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●『レオノール・フィニ展』
日本で最初のフィニ展があったのは1972年だ。大阪にも巡回したが、当時それを知っていながら行く機会を持たなかった。次に開催されたのは1985年で、これもどういうわけか行かなかった。



●『レオノール・フィニ展』_d0053294_0561321.jpg大抵の気になる展覧会には訪れているつもりだが、1980年代半ばは息子が生まれて間もない頃で、ひとりで展覧会に行く身勝手を自粛していたのかもしれない。それで、フィニのことは30年以上もずっと気になりながら、実作品に接することが一度もなく、知識の謎めいた空白地帯が脳裏にずっと占めていた。梅田大丸で今回の展覧会が開催されることを知った時、これは長年の関心を一気に埋めるチャンス到来とばかりに心待ちにした。それにしても大丸百貨店は矢継ぎ早に海外から作品を借りてのさまざまな展覧会を開く。ここ京阪神では京都烏丸、大阪梅田、心斎橋、それに神戸元町の4店もの大丸があって、そのいずれも展覧会用の会場がある。同じ展覧会がこれら4か所全部を巡回することはなくて、1か所だけの場合が多いので、開催日をよく考慮して見落としのないように、また他の展覧会にも同じ日に回れるように予定を組む必要がある。それにしても百貨店でこれほどの充実した海外の美術の展覧会を次々と企画するのは大丸だけと言ってよい。大丸ミュージアムのフリー・パス・カードとやらがあって、それを提示すると2名が何度でも、またどこの大丸ミュージアムでも無料で入れる。今年9月から来年2月までの約半年で22の展覧会を開くそうだが、あちこちと行動しやすい人にとってはこのフリー・パス・カードは便利でいい。それでも20年前の『フィニー展』を開いた大丸が、またフィニの展覧会を開くというのは、前回の実績があって作品の貸与が得られやすいということと、20年経てば、生まれ立ての赤ん坊も20歳になって、充分展覧会に興味を抱いて会場に足を運ぶという計算があるからだろう。となると、大丸が半年の間に22の展覧会をどこかの店舗で開くペースは今後も持続しそうで、百貨店における美術展のひとつの規範を確立していると言ってよい。百貨店内のスペースであるので、展示作品数に限界があるのは仕方がないが、行くのに便利なところであるし、大規模とまでは行かずとも、中かそれ以上の規模の展覧会が続々と開催されるのは美術ファンにとってはありがたい。フィニ展も日本では3回目になるが、百貨店での開催となればせいぜい2週間が限度で、うかうかしているとすぐに会期が終わってしまい、また20年も待たねばならない。若い頃の20年はとんでもない長さだが、中年以降の20年はまた別の意味があって、次はもうこの世にいないかもという寂寥感のようなものが顔を覗かせる。そのためにも、出来る限り、時間を作って展覧会に訪れるようにしている。
 フィニはめったに展覧会が開かれない代表格のようなところがあるし、また他の画家の作品と一緒に並ぶこともまずない。9日に観に行ったが、予想していたとおり、人の入りはあまり多くなかった。通常の意味では美しくはなく、むしろかなり不気味な絵であるので、敬遠する人が多いのだろう。図録は2000円であったが、あまり大型ではなく、少し貧弱に見えたこともあって買わなかった。ところが帰宅してから急に買っておけばよかったと思い始めた。手元にはまだ2枚の招待券があるので、それでもう一度行くことも考えたが、会期は残り2日で、また大阪に出る気持ちも暇もなかった。そう思っていると、家内が妹と久しぶりに大阪に出て話すというので、それならばフィニ展を観て図録を買って来てくれと頼んだ。家内の話によると、会場はびっくりするほどの若い人たちで溢れ返っていたそうだ。最終日ということも影響したのだと思うが、若い人たちにとっては全く初めてフィニ作品の実物にお目にかかれる機会であったはずで、そんな未知の、しかも有名画家に対する関心が芽生えていたのであろう。それで、図録をさっきざっと読み終えたが、解説の文章が多く、ちょっとしたフィニの画集にはもって来いだ。フィニの画集は古書でも比較的高値であるし、以前の展覧会図録も珍しいようで、よく古書店に行く筆者もまだ一度もそれらを見たことがない。大体、図録というものは買った後はほとんどあまり見ることもせず、そのまま棚で埃まみれになるのが落ちだが、買わないと不安にもなるところがあって、比較的重要と思えるものは極力買うことにしている。だが、それらが1000冊以上にもなると、収容場所にまず困り、もう分類する気も起こらない。分類しなければ、どこに何があるかわからないことになって、ある1冊を探すのに右往左往することがしばしばある。ほしいのは広い部屋だが、もうこの年齢では無理かと諦めている。
 広い部屋という話になったので、フィニについてまた戻ろう。会場では最後にフィニの家を映すフィルムが上映されていた。8分程度の長さで、これならせっかちな人でもどうにか我慢出来る。ナレーターはフランス語だったが、部屋の名前などをほんの少し説明するだけなので、充分に理解出来る。フィニがいなくなったパリの住居を各部屋ごととにカメラが移動して行くのだが、背景に流れる音楽がラヴェルの管弦楽版の組曲『マ・メール・ロア』の最後の「妖精の国」で、これが実によかった。途中思わず涙が出そうになったほどで、フィニとラヴェルとの取り合わせを考えた人物のセンスのよさに脱帽した。フィニがどのような音楽を好んだかは図録中の説明からはうかがい知れないが、フィニが初めてパリに住んだのは1931年で、その後戦争を避けてモンテ・カルロに一時移住して制作した時期もあったが、1948年からはまたパリに戻ってそこで1996年に88歳で亡くなるまで住んだ。『マ・メール・ロア』のピアノ曲版は、フィニがまだ1歳であった1908年の作曲で、管弦楽版はその4年後に書かれたが、いずれにしてもフィニは後年充分にラヴェルの音楽を聴くことは出来た。フィルムではフィニが半世紀ほども暮らした住居がくまなく撮影されていたが、部屋数が多く、どの部屋も広いことに驚いた。フィニはもともとお金持ちに生まれだが、経済的な苦労は生涯なかったようで、パリの住居はちょっとした貴族階級のそれに思えた。そんな豪華な住宅に、結婚という手続きをせずにある男と暮らしていたが、男が世を去った後は愛する猫たちと過ごした。その数17匹で、それぞれに名前がつけられ、気儘な行動を許していた。決まった場所で排泄をするように躾けていなかったので、画面では美しく見えている部屋も実際はかなり臭ったであろう。それでもフィニはまるで自分をなぞらえるように猫の行動に制限を与えなかった。フィニがいなくなっても猫に餌を与える人がいるようで、相変わらず猫たちは部屋のあちこちで寛いでいた。それは全く「猫の国」とでも言うべき状態だが、部屋のあちこちにはフィニの描いた絵がかかっているので、フィニがいなくても、フィニの妖精のような魂が強く感じられる気がした。図録からは、今回の出品作の一部はフィニ継承会から借りたことがわかるが、フィニの油絵をリトグラフに複製したりするなどして、フィニの作品の管理をしている団体なのであろう。
 これは一瞬しか映らなかったが、今回の展覧会には来ていなかったある作品に強く心が引かれた。それは作風からして1990年代のものと思うが、さすがのフィニ独自の世界を表現したもので、ほんの少ししか見ていないにもかかわらず、電撃的に印象を深く植えつけた。この作品が図録に載っていないために、図録を買う気がそがれたのであった。つまり、今回の展覧会で最も気に入ったフィニの作品は、そのフィルムで垣間見たフィニの住居にかかる絵であった。ちょっと説明すると、絵の右奥に向こうの部屋が明るく描かれていて、窓辺にひとりの男が後ろ向きに立って外を眺めている。その部屋に続くこちら側の暗い部屋が画面の大部分を占めているが、ちょうどそこに、奥の明るい部屋からひとりの女の子が入って来たばかりで、その女の子ははっとしたように天井を向いて驚いている。そこには真っ赤に塗られた天使(のような人物)が浮かんでいる。絵の中央左上に最も目立つようにその天使が置かれているが、女の子が驚愕的に幻として見た赤い天使が、絵を見るこちらにも同じ驚愕の思いを起こさせる。天使を真っ赤に塗り潰すことは、15世紀半ばのフランスのフーケの絵に代表的なものがあるが、フィニがそうした古い絵をよく知っていたことは間違いない。20世紀の画家ではあっても、そのよって立つところはヨーロッパ絵画の深い伝統だ。これは図録に書いてあるが、フィニはグリューネヴァルトの絵を見て、「私もあんなふうになりたいという思いが募って行ったわ」と思ったが、ここにもフィニの絵の世界を解く鍵がある。フィニは技術的に非常に達者な画家で、何となく女流画家に想像されがちの、またありがちの素人っぽさがない。童話の挿絵によくあるような柔らかさとは正反対の、もっと硬質で冷たいものが流れ、女性の裸体表現にはヴンダーリッヒを思わせるようなエロティシズムがあるが、それも欲情を感じさせるものからは遠く、あたかもフィニ自身が女性であることを否定したがっているようにも見える。また遅筆であったようで、油彩画は1年にせいぜい10点しか描かなかったが、それだけ1点ずつに集中したことは今回の展覧会でも充分にわかった。長い画家生活であってので、いくつかの作風の時期に分けられるが、どの時期も見事にフィニ以外の何物でもない。そしてどの時期もある程度は同時代の絵画のムーヴメントと踵を接しているように見えつつも、フィニ独自の世界表現になっているところが面白い。それは孤高でありながら、時代の空気は敏感に吸っていたことの証で、フィニの鋭さを再認識させる。そうした同時代の絵画の動きと関連してフィニを論ずる、あるいはフィニの生まれ育ちに重点を置いて考察するという、大きく分けてふたつの立場があるが、そのどちらにおいても興味深い問題をフィニは提供している。
 後者としては、フィニはアルゼンチンのブエノスアイレスに生まれながら、1歳の頃、母が父親の手から逃れるために娘を連れて生まれ故郷のトリエステに戻ったという事実が大きい。アドリア海に面するトリエステは戦後にイタリアの領土になったが、それ以前はオーストリア=ハンガリー帝国の港町で、フィニには母方のドイツやスロヴェニア、父親のスペイン、ナポリといった血が混ざって流れている。そのことが家庭的な事情と絡んでフィニの複雑な性格を築き上げていることは充分に考えられる。グリューネヴァルトを好むという発言は、フィニにおけるドイツ的なものとの呼応であろうし、ブルトンにドイツ・ロマン派の絵画を教えたというエピソードも同じことを思わせる。絵画においてフィニは、誰かに直接何かを教えてもらうのではなく、必要なものはすべて独学で吸収して行った。誰にも負けない自負というものがフィニにはあって、その自信はどの絵にもよく出ている。マニエリスムやラファエル前派、クリンガー、ベックリン、クリムト、ムンク、ビアズリーと、フィニが愛好したものを並べると、彼女の絵を知らなくてもおおよそどのようなタイプのものかは想像がつくが、今回の展覧会のごく初期の作品は、たとえばキリコやピカソの影響があらわで、思いのほかフィニが多くの画家を密かに研究していたことがわかる。結局、ルネサンスから現代まで、そして汎ヨーロッパ的に美術への視野を配り、自分に必要なものを次々と発見して絵を革新して行ったわけだが、各時期における一変する画風それぞれに注目して詳細に論ずると、そこからそれこそヨーロッパ美術のあらゆる事柄が浮かび上がって来るとさえ言える。パリに長年住んだフィニだが、その絵は明るい色を使っている時でさえ、思索的で夢幻性があり、国境には何ら囚われないコスモポリタンとしての面目がある。アンドレ・ブルトンとはそりが合わず、シュルレアリスム運動の一員と呼ばれることを拒否したというエピソードもそうしたことから充分に理解出来る。男はよく派閥を作りたがるが、女はひとりで立つことをいとわないどころか、それを常に望んでいるものではないだろうか。強い女であればなおさらそうで、フィニはナルシストからもはるかに越えた自国に佇むひとりの王女であった。
 図録には面白い写真がいくつもある。フェリーニと一緒に写った1973年のスナップもそのひとつで、フェリーニは貫祿充分に、たぶんフィニの画集を広げて眺め入っている。それを真横でほとんど体を接してフィニが見つめているのだが、そう言えばアドリア海から近い北イタリアのリミニにに生まれたフェリーニと、トリエステ育ちのフィニには共通する風土や文化の点で馬が合ったかもしれない。今回の展覧会にもいくつか仮面が展示されていたが、仮面好きなフィニは自作のそれをつけて仮装舞踏会に出ることを楽しんだ。一方のフェリーニもその映画からもわかるように仮面とはよく馴染むし、フェリーニの世界と通ずるものをほかにもフィニの絵は持っている。フィニの方が20歳少々年上だが、若い頃のフィニは中年以降とはかなり違った顔をしていて、フェリーニの奥さんであるジュリエッタ・マシーナとどこか似てもいる。図録の年譜によれば、1954年にフィニはイタリア映画『ロミオとジュリエット』の美術と衣装を担当しており、フェリーニとの出会いがあっても当然であった。流派というものを嫌ったフィニでも、画家などの文化人とのつき合いは少なくなく、たとえばダリとガラと一緒の写真がある。その当時はフィニはマンディアルグと暮らしていたので、ガラはフィニに嫉妬することはなかったかもしれないが、それでもシュルレアリストたちの周辺に女性、しかも絵で自己表現するフィニのような女性が少なからず存在したことは、女性同士の間での火花のようなものが激しく散っていたことは想像に難くなくて面白い。フィニの50年代末から60年代にかけの作品は「鉱物の時代」と呼ばれていて、それはフィニの変化に富む作風の中でも飛び切り独創的なものだが、一方でそれらはエルンストとの強い親近性を思わせる。実際、フィニは1930年代初頭にエルンストと親しくしていて、シュルレアリストからの影響はやはり少なくない。エルンストはレオノーラ・キャリントンという、これも個性的な絵を描いた女性と深い関係にあったが、第2次世界大戦のためにこうした画家たちの関係はばらばらになることをよぎなくされた。フィニと言えば、反射的にフィニと同じ1907年生まれのメキシコのフリーダ・カーロを思い起こしてしまうが、レオノーラ・キャリントンは戦争勃発後にスペインへ逃れて、やがてメキシコに移住して活躍した。近年大きく注目されているレメディオス・バロという、同じくシュルレアリスムの女流画家も、戦渦を避けてメキシコもヨーロッパからメキシコにわたったから、フィニからフリーダ・カーロを連想するのはあながち飛躍のし過ぎでもない。そう言えば、逆の動きもあって、戦争が始まったためにフランスへ帰国出来ずにアルゼンチンに留まったロジェ・カイヨワがいる。彼はブルトンと関係のある最後のシュルレアリストのひとりで、生涯を通じてシュルレアリスム的なものを研究したが、後年には鉱物に強い関心を抱いた。その関心の延長上にフィニの「鉱物の時代」の絵画をどのように思っていたのか、筆者には興味がある。フィニはブエノスアイレス生まれであるから、南米とシュルレアリスムという関係の中で、フィニを捉えてみることもいいかもしれない。
by uuuzen | 2005-09-12 23:54 | ●展覧会SOON評SO ON
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