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●大阪市立住まいのミュージアム 大阪くらしの今昔館、その4
訴院と呼ばれていた裁判所の建て替えが二度あったと、確か『妖精は花の匂いがする』の感想に書いた。1952年の映画だ。



●大阪市立住まいのミュージアム 大阪くらしの今昔館、その4_d0053294_241247.jpg
その最後の方に大阪の堂島川沿いで主人の女性と彼女と親しい学生がじゃれ合う場面があって、背後に大阪控訴院が見える。それは煉瓦造りで、その後建て替えられ、そしてもう一度建て変わって現在の姿になったと思っていた。ところが、ネットで調べると、先の映画に写っていた建物は三代目として大正5年(1916)に建設され、昭和49年(1974)まで建っていた。記憶をたどると、筆者は建て替え寸前の72年か3年に訪れて弁護士にあることを相談したことがある。それで建て替えられたことをよく覚えている。建て変わってからは一度も内部には入ったことはない。つまり、映画に写っている建物の内部に筆者は入った。記憶では建物の中央にそびえる塔がない。そのため、煉瓦建てがもう一度再建されたと思っていた。だが、そんなことはまずないだろう。煉瓦を使うにしても、耐震性を考えて、建物の表面のタイル代わりだ。控訴院が58年経って現在の巨大な鉄筋コンクリートのビルになったが、1974年から58年後は2032年で、もう20年ほどでまた建て替えるのだろう。「住まいのミュージアム」は天保年間の木造の町並みをビルの上層階のワン・フロアに再現し、その下の階は明治から現在までの大阪の町並みや暮らしの変化を紹介している。これは主に小さな模型を使っての展示で、いちおうは順路はあるが、好きなコーナーから見てよい。床は戦前の大阪市内の地図を大きく拡大したものを強化ガラスの下に貼りつけてある。この地図は吉田初三郎ばりの鳥瞰図で、建物がひとつずつ細かく描かれている。市の周辺に行くほど縮尺は大きくなっておおまかな紹介になっている。現在の東部で言えば、東成区、生野区、東住吉区、住吉区といった地域で、見どころがほとんどないということもあって、ほとんど省略されている。つまり、絵はがきに取り上げられるような大阪市内の名所が集まる地域を中心に取り上げてある。この地図は有名で、実物を展覧会の展示で見たことがある。ネットでは地図を航空写真に瞬時に切り替えて見ることが出来るし、またGOOGLEのストリート・ヴューでは実際に車道を走っている気分を味わうことも可能だが、縮尺が厳密でない鳥瞰図的な地図は『ウォーリーをさがせ』の絵本を見るような楽しみがある。人間的なのだ。手描きした地図であるから当然だろう。今ではかえってこういう地図を作る方が手間がかかるかもしれない。正確さは大切だが、楽しさを優先した地図があってよい。この床の地図は残念ながら、ガラスを小さく分割する必要上、碁盤目状の格子が入っていて、その線によって地図が分断されている。床下からライトで地図を照らして明るく見せる方法に頼っているのだが、この階は全体に暗くしてガラス・ケース内部の模型を明るく浮かび上がらせている。映画館の内部のように、別世界を味わうにはその方がよい。床地図は現物の10倍ほどは拡大されているが、筆者が真っ先に確認したのは中之島だ。大阪控訴院はちゃんと煉瓦建てに描かれている。その写真を撮った。黄色の丸で囲んだのがそれだ。もうひとつの右下の丸内部は煉瓦造りのまま現存する中央公会堂だ。
●大阪市立住まいのミュージアム 大阪くらしの今昔館、その4_d0053294_2385121.jpg
 これとペアになる形の大阪控訴院の建物が保存されればよかったが、いくつかの裁判所を集めた合同庁舎としたので、大きく建て替える必要があった。また、控訴院すなわち裁判所はあまりイメージはよくない。普通に生活している人ならば一生お世話になることがないだろう。そういう厳めしい建物は煉瓦造りの味あるものであっても、残すことに賛成を唱える人は少ないと思える。実際、控訴院は中央の塔があまりいい感じではない。それがなければ締まらないが、あればあったでどこか人を寄せつけない感じが漂う。そう言いながら、筆者がこの塔をさっぱり覚えていないのは、建物のやや奥にあって、玄関前に立つとあまり見えなかったのかと思う。煉瓦の鮮やかな色だけはとても印象的で、中之島にはよく似合っていた。『妖精は花の匂いがする』を見たばかりであったので、このミュージアムでは控訴院に目が行った。地図に小さく描かれる様子とは別に、中之島から堂島川右岸を見た眺めの半立体パノラマ模型があった。この眺めの向きは『妖精は花の匂いがする』の最後に出て来る前述の場面と同じだ。天神祭は堂島川の上流の大川を中心に行われるので、堂島川沿いの船渡御は何となく現実にそぐわない感じがするが、現在はこのパノラマ模型のように控訴院の下流まで船が下るのだろうか。今日載せるそのパノラマ写真はパノラマ模型の一部で、右端に小さく石の鳥居が見える。これは現存していて、すぐ前に橋がある。鉾流橋で、そこから鉾を流してたどり着いた場所を御旅所と定めたが今はそれが固定されている。ただし、鉾流しの行事はあって、それが天神祭の最初の神事となっている。この鳥居から下流に船渡御の様子が模型で表現されているのは、控訴院があった頃に倣っているのかどうか。筆者は天神祭の船渡御の当日に界隈を散策したことが二度あるが、船渡御を実際に見たことがない。暑い盛りで、京都の祇園祭だけで充分という気になる。TVで見る船渡御は鉾流橋から下流には進まず、逆に上流へと遡って行く。それはともかく、控訴院の塔が周囲の建物の中で一番高かった頃、船渡御をその塔から眺めるのは絶景であったことだろう。今は堂島川の上に高速道路が走っている。それもあって裁判所の前の道はいつ通ってもほとんど人は歩いていないし、また車も少ない。パノラマ模型ではその川沿いの道に大勢の人が船渡御を観覧している。それは真夏の夕涼みにも最適で、船の連なりが勇壮であったことだろう。船は今も同じとはいえ、頭上の高速道路が鬱陶しく、中之島とはすっかり分断されてしまった思いが強い。前に書いたが、大阪がこの高速道路をせめて中之島だけは撤廃するか、川の下にトンネルを造ることが出来ないものだろうか。水の都の大阪はヴェネツィア張りに世界的な観光都市にしたいようだが、中央公会堂から丸見えの高速道路は全く艶消しだ。道路の寿命が来た時に、思い切って別のルートを走らせるなどすればよい。韓国のソウルではそのようにして市中に川面を取り戻した。やってやれないことはないのだ。
●大阪市立住まいのミュージアム 大阪くらしの今昔館、その4_d0053294_2394048.jpg
 前述の床地図にはもちろん高速道路はない。現在の大阪を同じような鳥瞰図で表現すれば、高速道路ばかり目立って、建物はその陰に隠れる。そのことを考えても日本は街の景観に美意識を持っていないと思える。「くらしのミュージアム」では昭和の代表的街並みや平均的家庭の内部を再現した模型がいくつかある。昭和30年代が最も新しいものだと思う。それ以降となれば、現在の市中を歩けばよい。そのため、半世紀ほどすれば、現在の街並みも模型で再現されるかもしれない。そのことで思うのは東京の街並みの模型だ。昨日TVで東京にオリンピックを誘致するために、都がとても大きな都内の模型を作り、それをマスコミに披露している映像が映った。数秒ではあったが、このミュージアムの昭和の街並みの模型とは月とすっぽんとの違いほどに金がかかっているように見えた。そのためか、ごちゃごちゃした東京がそれなりにまとまっているように感じた。オリンピック誘致運動のために投入される費用は、このミュージアムの模型の何倍に相当するだろう。さすが東京は金持ちだ。それはさておき、その東京の模型を仔細に見ればもちろん首都高速道路が巡っているだろう。街が巨大であるので高速道路網はさして目立たないかもしれない。大阪もそうだろう。だが、模型と実物は違う。それに大阪市内はどこでも同じではない。先の地図からもわかるように、名所が集まる市の中心部は、それだけ周辺部より見るべきものがあって重要だ。大阪の顔としてのその場所に、無粋な高速道路はないだろう。ヴェネツィアは運河が道路であるから、ビルの上を走る高速道路は必要ないが、それでも水の都を宣伝したいのであれば、市内を巡る川を殺してはならない。高度成長期に大阪は埋め立てなくてもいい川までも道路にしてしまったのではないか。土建屋を儲けさせるためとしか思いようがない。日本の高度成長と高速道路の急増の関係は中国に影響を与えた。現在の北京は車が走り過ぎて大気汚染がはなはだしく、肺癌の発生率が高まっている。その汚染された空気は日本まで飛んで来ているのは、どこに控訴していいのやら、巡り巡って日本の高度成長のつけの支払いみたいなものだ。頭上を走る高速道路は、筆者には頭から降って来る遅い毒ガス爆弾の破裂に思える。そんな思いで中央公会堂から堂島川の上に架かる高速道路をいつも見る。話を戻すと、半世紀後に現在の大阪市内の典型的な街並みを模型で再現する時、そこに高速道路を含めないわけには行かない。その様子がはたして昭和30年代の大阪と比べてぶらりとその中を歩いてみたい思いにさせるだろうか。地図が鳥瞰図として建物の特徴が手描きされていた時代とは違い、今はより精確、精密、多様、無味乾燥となった。そんな時代に住む人間もまたロボットのような人生なのだろう。
●大阪市立住まいのミュージアム 大阪くらしの今昔館、その4_d0053294_21173662.jpg
 展示模型の最後は天王寺のルナパークだ。筆者がその写真を撮っている時、小学生とその母親が隣りで模型を見つめていた。母親が昔の天王寺にあった遊園地だと言うと、娘は信じられないといった顔をした。それは、通天閣が現在とは形が違うことよりも、ロープウェイがあることであった。現在の通天閣や天王寺公園にそれはない。高みから公園を見下ろすことは周囲のビルから出来るので不要とも言えるが、移動する箱の中から眼下を見るのはまた趣が違う。ルナパークの位置と規模は先の鳥瞰的地図に載っているのだろうか。それを確認することを忘れた。通天閣を中心とした地域と、天王寺公園が含まれると思うが、現在の新世界と呼ばれる地域の賑わいはルナパークが形成したものであろう。多くの人が集まったので、飛田遊郭も近くに出来たのではないか。ルナパークがなくなったのはおそらく飽きられたからではないか。「ルナパーク」とは「月の公園」であるから、夜の営業が売りだったろう。それもあってこのミュージアムの模型は昼夜が一定の時間で入れ替わる仕組みになっている。夜のルナパークは各種の照明が見物であったはずで、これは道頓堀などの歓楽地区に倣ったものではないか。今では道頓堀を初め、大阪は夜のネオン街がルナパークの代用をしている。現在の天王寺公園は、20数年前の天王寺博覧会時の整備によってすっきりはしているが、夜の散策は楽しめず、5時で閉園だと思う。また、ずぼらやなどの飲食店がある通天閣周辺はビリケン人気の再燃によって関東からの旅行者に人気が出ているが、大阪の中でも独特の雰囲気があって、大阪で生まれ育った筆者でもあまり心地よい場所ではない。かつて賑わっていたが、今はさびれたといった雰囲気が濃厚だ。ルナパークが出来た大正時代の賑わいは知らないが、天王寺駅前に東洋一の高さであったか、巨大なビルを建設中で、それが完成すれば大阪の賑わい地図は変わるかもしれない。そして、通天閣を中心とした地域や天王寺公園にまた新しい娯楽施設が出来ないとも限らない。その超高層ビルは今年か来年のオープンではなかったか。完成すれば早速出かけててっぺんから市内を鳥のように眺めたい。ただし、中国からの汚れた空気でかすんで見えない可能性が大きい。日本がつけを支払っているのであれば、電気自動車時代を築き、それを中国にまねさせるしかない。だが、電気は原発がなくては高価につく。問題山積だ。このミュージアムが半世紀後に残るのであれば、そんな苦渋の暮らしであることを平成コーナーを設けて展示すべきだろう。
●大阪市立住まいのミュージアム 大阪くらしの今昔館、その4_d0053294_2413981.jpg

by uuuzen | 2013-02-03 02:35 | ●展覧会SOON評SO ON
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