潤滑油をお金にたとえればいいのか、それが欠乏すれば活動が鈍る。昨日もそんなことを書いた。お金のことを書くのは下品だとわかっているが、こうした文章では後になって物の値段も何らかの資料になるという思いがある。
昔の本を読んでいると、たとえば月収や何かの価格について書いてある。昔であるから、今の価値に換算しなければぴんと来ない。ところが江戸時代といった大昔になると、資料を見ながらのおおよその換算でもぴんと来ない。となると、価格について書くのはあまり意味がない。その記述が読者に理解されるのはせいぜい20年ほどか。よく初任給がいくらであったかを半世紀以上経っても数十円単位まで覚えている人がいる。筆者はさっぱり関心がない。覚えているのは本やレコードの値段程度で、収入がいくらであったかは記憶していない。そんな性格であるから、万年貧乏なのだろう。金持ちになるにはそれなりにお金に執着が必要だ。誰でもお金はほしいが、並み外れてその傾向が強い人にお金は集まる。これは絶対にそうだ。宝くじに当たるのも、くじを買うからであって、一攫千金がひょっとすれば自分に回って来ると思うからだ。それは金への執着だ。それはさておき、また前置きが長くなりそうだが、金にまつわることなので書いておく。今日は夕方に古書店に本を取りに行った。前もって郵便口座に振り込んでおこうと思ったが、現金で払うのも同じだ。それでもどういうわけか振込がいいかなと思った。それは予感であったかもしれない。ゆうちょ口座同士なら振込料はかからないから、現金で払うのと変わらない。ま、それはよい。本屋で支払った直後、若い女性はレジを打った。それを見ながらレシートか領収書をほしいと言った。すると女性は打ったばかりの小さな紙片を切り取り、「ハンコを押します」と言いながら立ち上がった。席を立って別のテーブルに行き、ハンコを押すまで1分ほどか。その間、筆者は別の本を手に取って中身を見た。女性はレシートを手わたしてくれた。その時、筆者は「お釣りは?」と訊いた。相手は「渡しましたよ」と言う。すぐにポケットに手を入れて小銭入れを取り出して中を見た。返してもらうべき100円玉は2枚入っていたが、それが返してもらったものかどうかわからない。「いいえ、もらってませんけど」と言うと、やや語気を荒めて「渡しましたよ」とまた言われた。「そうですか。どうも近頃呆けて来たのかな」と言って店を出た。筆者が気持ち悪かったのは、お釣りをもらった記憶がないことだ。相手が渡したというのであればそうなのだろう。ところが200円を手にした記憶が全くない。どちらが正しいのだろう。確かにもらったとすれば、筆者は呆け始めていることを真剣に考えねばならない。筆者の記憶はこうだ。お金を支払ってすぐ、彼女はレジを打った。その時点でまだお釣りをもらっていない。そこで筆者は不意にレシートがほしいと言った。その店で何度も買っているが、言わねばレシートはくれない。女性にすればフェイントをかけられた気分だったろう。それで打ったばかりのレシートを切り取ってハンコを押す必要を思ってすぐに立ち上がった。1分後にレシートをもらったが、お釣りは受け取っていない。何度思い返してもそうだ。彼女がお釣りを筆者にわたしたとすれば、レジを打つ前だ。だがそんなことはあり得ない。お金をこっちが支払ったからこそレジを打つし、打ちながらお釣りを筆者にわたすことは出来ない。どの店でも打った後に渡すし、またレシートとお釣りは一緒に受け取る。その店がお金だけもらってレジを打たないことはない。必ず打つ。また、筆者がお釣りをもらって小銭入れに収めながらレシートをほしいと言ったこともあり得るが、お札を並べた上に小銭を載せた映像をよく記憶してはいるが、100円玉を2個受け取った映像は欠落しているし、その感触もない。であるからこそ、レシートと一緒にお釣りをもらおうと思いながら、ほかの本を見開いた。
200円で争っても仕方がない。どちらかがうっかりしていたのだ。若い女性であるからうっかりしないことはないだろう。そこで思い出すのが、先に書いた予感だ。なぜか今回は振り込みしようかと思った。そんなことは一度もない。そう思ったのは、お釣りのトラブルを予期したからかもしれない。そのトラブルは筆者の勘違いであれば、別に200円の損得はないが、問題はお金のことではなく、筆者がもらったのにすっかりそのことを忘れてお釣りを請求したことだ。もしそうであれば、本当に自分の言動などを今後はしっかり自覚せねばならない。話は変わる。その古本屋の隣りにケーキ屋があった。洒落た店で、出来たのは2年ほど前か。一度も買ったことはないが、きれいな店でそれなりに流行っていると思っていた。それが今日見ると、売り家になっていた。お金が回らなかったのだ。客が来ないとそうなるから、店をうまく動かす潤滑油はお金ということになるが、客が支払うから潤滑油は客だ。どっちにしてもそれが欠乏すると動かなくなる。これは死と言い代えてもよい。恐いもので、お金が回って来なければすぐに店じまいだ。あたりまえのことながら、そのケーキ屋の店主のその後を想像してしまう。店を出すなど、生涯にそうたびたびあることではない。大きな夢を描いて営業を始めたはいいが、いくら努力してもどうにもならないことがある。景気の浮沈もあれば、競争相手が出来たりもする。借金して開店したならば、それを返却しない間に店じまいとなれば、別の場所で働いて返さねばならない。筆者にはそんなことをする覚悟はない。借金出来るのは能力がある証拠とよく言うが、借金が返せずに夜逃げする場合も多々あるから、借金は綱わたりのような行為だ。昨日書いたように、大阪府は財政が苦しく、府立体育館の名前を企業に売った。国家や府、市が借金のために夜逃げ出来ないから人はどこかで安心しているが、橋下知事は大阪府の財政がとっくに夜逃げしていておかしくない状態であることを府民に強く訴えた。それでもまだ府民は呑気なものだ。橋下知事が市長になっても財政への思いは同じで、儲からない施設は閉鎖して行く覚悟でいる。その最大の例が文楽だ。観客動員数に応じて助成金を支払うことが決まり、また最低人数を下回ると1円も出さないことになった。文楽が昔のままでいいのかどうかは問題になっている。歌舞伎や能に梅原猛は現代語による作を書き下ろした。その勢いで文楽もということになれば面白いと思うが、浄瑠璃の発声方法と現代語がうまく合うのかどうか、また同じような節回しで聴き手が理解出来るかだ。それに現代語による新作となると、何も文楽でなくてもよく、ほかの人形劇になってしまう。
古いものが今に伝わっているのは、そこに何か普遍的なことがあるからだ。一方で現代人がたとえば昭和をいくら懐かしんでも、トイレ事情や狭くて寒い木造住居に耐えられるはずがないといった意見がある。懐かしんでいる間がよくて、本当にその時代に戻れば幻滅のみが待っているという考えだ。これは今の日本が金持ちになったからでもある。ところが、将来日本の経済がもっと格段に悪化して昭和の高度成長前の頃に戻ってしまうとどうだろうか。まさかそんな時代は来ないと高をくくっているが、国に大きな借金があり、税金をどんどん上げねばならないことになっている状態を思えば、現在の便利さはお金と引き換えの話であって、それがあまり自分の懐に回って来ずに出る一方となれば、昭和を懐かしむ思いが真実味を増すこともあり得る。さて、ようやく本題に入る。今日から3回に分けて大阪天六にある「大阪市立住まいのミュージアム 大阪くらしの今昔館」について書く。この館には3年前の「関西文化の日」に家内と初めて訪れた。その際カメラを持参するのを忘れてこのブログに感想を書かなかった。1年置いて去年の「関西文化の日」、また家内と出かけ、今度はしっかりと写真を撮って来た。無料であるからか、とても賑わっていた。半分ほどは中国、韓国人であった。彼らは手にガイドブックを持っているのですぐにわかる。大阪では見所として紹介されているのだろう。この館は江戸時代の大阪の家並みを鉄筋コンクリートの建物内部に再現してある。天神橋筋商店街の北の起点と言ってよい場所にあるので、京都市内からは雨に濡れずに1時間で館内に入ることが出来る。市立であるから、客の入りが悪ければさっさと閉鎖されると思うが、今のところそんな話を聞かないのは、充分潤い、採算が取れているからだろう。ここは何度行っても面白い。もっと展示が多くてもいい。この館の特別研究員で、まるで大阪のお笑いタレントのような風貌をした増田健一という人物が2,3年前にTVで紹介されていた。彼は昭和30年代の家電製品の大ファンで、それらの状態のよいものを収集している。その費用は新品を買うより何倍も高いが、それでもこだわるのはデザインに愛着があるからだ。確か、コレクションするのに2千万から3千万円使ったようで、もはや美術品扱いだ。商品札がついたままの炊飯器など、どこで入手したのかと思うが、どんなものでもほしい人のもとには自ずと集まって来る。収集家として有名になると、珍しいものが出て来れば、持ち主はその人に持って行くからだ。この増田氏のコレクション展がもうすぐ開催されるという予告を館内で見たが、予告的にわずかに収集品が展示されていた。氏が特別研究員となったのは、この収集品が同館の展示にふさわしく、観客動員につながると思われたからだろう。こうなると、2千万円費やしても安い。趣味に2千万使うのは別段すごいことではない。高級車が趣味な人はその10倍は使うだろう。目のつけどころと、徹底さがあれば、自分の収集品で有名人になることが出来る。もちろん、収集品が大勢の人に楽しんで見てもらえるものでなければならない。そう考えると、筆者の金の使い方は平凡だ。あるいは間違っているかもしれない。たとえば高価な古本をいくら家の中に積んでも、そうした本を見たがるのは日本に数人しかいないだろう。それでもお金を使うことで経済が回り、そうした古書店も夜逃げせずに済む。