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●『千日の約束』
れるような寒さが日が暮れてからやって来た。今日は自治連合会の新年会であった。松尾駅前の料亭に午後4時半に着いた。徒歩で20分だ。連合会の役員を除けば筆者が一番乗りであった。



5時から会議があり、6時から宴会、それが今日は料理が出るのが遅かったこともあって10時前にお開きになった。筆者は嵐山まで一駅歩く。真っ先に会場を出た。宴会のさなか、窓から雪が降りしきるのが見えた。向い側には地元小学校の教頭と隣りの自治会の会長が座り、話があれこれと弾んだ。話しながら、時おり筆者はその向こうの窓の外に見える雪降りを見つめた。今年一番の寒さだが、たっぷり飲んだ酒は料亭の外に出て、自宅まで20分ほど歩く間に醒めた。とはいえ、今日ももう日付が変わった。今から何について書こうかと考え、先日見終わった韓国ドラマがいいと思いついた。自分の部屋の座ると、ストーヴを焚いていることもあってまた酔いが戻って来たようだが、先ほどの宴会は別世界に思える。さて、何をどう書けばよいのか、半ば意識が朦朧としている気もするが、投稿を明日に延ばすと明日がしんどいので、どうにか今夜中に書き終えたい。何から書こうかと思い、昨日のことをまず。昨日は右京図書館にDVD2枚を返却した。ところが図書館に着いて手提げ袋に1枚しか入っていないことに気づいた。毎回2枚借りるが、返却も2枚一緒で、いつも最終日かその翌日となる。昨日は最終日であった。それで持って行くのを忘れたもう1枚を取りに帰った。自宅から図書館まで自転車で30分近くかかる。たいした時間ではないが、めったに自転車に乗らないので応える。おまけに痺れるような寒さだ。それでも自分の失態であるので仕方がない。これが誰かに返却を任せているのであれば、大いに叱ることも出来るが、誰でも自分に甘い。自分を叱っても実感はない。なぜ1枚を持って行くのを忘れたか。ちょうど出かける直前に家内が仕事から帰って来た。そのこともあって、用意していた1枚を袋に入れるのを忘れた。こう書けば責任の大部分は家内にありそうだが、実際そうだ。詳しいことを書くのはやめておくが、家内とのやり取りの中でうっかり忘れしまった。それにしても筆者も適当過ぎる。1枚持って行くのを忘れると、往復1時間が無駄になる。それは大変なことだ。というのは、三条通りは道路の幅が狭く、自転車で走るのはほとんど命がけだ。その労苦を二度味わうのは2週間に一度でもいやだ。それが同じ日に立て続けに2回であるから、自分の間抜けさ加減を罵りたくなる。1枚返却してわが家に帰ると、家内はきょとんとしながら、えらく早いねと言う。1枚返却しただけだからと答えると呆れていた。5分ほど休憩してまた出かけたが、何と今度は手提げ袋を忘れた。それはすぐに気づいたが、家内の呆れ具合は今までなく、激しかった。それはそうだろう。返すべきDVDを取りに帰って来たのに、それを入れた袋ごと今度は忘れたのだ。とはいえ、自転車に乗ってすぐに気づいた。うっかり忘れることは年齢を重ねると増えるのだろうか。筆者はその傾向が強いかもしれない。去年秋はDVDを2枚返却したはいいが、1枚はディスクが入っておらず、昨日と同じように取りに帰った。昨日はケースごとであるからもっと重症かもしれない。そう言いながら、二度手間はそれなりにいいこともあると楽観的に考える。そのことを書くと今日の本題から外れる。ともかく、そのようにして自分の失態をいい方に考えることで人生は明るくなる。筆者にはその能力が人並み以上にありそうだ。
 年齢を重ねると呆け度が増す。これは自然だ。昔、赤瀬川源平がそのことを『老人力』と表現して本を書いた。かなり遅れてそれを読んだものの、さっぱり中身を覚えていない。ということは筆者も紛れなく老人力がついている。先日書いたように筆者は1歳からの記憶があるが、逆に新しい出来事にはあまり関心がないと思える。だが、これこそ老人力で、どんな老人もその傾向がある。昔のことほど鮮明に思い出されるのが老人なのだ。何も筆者に限らない。『老人力』によれば、そうした老化現象をあまり嘆くに当たらない。自然なことには自然に接すればよいからだ。老人がいつまでも頭脳明晰で細かいことを覚えていると、若者の出番がない。老人は呆けるに限る。そう言いながら、近年の研究ではこの呆けを減少させることが可能となって行く予感がある。となると、老人の呆けは自然ではなく、病気ということになる。もっとも、老人になるとあらゆる病気に罹りやすいので、呆けが病気とすればやはりそれは自然なことと思うが、コンピュータ時代になって人間が呆けるということは不自然と思われるようになりつつある。そのため、呆けは悪で、それを絶滅させることが急務といったムードがある。これはかなり薄情ではないか。呆けるのは個人の責任となるからだ。であるから、将来は呆けても誰も手助けしてくれないどころか、罪となって刑務所に入れられるかもしれない。『呆けは努力によって防ぐことが出来ます。であるので、呆けは醜いのです。みなさん、呆けないように若い頃から努力することです。』 こんなことを言う学者やタレントがそのうちTVに出て来るだろう。なかなか本題に入れない。「呆け」という言葉そのものがかなり侮蔑的で、筆者は使いたくないのだが、ほかに表現があるのだろうか。「呆け」には「ど阿呆」と同じような強烈な力が籠る。それほどの侮蔑語だが、「呆け」を病気と捉えれば、「アルツハイマイー」や「認知症」といった別の言葉がある。言葉の音感は不思議なもので、「呆け」とは違って「アルツハイマー」と言われると、聞かせた者は途端に真面目な気持ち、面持ちとなる。つまり、悪い意味での笑いがない。だが筆者にはわからない。アルツハイマーやそれを含む認知症と老化に伴ううっかりした忘れの差だ。昨日筆者がDVD1枚を図書館に持って行くのを忘れたことは、アルツハイマーの小さな芽なのか、それとも単なる老化ゆえの物忘れなのか。ま、単なる物忘れも結局は広い意味での認知症なのだろうが。
 韓国ドラマに珍しいテーマを扱ったものが今日取り上げる『千日の約束』だ。だが、韓国映画に『頭の中の消しゴム』があった。筆者は2006年にそれを映画館で見てこのブログに感想を書いている。『千日の約束』は2011年の製作だ。『頭の中の消しゴム』を参考にしたのは明らかだ。ここにTVドラマの安っぽさが露わになっているということも出来る。それはさておき、若くして記憶を失って行く若年性のアルツハイマー型認知症を患う人の割合が韓国では2000年以降に増えているのかもしれない。TVドラマはトレンディな話題を取り上げねばヒットしないから、『千日の約束』はそれなりに韓国のそうした病気の多さを反映しているだろう。日本で同じ病を扱った映画やドラマがあるのかどうか知らないが、韓国ではより幅広くテーマを見つける努力をしている気がする。とはいえ、TVドラマとなると制約があまりに多いので、幅広いテーマというものは10年単位でようやく多少明らかになるという程度だろう。さて、このドラマは家内は最初は見たが、数回以降は興味を失くした。筆者もその部類だったが、どうにか全回を見た。予想どおりの結末であったので意外性は何らないのだが、結論として思ったことは、こういうシリアスなドラマもある韓国ドラマ事情だ。誰でも笑って楽しい生活を送りたいから、不幸が積み重なって行き、救いようのないドラマは見たくない。ところが本作は認知症になる若い女性はそのままどんどん記憶を失い、最終回では墓の下に入ってしまう。そこまで描くかという気がしたが、そういう現実があるのは確かであるし、また死んだ者より、残された者のその後の人生が大切という観点からは、認知症に罹ってしまう女性の死まで、すなわち残された家族の姿まで描く必要があった。そうは言うものの、本作は主役の女性がどのような状態で死ぬかまでは描いていない。それはあまりに壮絶で見るに堪えないという考えもあるだろう。そこまでのリアリズムは誰も求めていないという監督の考えだ。それよりも大事なのは残された家族の今後の人生で、彼らが悲しみから立ち直って将来に対峙する姿を暗示的にしろ、描く必要がある。本作では認知症で死んだ妻の墓をその夫と幼いが訪れている場面で終わるが、それは母は若くして死んだが新しい命の子がすくすく育っているという、死んだ母親が望んだ姿だ。こうなると、親というものは、子を産めば後はほとんど用がなく、うまく行けば育てることが出来るし、それが駄目なら他人が育てるから、子をもうけた時点で人間の役割は終わっていると言える。魚はまさにそうだ。人間もそれと変わらないと言えるところはある。
 キム・レオンが夫役で、スエという女優が認知症を患う若き妻を演じる。また夫は恋人もあって金持ちだが、妻は貧しい育ちだ。この経済的な格差によって両者の結婚が周囲からほとんど認められないのは他の韓国ドラマでも同じで、取り立てて珍しい点はない。案の定周囲は反対で、その最も強烈なのがキム・レオン演じるジヒョンの最初の恋人の母親だ。この恋人チョン・ユミは酒井法子に似た顔立ちで、経済的にはジヒョンと釣り合っている。また、意外なことに、性格もよい。ジヒョンがアルツハイマーを患うソヨンに心移りしても、それを責めずに身を引く。ところがその母親ヒョナが黙っていない。このドラマでは最も憎らしい役を演じる。彼女イ・ミスクは『ラブレイン』にも登場していたが、全く違う性格を演じる。一方、ジヒョンの母スジョンは息子に理解があって、ソヨンとの仲を見守る。スジョンは『冬のソナタ』でお馴染みのユジンの母親を演じたキム・ヘスクだ。イ・ミスクとキム・ヘスクが役を交代してもこのドラマは違和感がなかったであろう。それほどに両者は達者な演技をした。また、このふたりはドラマの中では無二の親友とでも言った間柄で、結局はヒョナは折れてスジョンを理解する。だが、そこに至るまでのソヨンに対する罵詈雑言は、いくら金持ちとはいえ、あまりに下品で、韓国ドラマ特有の激しい人物をひとりで体現しているところがある。だが、後味のよさはドラマの結末に欠かせない。そこでヒョナは最後は善人になる。この極端とも言える変わり身は非現実的だが、娘がジヒョンの行為を裏切りとは思わず、素直に身を引くのであるから、じたばたしては損だと思い直したのであろう。このドラマではジヒョンは妻が生んだ子を連れて墓参する場面で終わるが、その頃にかつての恋人であったユミがどうなっていたかの描写はない。まさか、子連れのジヒョンでもかまわないので結婚したいということはないであろうし、そもそも母親のヒョナがそれを許さないはずだ。ジヒョンが心変わりしてもそれを許したユミは立派で、彼女は責任感の強いジヒョンに惚れたのだ。つまり、自分を捨てて、茨の道とわかっていながらも、ソヨンと結婚しようとしたところだ。ひとりの女を愛するとはそういうことだということを知らされたのだ。確かに自分は棄てられるので辛いが、自分の目は間違っていなかったという自信は保証される。それほどにユミは誇り高い女であったので、一見かわいいだけが取り柄の女性でもジヒョンは一時期結婚したいと思った。こういう関係は案外あるのではないだろうか。ユミにすればソヨンは貧しい出だが、立派にひとり立ちしているし、また世間をより知っている点での貫禄から言えば、全くかなわない。大人なのだ。そういう女性にジヒョンが魅せられたならば、自分はかなわないと思うだろう。そして母親があまりにドライで心ない言葉を周囲にまき散らすので、その反動でなおさら泣き言を言わずに引き下がったのだろう。また、そういう婚約者を捨ててまで、しかもアルツハイマー症がわかりながらもソヨンと結婚したいと思うジヒョンはよほど女の魅力を感じたからだが、これは現実的には難しい問題を突きつけている。
 実はこのドラマを見ながら、筆者が思い出していた夫婦がある。あまりここで詳しく書くのはまずいが、それもあってこのドラマについて書くことはやめておこうとも思った。今もその気持ちがないわけではない。その夫婦は昔から家内ともども交流がある。息子を連れて泊まりに行ったこともあるほどだ。奥さんが家内の親友で、夫は文句のつけようのない人柄で、とても優しい。ところが10数年前か、若年性アルツハイマーであることが発覚した。仕事は辞め、代わりに奥さんが働き始めた。夫の病は深刻さを増して行く一方で、ついには奥さんまでも精神を病んでしまった。去年久しぶりに奥さんから電話があり、筆者は5分ほど話した。電話で話せるほどなので深刻ではないと思うと実はそうではなかった。毎年来ていた年賀状は今年はなかった。聞くところによると息子のいる東京に行ったそうだ。ここでは断片的なことしか書かないが、夫の病のために妻もとうとう参ってしまったのだ。それほどに認知症は周囲を巻き込み、予想外のことを引き起こす。まさかそんな人生が待っているとは誰も思わない。ところが人生は晩年になって病に陥るとは限らない。不慮の事故もある。あたりまえのように働いて食べての生活をしているが、そのあたりまえが永遠に続くことはない。誰でも老化が待っているし、そうなれば歩くのも億劫で、寝た切りも珍しくない。そのことが元気でいる間は実感出来ない。このドラマに話を戻せば、悲惨であるのは体が言うことを利かないこともそうだが、何より記憶が失われることだ。記憶がなくなっても以前と同じようにその人物を愛することは出来るだろうか。もちろんそうだ。以前に愛した相手であるから、その人物から記憶がなくなっても物を捨てるようなことは出来ない。それが人間というものだろう。だが、世話をする間に少しずつ自分の精神を病み、ついには相手の面倒を見ることが出来ないことにもなり得る。そうなれば、周囲は煩わしさから、記憶を失った者が早く目の前からいなくなってほしいとも思うだろう。そのようにして身内を殺す事件はたくさん起きている。となれば、記憶がなくなった者はさっさと政府が特定の場所に集めて安楽死させるべきかとなれば、そんなことを言うと悪魔と思われる。このドラマではヒョナが平気でソヨンの病を罵る。それは世間の正直な思いを代弁しているところがある。それが最後は理解を示すのは、なりたくしてなったのではない患者を無暗に侮蔑すべきではないという思いを常識化したいからで、それほどにドラマは社会的に大きな影響を与えるという思いがあると同時に、ドラマとしての後味の悪さを回避する思いがあるからだ。この点を鑑賞者がどう思うかは自由で、ドラマはきれい事に終始しているという見方もあろうし、それはあたりまえとしてわかっていながら、あえて理想を描くべきという考えもある。ではこのドラマはリアリズムを追求したものではなく、かなり現実からずれているかと言えば、筆者はそうは思わない。愛し始めた女性がどんどん記憶を失って行くとしても、その面倒を見るのは配偶者としては当然で、それは苦労ではあるが、幸福でもあるだろう。またそのように思わねば世話は出来ない。最初に書いたように、筆者はうっかりして昨日は二度右京図書館を往復した。だが、今までにない感動に出会えた。それを感じながら思ったのは、物は思いようということだ。幸福は頭の中にある。それは金持ちや貧乏に関係がない。どんなに貧しくても、どんなに苦労であっても、幸福を感じることが出来る。記憶をほとんど忘れた人でもそのことは本能で忘れないのではないか。相手に記憶がなくなれば、意志の疎通が出来ないか。そうだとして、相手を無視したり、軽んじたりすることが人間として許されるか。スエという女優は、筆者はさっぱり美人とは思わず、また魅力を感じないので、その点でこのドラマはあまり面白くなかったが、キム・レオンが泣く場面は演技力を以前より増していて、適役であった。題名はアルツハイマー型認知症となって1000日ほどでソヨンが死んだという意味だろう。その間に妊娠出産が出来たので、女性としての動物的な役目は果たした。
by uuuzen | 2013-01-26 23:59 | ●鑑賞した韓国ドラマ、映画
●『風の中の牝雞』 >> << ●ムーンゴッタ・2013年1月

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