●『マルホランド・ドライブ』
筆の先に消しゴムをつけたのは日本の発明と聞いたことがある。今では世界中に知られると思うが、あの消しゴムは硬化しやすく、ほとんど使いものにならないことが多い。



d0053294_1352461.jpg筆者が小学生の時はすでにさまざまな香り入りがあって、鉛筆の頭についたようなゴム製ではなく、プラスティックを原料にしたものがあった。当時のJIS企画ではゴム製のみが評価されていて、プラスティック製は邪道の扱いであったと記憶する。ところが鉛筆がよく消えるのはプラスティック製で、今ではそれが本流になっている。思い出しついでに書いておくと、半分は白のゴム、もう半分は細かい砂が入った灰色のゴムの細長い消しゴムがあった。砂入りはインクを消すためのもので、この消しゴムは大人の雰囲気があった。今でも売られているのだろうか。たぶん、あまり消えないのでもう製造されていないように思う。あるいはゴムに改良を加えて、デザインは同じでも性能がよくなっているかもしれない。消しゴムつきの鉛筆、いや、鉛筆の先についた消しゴムを「イレイザー・ヘッド」と呼ぶらしいが、この映画の題名を最初聞いた時、人間の頭が消しゴムで、それが消耗するイメージを思い浮かべた。この映画が日本で紹介されたのは70年代半ばで、当時から映画好きであったFの見たいと何度も話をしたことがある。公開を見過ごしたのだ。Fはたくさんの映画を録画していて、TVで放送されたものを撮ったのか、商品をダビングしたのか知らないが、ある日ついに『イレイザー・ヘッド』を入手したと言って、そのビデオを筆者に貸してくれた。すぐに見て返却し、今はまた筆者の手元にある。再度手元に来たのはもう20年ほど前のことだ。タイに移住するので、レコードや本、ビデオを全部処分し、筆者が関心を抱いたビデオはプレゼントしてくれた。最近中古ビデオ・デッキを買ったこともあって、先日は手持ちのビデオ・テープを調査整理した。『イレイザー・ヘッド』を見つけたものの、すぐに見る気にはなれなかった。何度か見たので覚えているからでもある。また、デッキを買って以降、中古ビデオを20本近くネット・オークションで買った。買ったはいいが、いつ見ることになるかわからない。その中で最も見たかったのは今日取り上げる『マルホランド・ドライブ』だ。てっきり5,6年前の作かと思っていたが、2001年ではないか。あっと言う間に10年は過ぎる。この映画が当時大きな話題になったことはよく記憶している。デイヴィッド・リンチの名前は『イレイザー・ヘッド』で知って以来、気にはしていたが、『ツイン・ピークス』など、ほかの作品を見る機会はなかった。それで『マルホランド・ドライブ』は彼の作としては2本目の経験となる。どのような内容の作か予備知識なしに見た。
ビデオであるので映像の劣化が心配であったが、全くDVDと大差なく、美しいカラーにたちまち引き込まれた。美しいと言うより、「どぎつい」の方がよい。画家を当初目指したリンチ監督の色彩感覚がよくわかる。また、『イレイザー・ヘッド』ほどにわかりにくくはないものの、一度見ただけでは理解に苦しむ箇所が多く、筆者は翌日もう一度見た。それですっかりわかったかと言えば、昨夜取り上げた『戦争は終わった』と同じで、なおのこと考えさせられた。その考えは1週間から10日ほど持続した。去年12月中旬のことだ。映画の記憶がうすまらない間に感想を書くつもりが、どうも気乗りしなかった。それは今も同じだ。おまけに記憶が薄らぎ始めているので、何をどう書いていいのかわからないでいる。記憶が薄らいだと言うのはあまり当たっていない。興味を失くしたというべきだ。つまり、映画を見た直後のショックはとても大きいが、あまりに複雑で、また回答といったものがないことがわかるので、考えることをやめてしまった。映画を見ている間、あるいはその直後しばらく楽しめばそれで映画の役目は終わっている。その意味でこの映画は典型的な娯楽ものと言える。だが、映画作りの手法には監督独自の工夫が見られる。それは昨夜の映画と同じだ。この映画の物語をほかの監督が描くともっとわかりやすいものになったと思うが、衝撃は少なくなったであろう。どんでん返しの意外性が本作にはあって、それは観客を驚かせてやろうという監督の好みだ。『イレイザー・ヘッド』がそうであった。まず、誰しもびっくりするような映像や場面のつなぎがある。お化け屋敷、ドッキリ・カメラ、そういったものをリンチは好きなのであろう。映画がアメリカでは娯楽の最たるものであるし、人を楽しませるには、文句なしに驚かせる必要がある。そういうことは作品を安っぽくするが、それは百も承知だ。安っぽさこそハリウッド映画の特質でもあるだろう。この安っぽさとは、セットにお金をかけていないといった製作費の問題ではない。どんなに巨費を投じてもアメリカ映画は安っぽい。それは中身があまりないからだが、歴史が浅い国では仕方のない話だ。昨日の映画はフランスという国のあらゆる文化を歴史を背負っている。アメリカ映画はそれがあまりに短い。それでもハリウッドは映画産業で今なお世界の中心になっているし、リンチはそのことを誇ってもいるだろう。また、ハリウッド映画の中にもヨーロッパの芸術的と言ってよい作品に劣らないものがあるのは当然だ。それはたぶんにヨーロッパの映画人が戦争を避けてアメリカに拠点を移したことが理由にもなっているが、それはそれで彼らがアメリカで撮った映画はハリウッドの遺産となった。
 「マルホランド」と聞いてそれがどこにあるかがだいたいわかる世代は筆者ら60歳くらいが天ではないだろうか。ベンチャーズのアルバム・ジャケットでハリウッドの夜景を写したものがある。筆者はそれでこの山道の名前があることを知った。ロサンゼルスの北部で、京都で言えば左京区から比叡山を登る道を思えばよい。UFO観察に最適であるような場所で、そのミステリアスさがマルホランドにはつきまとっている。そのことをよく知ってリンチは本作を撮ったのではないか。この山道は、本作で最初に描かれるようにそこでは暴走族がよく走り、自動車事故が少なくないのだろう。本作はある女性に捧げられている。リンチの助手をしていた若い人物で、確かこの山道で自動車事故で死んだ。薬物摂取をしていて、そんなことも原因であったのだろう。彼女が死んだことにショックを受けたのか、リンチは着想を得た。もうひとつの思いはハリウッド映画の名作へのオマージュだ。暗い山道を走る自動車の後部が映画の最初に映し出される。これは誰でも『サンセット大通り』を思い出すだろう。その想像は正しく、映画が進むにつれて、俳優を目指すふたりの若い女性の対立が浮き彫りにされる。『サンセット大通り』は無声映画時代の大女優が古ぼけた屋敷に召使とともに住んでいて、自分に役が回って来ないかを期待しているが、男を求める思いがまだ残っていて、若い男性が彼女の餌食になって死ぬ。その場面が映画の最初にある。死人に口なしであるのに、その死んだ男が老女優との出会いとその後、そしてどういう顛末で殺されたかを明らかにすることで物語が進む。男性はどこかコミカルに演技するので陰湿さからは免れた作品だが、当初は死体が口を開いて物語を語り始める場面が用意されていたから、かなりグロテスクな内容であった。それではヒットしないと考えられ、冒頭場面は撮り直された。そして、車がハリウッド大通りを走る場面に変わった。その有名な場面をリンチは引用し、時間を夜に変え、またハリウッド大通りではなく、マルホランド・ドライブにした。ところが、映画の冒頭で事故に遭った女性は不思議なことに無傷で、そのまま車から出て山道を下り、サンセット大通りに出て、とある家の植え込みの下で寝入ってしまう。そこに家の主で女優の老婆が旅行へ行くために外に出て来て、車に荷物を積んで家を後にする。車に乗り込む直前、老婆は何かを感じて家の玄関を振り返る。そこには植え込みで眠っていた女性が家の中に入る様子が見えたはずなのに、老婆はそれを無視して車に乗る。まずこのことだけでもこの映画の夢のような不思議さを味わう。老婆は確実に女性を見たはずなのに、見えていない。これは事故に遭った女性が幽霊と考えるしかない。あるいは植え込みで寝入ったので、女性が夢見ている光景であるかだ。このように、本作は謎めいた場面がどんどんと登場し、辻褄が合うように描かれない場面を想像しながら見ることになるが、それでもその試みはまず誰しもみな裏切られる。
 さて、先に冒頭は自動車事故の場面と書いたが、それは違う。これは本作で一番印象的な場面と言ってよいが、最初に映し出されるのは、50年代末期か60年代初頭らしき若い男女が音楽に合わせて踊るジルバだ。会場はわからない。背景はピンク色で処理され、踊る人物しか見えない。これがやがて増殖し、人物が重なった部分は黒い穴となって、そこにも人物が見えたりする。この場面は1分ほどだろうか、とても強烈でしかも気味悪い。なぜだろう。普通の若者が明るい背景をと伴って激しく踊っているだけであるのに、どこか暗い。原色の蛾は毛虫を拡大して見ている気分で、どことなく吐き気を催させる。そのことに映画の本編が暗示され尽くされている。リンチの才能の稀有なところはこの本当の冒頭のジルバの場面だけでもわかる。また、この場面が本編とどう関係するかだが、後半になってようやく、もうひとりの主役である若い女性がジルバで優勝した経験を持つことが明かされる。自動車事故に遭った女性はハリウッド大通り界隈の見知らぬ老婆の家に入り込んでまた寝入ってしまうが、そこにその老婆を頼って田舎から女優志望の若い女性ベティがやって来る。いかにも田舎出といった感じで、事故に遭った女性の妖艶さとは対照的だ。事故に遭った女性を見つけたベティは名前を訊く。反射的に壁のポスターの女優の名前を見てリタと答え、自分は事故で記憶喪失になったと話す。そうしてベティはリタの記憶を取り戻そうとして一緒に行動するが、後半にどんでん返しがある。それは、リタとベティは実はレスビアンの関係で、ベティは映画で役をもらえず、リタが主役を射止めることだが、田舎出の純真そうなベティは、薬漬けの日々を送り、リタとのセックスを夢想してオナニーをするなど、それまでのベティとは同一人物とは思えないやつれた役柄に変わる。また、大人の魅力を振り撒きながらも物静かであったリタは、まるで売春婦のようないやらしさをもろに出す女となっている。ベティが役をもらえなかったのは、田舎でジルバで優勝した程度では、ハリウッドでは物にならない現実を示しているのであろう。また、色気ぷんぷんのリタは、本作では描かれはしないが、映画の出資者と肉体関係を持つなどして、積極的に関係者に売り込んだはずで、そういうことは映画界ではいわば常識に違いない。女の魅力を最大限に振り撒く者が有名になる。おそらくそんな現実をいやというほど見て来たリンチは、『ハリウッド大通り』のかつての大女優とは違って、俳優の卵と呼んでいい無数の娘の夢が破れる現実を描こうとした。そこには自分の助手の自動車事故での死亡もあるだろう。彼女がリンチにどんな夢を語っていたのか知らないが、おそらく女優になる夢を描いていたと思える。となれば、若くして死んだ彼女はベティ像に投影されている。
 希望に胸ふくらませてハリウッドにやって来たベティが、レスビアンの関係を持ち、相手の女が自分の目の前で監督にいちゃつきながら主役を射止める場面を目撃したとすれば、そしてその相手がもはや自分とのセックスを拒否したとすれば、どのような絶望に陥るか想像に難くない。手を伸ばせば薬物がある。それを服用し、オナニーに耽りながら、誰にも看取られずに死んで行くことは珍しくないのではないか。そういう絶望をテーマにした映画であるので、後味はきわめて悪いが、ハリウッドでなくても似たようなことは人間には多々ある。さて、本作のだいたいの筋立ては以上のとおりだが、理解に苦しむ場面がとても多く、どこからどこまでが現実で、また夢なのかはわからない。先に書いたように、事故に遭ったリタは老女優の玄関前の植え込みの影で寝入る。となれば、その次のカットはリタの夢の場面とも考えられる。そうして見続けると、またリタが寝入る場面があって、その次の場面はリタの夢の中の夢かということになるが、最初の寝入り後の次のカットが彼女の夢とは限らないし、二度目の寝入りが今度はそうかもしれない。このようにいくつもの組合せとして場面が考えられ、どこかゲームのような様相を呈している。ゲーム好きな人はおそらくこの映画を大いに好むだろう。リンチはネット時代の到来に合わせて本作を工夫し、ゲームを考える面白さを持ち込んだのであろう。また、ゲームならば正解があっていいが、本作にはそれはおそらくない。あれこれ考えて結局謎が残るということが面白いのであって、考え過ぎた結果、ついに何もかもが氷解したというのであれば、それこそ安っぽいゲームそのものだ。夢と書いたが、夢とは曖昧な言葉だ。子どもの頃から筆者はこの言葉が曖昧であることに不満を持っている。日本でもアメリカでも夢はふたつの意味がある。ひとつは希望や大志としてのそれで、もうひとつは睡眠中に見る映像だ。前者は覚醒している時の指標で、後者は理性から外れたところに存在にしている。このように全く異なるふたつのものに、なぜ同じ夢(DREAM)という言葉を充てるのか。その思いをさらに強くするのが本作が、ベティには女優になりたいという夢があった。その一方で薬物に冒されたのか、現実にはなかったことを夢想し、それが映像として本作に描かれている。そしてその部分は鑑賞者にはすっかり把握することが出来ない。本当は出来るのかもしれないが、筆者はその謎を解くほどの関心がない。
 主役はベティと言ってよいが、冒頭でリタが寝入る場面などは、リタが主役だ。となると、本作はふたりの女性の妄想と実際の行動が一緒くたに一連のものとして描かれ、場面ごとがそのどれに相当するかの解釈が求められる。だが、それは簡単ではない。そのうえ、ふたり以外にも登場人物は多い。たとえば映画監督だ。彼は資金を出すある人物の言うことを聞かねばならない。脅迫されたりしながら、映画の最後ではリタと関係があるように描かれる。つまり、描かれない影の部分が非常に多く、文章で言えば行間の読み取りを絶えず行なわねばならない。それはたいていは誰しも妥当なところが推察出来るが、そういう読み取りからはみ出ている登場人物も用意されている。これは本作では最もぎょっとさせられる恐怖の場面として、安いレストランの裏手に住みついている真っ黒な汚れた顔をしているホームレスが登場する。彼のことを恐がっているある若い男が、レストランの内部で別の男にその恐怖について語る場面が最初の方にある。このふたりの男がベティとリタにどう関係して来るのかと思っていると、何の関係も持たない。これは映画としてはきわめて不親切と言うべきだが、全く関係していないこともない。というのは、後半になってホームレスはもう一度同じレストランの裏手にいる場面が出て来る。そして、どこかで拾ったのか、真っ青で金属で出来た小さな箱をもてあそんでいる。その箱は記憶喪失からの回復を求めて奔走している最中にリタがひょんなことであるショーを思い出す場面につながる。このショーは夜に行なわれている。いかにもリンチらしい仕組みで、この気味悪いショーが現実のものなのか、またリタかベティの夢なのかはわからない。ともかく、ショーを見ることでリタは記憶を取り戻しそうになる。そしてふたりは老女優の家に戻って来るが、ベティはいつの間にか手に青い箱を持っている。ホームレスからもらった場面はなく、それをどこで入手したかとなれば、ショーを見ている間にバッグに入っていたと考えるしかない。それはともかく、早速その箱を開けたところ、予想どおり中は空っぽで真っ暗だ。そこにベティが吸い込まれるような音がする。この箱はベティの体や心の暗示だろう。鍵はリタだ。リタから愛し合うことを拒否されたベティは、もはや空っぽの箱で、それは人生に対する幻滅のしるしだ。簡単に言えば夢が破れた。さて、長々と書きながら、まだ何も書いていない気分だ。本作は、主にベティの願望としての夢と睡眠中の夢をベティの主観とそして客観の二面から描いたカットをつないだものとみなせばよい気もするが、それは誰の人生でも常に頭に映じていることだ。理性が働いている場とそうでないところが共存する不思議さ、つまり人生そのものの不思議さを描いたものとしておこうか。それは哲学的な命題で、それを一級の娯楽作品として仕上げたところに、リンチのハリウッド映画の新たな歴史を作って見せようという面目が伝わる。ただし、映画の裏事情の暴露が主題なので、歴史としては末期的な作品と言える。消しゴムは、昔のようなゴム製は時代遅れだ。『ハリウッド大通り』がそうであるならば、本作はいかにもプラスティック製のきらびやかなそして安っぽくもある消しゴムに思える。彼の別の作品のビデオも購入したので、いずれ見るつもりでいる。
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by uuuzen | 2013-01-22 22:59 | ●その他の映画など | Comments(0)


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