循環が大切で、水も空気も経済も回っていなければならない。箪笥預金が数百兆円だったか、とにかく天文学的なほど日本には眠っているらしい。それを使わせるための政策が消費税のアップに伴ってますます考え出される。
お金は使ってなんぼで、持っているだけでは心の動きがないというのが人間としては相場のはずだが、全部使い切って死ぬことはなかなか出来ない。つまらないことを書くが、使いさしの絵具や鉛筆、ノートなど、誰でもそれらを残して死ぬ。全部きれいに使い切ったところで死ねばいいものを、人間は他の動物よりもその点では退化しているように思う。学生時代に友人が日本では遺産は三代で全部なくなるように法律が作られていると聞いた。なぜそんな話になったのか知らない。孫に美田を残さずが美徳であるならば、三代で資産が全部税金で持って行かれる仕組みはとてもいいことではないか。ところが、以前に通っていた床屋も同じことを口にして、三代で個人の遺産が消えてしまう日本は個人が大きなことを成し遂げにくいとその理由を語った。これもぴんと来なかった。学生時代の友人にしろ、床屋にしろ、子に残す遺産はせいぜい家が一軒で、遺産が三代で消えようがどうでもいいことだと思うのだが、本人たちはそうは思っていないのだろう。汗水して一生働いて得た資産は断固として子孫にそっくり与えたいと思っている。筆者は息子がひとりあるが、以前から言ってある。残す資産はないし、あっても有意義に活用したい。それで、血のつながりのない人物であっても、優秀と思う人に与えたい。これは子を持つ父としてはとても薄情かもしれない。だが、筆者は父からもらったのはこの体だけで、遺産どころか生活費も母はもらわなかった。であるから自分の息子は猫かわいがりするというのが一般的なあり方かもしれないが、子に資産を残してもろくなことはない。誰でも一代で、裸一貫で始めるべきで、そのことで大きな仕事が出来ないとしても、それはもともとそれだけの器と思う方がよい。祖父の資産のおかげで大人物になった例がどれほどあるのだろう。今の総理は政治家のプロで、三代にわたって総理を経験しているが、祖父の遺産がそれほど孫に大きな価値を与えることの最適な例だろう。だが、そういう三代目が本当にいい仕事をするかどうかは全く未知数だ。世襲があたりまえであった昔ではないのであるから、総理となる政治家の家柄が何代も続くというのは何かがおかしい。それこそ三代目には祖父の資産はゼロになるという、かつて友人や床屋が語ったことは抜け道があるように思える。ともかく、筆者は三代で遺産が全部消えるように仕組まれている税制はとてもいいことに思う。孫のことまで心配して大金を残す必要はない。だが、これは孫を持ったことのない人物の意見と言う人がきっと多いだろう。
生きている間に消費すべき持ち物は全部使い切るのが理想だが、人間はいつ死ぬかわからない。その不安もあって、つい何もかも充分なままに死んでしまう。先の例で言えば、画家は絵具や筆を使い切らない。それはゴミとなるのが普通だ。誰かが使うことも出来るが、それは割合としては少ないだろう。使い切らずにゴミとなる割合はどのような物にもある程度同じかもしれない。それをもったいないと思うので、たとえば臓器移植が行なわれる。死んでしまった人は生き返らないから、まだ使える、つまり耐久年数のある臓器はほかの人に使ってもらおうという考えだ。臓器移植をする医者は古物商と同じだ。「奥さん、この肝臓はまだまだ使えますから、移植しますか?」「ええ、お願いします。わたしは平均年齢を10歳も超えていますが、まだまだ生きたいですからね。」「はい。それでは箪笥を開いて1000万円ほど用意してください。」「そうですね。孫に残してもどうせ遊びですぐに全部使ってしまいますからね。わたしが長生きする方がうんといいことですよね。ほほほほ。」そしてそのお婆さんが老衰で亡くなった時、まだ数年は使える臓器がまた転売される。儲かるのは医者ばかりだ。医者はそのようにして莫大な箪笥預金をして、死後に孫に大いに喜ばれる。当然孫も同じような臓器移植屋になる。植木職人と何ら変わらないようなものだが、収入は100倍の開きがある。医者の言い分はこうだ。「われらは人の命を長らえさせ、しかもがっぽり儲けてそれを世の中に循環させている。箪笥預金もするけれど、そのほかにもいろいろと物入りですからね。」最初に意図したことからどんどん外れるので、本題に入ると、難波に日本工芸館があるのを知ったのは20年ほど前か。正確な場所は調べなかった。また行ってみたいともあまり思わなかった。万博公園内にある日本民芸館とは違って、ここは工芸館だ。筆者は工芸家であるから、一度は見ておくべきだが、その機会がなかった。ところが去年の「関西文化の日」の期間中に時間があったので家内と訪れた。入場無料という機会なので、それを逃せばまた見に行かない。つまり、無料なら、そしてついでがあるならば訪れてもいいかといった程度の施設と考えていた。先日来、京都の施設についで大阪の施設を取り上げている。しばらく映画の感想が続いたが、また大阪の施設案内を再開する。日本工芸館以外にもう2館を予定している。この2館は撮って来た写真が多いので数日にわけることになる。
さて、数日前、日本工芸館についてネットで少し調べた。そこでわかったが、創始者は三宅忠一という人物で、大阪のスエヒロ本店の社長であった。28歳の時に柳宗悦の『工芸の道』に感銘を受け、昭和10年頃、35歳頃から民芸運動に参加した。スエヒロの経営の契機はわからないが、民芸運動のために経費は必要であったから、三宅は精力的に経営と民芸運動をこなしたであろう。ところが昭和34年に柳と袂を分かつ。その理由もわからない。当時柳は亡くなる2年前で、著作など、やるべき仕事はほとんど終えていた。三宅は民芸に関心を失ったのではなく、柳の日本民芸協会に対して日本民芸協団を設立した。また、美術工芸と民芸は異なるものという考えで行動したが、これは柳と同じであるから、三宅が柳のもとを去った理由は、さほど本質的な考えの相違ではかなかったのではと思う。民芸と柳は分かち難く結ばれていて、そこにたとえば芹沢や黒田、河井、棟方といった民芸的芸術家を除けば、ほかに誰も思い浮かばない。つまり、大将はひとりでよい。仮に副大将のひとりが三宅であったとして、ほとんどの人はその存在を知らない。筆者は数日前までそうであった。そういう柳のみが神格化されることに三宅は嫉妬したのだろうか。多少はあったかもしれないが、それを言えば三宅がかわいそうだ。やはり、運動に対する何らかの意見の相違があったのだ。三宅に柳までは望まないが、考えを書いた著作があればいいのだが、その点はどうなのだろう。また、三宅に師事した若手が三宅の考えをどう引き継ぎ、思想を展開しているかだ。というのは、現在も日本工芸館は運営が続けられていて、「関西文化の日」には大人500円の入場料がただになる。これは収入も大事だが、たくさんの人に知ってもらい、また訪れてほしいからだ。それに立地は難波の繁華街からすぐ近くで、その便利さは万博公園の日本民芸館の比ではない。ただし、筆者はこの建物の周辺を初めて歩いた。府立体育館が難波にあることは昔から知っていた。そのすぐ裏手といった場所だ。ところが難波はしょっちゅう訪れても、高島屋の西、特にその北側はほとんど用がない。府立体育館も筆者には無用の場所だ。昨年11月に初めてその前を歩いた。だが、「府立体育館」という看板はなく、「ボディメーカーコロシアム」となっていた。そのことに首をひねった。今調べると、橋下知事が企業に命名権を売却したのだ。ともかく、生まれて初めて府立体育館を見、そしてその脇の道を南下して日本工芸館に訪れた。大阪は広いことを再確認した。また、先月のTVでその付近に面白い施設があることを知った。その写真もいずれ撮って来てこのブログに紹介する。
スエヒロ本店は筆者は2,3回しか入ったことがない。肉はあまり好きではないことも理由だ。また肉は焼肉屋で食べる方が多い。スエヒロが一番目立っていたのは70年代ではないだろうか。ちょっと高価な食事をしようという時、その店を訪れる人が多かった。お金のない人はうどんを食べるが、金があれば肉を食うといった話を、スエヒロではないが、肉を中心に出すレストランの経営者がTVで話していたことを、3,40年前に聞いたことがある。今でも肉は高価であるから、うどんを食べる回数よりは少ないだろう。ところが、中には食費はけちらない人があって、「おれさまがうどんなんか食べられるか、肉を出せ!」と言う人がある。三宅が亡くなったのは1980年で80歳であった。これは勝手な思いだが、スエヒロの勢いが落ち始めたのは三宅の死後ではないだろうか。とするならば、三宅の経営手腕はよほど優れていたのだろう。筆者が面白いと思うのは、学者の柳宗悦と違って、実業家の三宅が民芸に関心を抱き、日本工芸館を残したことだ。儲けた金を誰もが鑑賞出来る展示施設に使うのは見上げたことだ。だが、大半の実業家はそんな美的なことに関心はない。いや、自分を美的ではないとは思っておらず、莫大な箪笥預金を子孫のために残すことや、女性を何人も囲うことを自分なりの美学と思っている。そして、そのことは謗られることばかりとは言えない。誰でもどう儲けてどう使うかは勝手だ。そういう中にあって、商売がてら民芸運動に時間を割くのは、かなりの変わり者だろう。そのことが筆者には面白い。たくさん金を儲けて三代の子孫にどうにか残したいと考えることが生涯の夢ではつまらない。そんな普通は面白くない。お金をどう使おうが、結局は経済を回しているから、大きな目で見れば三宅の生涯も、また歴史に何も残さない普通の実業家も同じと言える。それに金の使い方に自分が満足するのであれば、どう使っても同じだ。そうは言いながら、筆者は他人がやらないことを成し遂げた人物には関心がある。正確に言えば、その人物ではなく、成した行為だ。三宅は柳と決別した。だが、民芸という根は同じであって、それを用いた生活を讃え、また生産者を奨励や養護した。そのことと肉を食べさせる商売のどこがうまくつながっていたのかそうでなかったかの疑問はあるが、民芸に携わる人たちには生活があり、その生活を支えるためには商品として売る必要がある。そこには商売のノウハウは欠かせないのではないか。柳にはその観点が欠けていたように思う。簡単に言えば、古い骨董「としての民芸が美しいのはわかるが、そればかりを鑑賞していては美術や美術工芸とあまり大差がない。もっと重要なことは、そうした古くから伝わる民芸を今後も伝えることで、そのためには現代を知り、また商売も看過してはならない。おそらくこの商売という点が柳には気に食わなかったのではないか。柳は民芸の品物は安価であると定義した。量産するからだ。また量産が手慣れを生み、それが独自の健康な美を宿すと主張した。それは江戸時代は明治あたりまでなら実際的であったかもしれない。ところが民芸の品物が古臭くて流行遅れとみなされると、量産出来ず、伝える人もなくなって廃絶するのは目に見えている。その一方、柳の思想に共鳴して芸術家が集まったが、彼らの作品は民芸的ではあるものの、非常に高価だ。柳の考えには矛盾があった。そこを三宅は納得しなかったのだろう。
では、三宅の考える民芸が現代に可能か。つまり、柳が才能を見出した芸術家のような方向ではなく、今の生活空間に美しく似合いながら、丈夫で長持ち、しかも安価な商品だ。そういうものはわる、また生み出すべきと三宅は考えたろう。これは柳もまた彼の子どもたちも同じであった。手作りにこだわらず、機械による量産で安価に抑え、しかも美的なものを目指した。三宅はその方向とは違ったかもしれない。日本工芸館の展示を見る限り、機械で作った工場製品はない。昔ながらの手仕事で、素朴な味わいを失わないものだ。それは一見古臭いが、すぐに温かみが伝わり、日常生活の中に置いてみたくなる。そう思うのは筆者が還暦過ぎた年齢であるからかもしれない。したがって、若者のこの館を訪れた意見を知りたい。それを想像すると、案外筆者と同じではないかと思う。まず珍しさが先に立つだろうが、次に懐かしさのようなものを感じるに違いない。古くからの造形にはそれが必ずある。その意味で民芸作品は永遠と思う。時代が進むにしたがって、少しずつ形や色は変化するはずだが、少しずつであるから、昔のものとあまり変わらないと思う。そのいい例がたとえば伏見人形だ。今のものは色が原色過ぎてどぎつい。ところが昔はそんな色がなかったので使えなかっただけという見方は出来るし、また派手な原色が氾濫する時代に、あえて昔の素朴な色使いをすれば、かえって出来上がりは嫌味を増す恐れがある。生活空間が昔とは大きく変わり、照明が強くなったから、民芸的商品もそれにしたがって変化すべきだし、また必然的にそうなる。そういう新手の商品を柳は民芸調として退け、美のかけらもないものとみなしたであろう。確かにそういう見方が正しい一面はあるが、そうした商品もまた半世紀、100年と経てば、鑑賞に耐える味わいを宿しているはずで、民芸はそんなに狭い枠に収まるものではないだろう。だが、やはり民芸は芸術好きの中でもごく一部の人が愛好するもので、そのことはこの館を訪れるとわかる。建て増しして複雑な空間になっているうえ、展示ケースや場所は好条件下にあるとはあまり言えない。公費を投じればもっと立派な建物や展示空間は出来るが、民芸や郷土玩具にそうしたお金が費やされることはめったにない。あっても絵画や彫刻の次の次といった位置にある。美術工芸ではないのであるから、作品の価値がなく、したがって立派な建物など不要という考えだ。
ここでは公募展も開いている。そうした作品が1階に並んでいて、値札もついていた。青森の人が作った裂き織の玄関マットが2000円台で、材料費にもならないだろう。安価はいいが、作者の生活は成り立たない。これでは民芸作家は趣味で制作ということになるし、またそれを嫌っていわゆる美術工芸家という芸術家を目指す者もある。それは三宅の否定したことであるから、この館で並ぶ作品は限られて来る。それでもかなり多様で、筆者はほしいものもままあった。端午の節句飾りの人形の前で、同じ意見の人と話した。「とてもいいですねえ。ほしいけど、ちょっと高いかな。」「それでもこれだけの作品ですからね。お孫さんのお祝いにでも買ってあげればいかがですか。百貨店の人形売り場にはないでしょうし、あってもこの価格ではまず買えないでしょう。」 最初、受付の女性の写真を撮っていいかと訊いたところ、半ば悩みながら、駄目ですとの返事であった。図録といったものはない。2階、3階、そして屋上見て回り、どこもそれなりに面白かったが、3階の狭い踊り場だったか、高さ2メートル、幅1.5メートルほどのガラス・ケースに世界の土人形がびっしりと収められていた。1000体は軽く超えていたろう。そのケースごとほしいと家内に言うと、「やっぱり変人やね」と呆れていた。それと似た展示をわが家では行なっていて、それを見ながら毎日暮らしている。そう言えば今月は李朝の古い箪笥を買った。家内とふたりで3階に持ち上げるのに苦労した。それに取りつける鍵を目下探している。民芸は世界中にある。今はインド更紗やインドネシアのイカットの本格的なものがほしいが、数万円ではいいものがない。民芸でも古典は驚くほど高価だ。かと言って新しい出来のものは色がすぐに褪せるなど、使い捨てだ。三宅が思った民芸もそうだろうか。使い込むほどに価値が増すような民芸品は、今では安価では製造は無理だ。そのような悩みを抱えながら、これからも民芸ファンはなくならない。そうそう、1階の奥には大きな売店があって、郷土玩具などの小さなものが売られている。そこは入場料を支払わずに入れるので、また訪れたい。青森の有名な鳩笛が色鮮やかな新品で箱入りで売られていた。1500円ほどだったと思う。その鳩笛は大小3個を持っている。小さなものは長さ8センチで、最大は1メートル近いはずだが、全部でどれほど種類があるのだろう。全部揃えたい。