそれと変わらないと思った。であるから児童でも自殺する。まだまだ未経験なことが多くても、心は悩みでいっぱいになることがある。小さな心に大き過ぎる悩みを抱えるのだ。大人になれば何でもわかった気になるが、性質性格は子どもの頃とさして変わらない。つまらぬことで悩む必要はないとわかっていても、ついくよくよと考え込む。それはいいとして、今の小学生はどんなところに遠足に行くのだろう。それがさっぱりわからない。筆者が小学3生の時、遠足ではなく社会見学と称して雪印の工場を見学した。大阪市都島にあったと思う。白衣を着たおばさんたちが作業している様子をガラス越しで眺めた。同じ日だったかもしれないが、造幣局にも行った。バスの中でのことは記憶にないが、見学した施設の内部の空気はよく覚えている。雪印では帰りに全員にお土産が配られた。チーズはなく、バター・キャラメルだけであったと思う。その袋をバスの中で先生から受け取りながら、雪印は太っ腹と思った。児童に配るくらいたいしたことはないかもしれないが、おそらく春や秋は毎週のようにどこかの小学校が見学に訪れる。そのたびに無料で配るとなるとちょっとした量だ。そんなことを子ども心ながら思った。その雪印が賞味期限の過ぎたチーズを混ぜていることが発覚して大騒ぎになった。その工場は昔筆者が見学に訪れた場所と同じであったはずだ。「あの雪印がえらくしみったれたことをするな」と思ったが、まだどうにか食べられるものを少々混入してもどおってことはないと高をくくったのだろう。実際食べたことによる被害の報告はなかった。社内告発があったので発覚したと記憶する。子どもの頃に抱いたイメージと、大人になってから遭遇したそのニュースを思いながら、大人の世界の事情の存在を改めて知った気がした。話を戻す。児童たちは登校時と下校時に年配のおじさんやおばさんが旗を持って集団を引率してくれることをどう思っているだろう。そうした見守り隊と命名されている人たちがどのように選ばれているか考えることがあるだろうか。事情を知るのは大人になってからだ。
見守り隊の中には子どもたちに大声で叱る人がいる。先日初めてその光景を見た。確かに高学年になるとやんちゃの度合いが過ぎて、車が向こうから来ることを忘れて道の真ん中でふさげる場合が少なくない。優しく注意しても聞き入れない場合は多々あり、頑固おやじのように怒鳴るしか効き目がないだろう。だが、傍で見ていてあまり気分のいいものではない。筆者ならまずそうはしない。わが子ならするかもしれないが、大勢の子を半径50メートルは確実に聞こえる大声で怒鳴るのは憂さ晴らしに思える。それでも子どもがけがをするよりましという考えだ。それに、昔とは違って、大人びた子どもは多くなっているような感じがあり、迫力ある叱り方をしないことにはなめられるかもしれない。同じことを担任の先生も感じているのではないか。さらに話を戻して、今も小学校ではさまざまな施設を見学に行く授業時間は取られているだろう。雪印の工場や造幣局は相変わらず候補に挙がっているかもしれないし、多くの博物館的な施設が出来たので、選ぶのに困るか。なにわの海の時空館は親に連れて行ってもらうことが出来るが、学校という集団で行くとまた味わいが違う。それにこういった施設に関心を持つ家庭は少数派だろう。となると、大人が関心を持ち、筆者のように京都から行くというケースもそうと思える。美術展ならまだ愛好家は多いが、大阪の海についてのあれこれを知るために訪れるというのは、簡単に言えば勉強好き、珍しもの好きで、ちょっと変わった大人とされるのではないか。そして思うのは、この館の入場者数の少なさだ。周囲に歓楽の施設がなく、海辺にぽつんと建っているので、本当は若いカップルがデートに訪れるのがよい。ところが、洒落たレストランや喫茶店が近くにはなく、海遊館に行くにしても地下鉄を乗り下りせねばならない。せっかちな大阪人がわざわざその施設を見学するためだけに訪れるのは、よほど魅力があるか、時間を持てあましている変人だ。やはり小中学校の遠足や社会見学として必ず一度は集団でここを訪れるという条例くらいは作って無理に見させるべきではないか。多くの人に見てもらうとそれだけ意見も出て来る。それを反映しながら、展示を変化させて行くものであってほしいが、とっくにそんなことはあらゆる手段を打って来たのが実情でもあると思う。
昨日書いたことで気になっていることがある。大阪の地形や建物を表わした模型の中に点在する船の大きさが誇張されているという意見だ。昨日の写真を見る限り、そう言ってよいが、今日の写真を見ながら、家屋と比較して船は同じ縮尺で作られていることを思う。湾の外に出た船のみを誇張拡大したのだろうか。その可能性があるが、筆者のカメラのせいでそう写ったのかもしれない。間近なものほど実際より大きく写る可能性はある。今日の写真の拡大する3枚はどれも東から西を見ている。もう少し正確に言えば、「見下ろして」いる。これは昨日書いたように湾の外側が地面により近いように模型の枠全体が傾いているからだ。そのため、この模型の大坂の街並みは最も高い位置に集中していて、背の低い子どもには見えない。これは児童には関心がないだろうと最初から決めてかかったようなものだ。実際、この施設に集団で見学した時、まずたいての子どもはこの模型に関心を持たないのではないか。では大人はどうかと言えば、大阪市内の各地をそれなりに知っているから、ある場所が江戸時代ではどうであったかを知りたい。その興味を満たすようにあちこちの有名な場所には名札を立ててある。これは邪魔であるし、また模型らしさをいやでも知らせはするが、現在とはあまりに街並みが違っているので、にわかには大阪とは思えず、またどこがどこに相当するかもしばらく考え込む必要がある。それほどに大阪はすっかり変貌した。筆者がこの模型に関心を持ったのは、木村蒹葭堂の邸宅の周辺が、平面的な地図で見るのとは違ってどうかということであった。蒹葭堂の北堀江5丁目、瓶橋北詰めに住んでいた。この模型がいつの地図を元にしたものかわからないが、堀江地区が南北に分かれているので遅くても蒹葭堂は生まれる数十年前だ。
蒹葭堂の屋敷跡は現在市立図書館が建っていて、その南東角に蒹葭堂の石碑がある。今は車だらけの道路になっているのが、江戸時代は川であった。四ツ橋交差点は川が交差して4つの橋が架かっていた。それは大阪の名所と呼ぶべき壮大さであったろう。今では何の変哲もない交差点になっている。江戸時代の大坂の街並みはヴェネツィアと同じと言ってよいほどで、いかに船が重要であったかがわかる。水の都の大阪は江戸時代まではそう呼ぶのがふさわしかった。それが今では海は遠のき、地下鉄に乗って西端まで行かねばならない。またわずかに残された市中の運河には、何度も書くように頭上に高速道路が縦横に走る。この模型の街並みにしばし見惚れ、湾に入って来た船がいかに帆柱を家の屋根より高く聳えさせていたかを想像した。もちろん電信柱はない。空が大きく、家並みは整然とし、世界に誇るべき美しさではなかったか。そんな思いになれただけでも訪れた意義があった。それはある人のブログでこの模型の画像を見て想像した以上だ。中村真一郎が晩年に蒹葭堂に関心を抱いて分厚い本を書いた。それは、蒹葭堂の空前絶後とも言える交友の広さももちろんだが、蒹葭堂の生きた時代の文人たちの生活や思いに限りない愛着を覚えたからだ。絵画や書、詩に生きる人は今もあるが、かつての大坂がそういった人たちが集まる中心地であったことを忘れないでいたい。この大阪の模型には蒹葭堂の屋敷の表示はないし、館のどこにも文人たちの交流に関する説明はない。それでも人は何が目的で訪れるかわからない。書画や詩が何かのためになると言うのか、金儲けに役立つか、また大学受験に効果的か、そんなことばかりを考えて生きるのは楽だろうか。児童でも絵を描く楽しみは知っているし、それを示すためにこの館にはたくさんの水彩画が飾ってある。そんな楽しい思いが、また夢が、大人になるにしたがって見事に忘れ去られて行くのが現実だとすれば、その現実にどれほどの意味があるだろう。