戸惑った映画を二作、今日と明日取り上げる。昨日に続いてアラン・レネの白黒映画で、『二十四時間の情事』から6年後、1965年の製作だ。難解と言っては的外れで、全体としてはわかりやすい。ところが筆者は二度見た。
一度では見間違ったか、あるいはほかのことを考えてじっくり見ていなかったかと思わせられる箇所がいくつもあった。それらの場面を確認するために二度目を見たが、思いは変わらなかった。その意味でこの映画は鑑賞者が自由に捉えてよい部分がかなり多い。同様の映画は珍しくないが、この映画はそうしたものとは違ってレネの実験精神が顕著だ。その試みがこの映画の脚本と相まって登場人物たちの不安な生活を送るその内面を言葉ではなしに映像でうまく表現していると思える。だが、そういう見方も出来るというだけであって、唯一正しいものではない。ということは、批評を拒否しているかと言えばそうではない。どんな作品も批評はされ得る。だが、レネの映画は特別に変わった点があって、それはレネが映像作品の可能性をほかの映画をたくさん見ることの中で独自に見出したものでありながら、また映画以外の表現から影響も受けているからだろう。初期の短編に図書館をドキュメントしたものがあった。レネはたぶんかなりの読書家、本好きで、フランスの文筆家との交際から文章と映像の差をよく自覚して『二十四時間の情事』や本作の長編を撮っただろう。昨日書いたように、レネは脚本を一行も書かない。専門家に委ね、それを元に映画を撮る。そこで疑問なのが、本作が脚本にどこまで忠実であるかだ。脚本に各場面の様子が事細かに書かれ、またそれを何分何秒で収めるべきかといったことまで書かれているのかどうか。作品の細部の仕上がりまで脚本が指定しているのであれば、監督はただの操り人形で、本作もレネの作と言うよりも脚本家のものとして有名にならねばならない。同じ脚本を使いながらも、レネしか取り得ない工夫があるはずで、そのことは本作では特に顕著ではないだろうか。つまり、レネは脚本を手にし、その物語を登場人物の内面に入り込んで表現するためには、脚本どおりに撮影し、フィルムをつなぐだけでは不充分と考えた。簡単に言えば斬新な工夫を求めた。それは実験という言葉を観客に思いつかせ、興業的には最初から大成功は難しいだろう。そこで脱線気味に思うには、レネに映画を撮らせるフランスの懐の大きさだ。日本ではまず製作会社から却下されるだろうし、それにレネのような才能はないだろう。芸術の国フランスと、月並みな表現はあまり使いたくはないが、二度見てもわかったような、またわからないような気持ちにさせる本作は、60年代の日本では生まれ得なかったのではないか。
『二十四時間の情事』は物語の背後に戦争があった。本作は題名からしてそうだが、「終わった」と日本語で表現すればこの映画の内容を正しく伝えない。原題は「LA GUERRE EST FINIE」で、これは「戦争は終わりだ」と訳すのがよい。過去形ではなく、現在形だ。「戦争は終わりだ」と書くと、「戦争は現在はまだ終わっていない」という含みを持つ。実際この映画は戦争はとっくに終わったのにまだ地下で活動している人たちの物語で、彼らはスペインをフランコ政権から自由な国として開放しようとパリで名前を偽って生活している。レネの短編に『ゲルニカ』がある。それと本作はつながっている。そこに『二十四時間の情事』も絡む。だが、もはや60年代半ばだ。フランスではとっくに戦争の影はなかったと、日本ではつい思ってしまう。そのため、本作は日本では興味が持たれにくかったであろう。バスク地方のゲルニカはピカソの絵で有名になった街で、今でも日本でよく知られる。この街への爆撃は、スペインの内乱が原因で、それを市民戦争と呼んでたとえばアメリカからはヘミングウェイが独裁主義のフランコを打倒するために共和国軍に参加し、その経験から『誰がために鐘は鳴る』の名作を書いた。第2次世界大戦前夜の市民戦争は3年ほどで終わり、フランコ政権が勝利した。フランスに国境を接するバスク地方はその後も独裁政権に異を唱え、独立運動が持続したが、70年代にフランコは亡くなり、その後スペインは民主化したので、今は国内は安定しているのだろう。本作はまだフランコが生きていた時代の製作であるから、反ファシズムで結束した共和主義者たちが「戦争はまだ終わっていない」という意味合いで助け合う。こう書くと、登場人物たちはみな同志で、結束が固く、美しい物語かと思ってしまうが、映画の最後あたりでは幹部クラスが集まって部下を批判し、無慈悲とも言える命令を下す。そこに脚本家やレネはスペインの自由主義の活動家たちの不毛な生活を描きたかったかのようで、戦争は終わっているのにまだ終わっていないかのように活動することに対する同情のようなものも感じられる。フランスから見たスペインであるので、それも当然かもしれない。そんなフランスとスペインの差を示すセリフがあった。彼らはスペインとパリで活動していて、パスポートを偽造して国境を越える。その時はいつもひやひやするが、それはフランスでは軽い罪で済んでもスペインでは違うからだ。また、ひとりが捕まると芋蔓式に仲間が見つかる可能性があるので、各人は普段は離れて生活し、連絡を取り合う際は合言葉を使って仲間であることを知る。何となくスパイ映画の趣が強いが、彼らを見つけることに躍起になっているスペインの警察は活動家であることを見抜いても、ほかの仲間と一網打尽を考えて、あえて泳がせる場合もある。では、本作に登場する活動家たちはどういうことを最終的に夢想しているかだが、爆弾を仕掛けるような過激な行動はせず、ただいつの日か自分たちが望んだ国になることを思って仲間と連絡を取り合っている。ここが過激派の爆弾をよく知るようになった現在の人には少し理解し難い。レネもそう思ったのではないか。幹部の思いひとつで一夜で異なる決定が下され、下っ端は右往左往せねばならない。そのことを下っ端は快く思わないが、今まで20数年も活動して来たことの矜持があるから、命令にはしたがう。
この下っ端的な人物が主人公ディエゴで、イヴ・モンタンが演じる。『夕なぎ』とは違って笑顔をほとんど見せず、渋い顔に終始する。それでもフランス映画であるので女はたくさん出て来るし、ベッド・シーンも忘れない。映画はディエゴが仲間と一緒にピレネーの検問所を車で通過する場面から始まる。普段は何事もないのにその日はパスポートの提示を求められ、警察はそこに記されている自宅に電話をかける。偽造パスポートだが、予めなり変わったその人物の住所や家族について調べてあるので、ディエゴは警官から受け取った受話器で、自宅すなわち本来のパスポートの持ち主の家にいるその娘ナディーヌとうまく会話をこなす。本当はナディーヌはディエゴのことを知らないが、事情を察して、うまく演技をしてくれたのだ。これは後でわかるが、パスポートの偽造は、本物のパスポートを貸してくれる人物がいたために出来た。同志ではないが、活動家のことを理解するフランス人で、そういう人が当時いたことがわかる。そう言えばこの映画は警察と活動家やその家族しか登場しない。ともかく、事なきを得たディエゴらだが、同乗していた仲間は検問で発覚した疑念を抱く。国境を越えたディエゴは最寄の駅に向かい、そこで仲間のホアンがマドリッドに向けて出発したことを聞かされる。ところが同地では反フランコ派の一斉検挙があって、ホアンの身に危険が及ぶ。ディエゴはすぐにスペインに戻るより、パリの仲間に知らせるべきと判断する。その理由は何であろう。これは筆者が感じたことだが、女ではないか。まず検問所でうまく受け答えをしてくれたナディーヌの顔を見たい。もうひとつは、この映画では印象的に使われる短いカットの挿入だ。これはディエゴの想念を描いているように思えた。人間は目覚めている間でも多くことをイメージする。それらは脈絡がある場合とない場合がある。これは睡眠中の夢と同じだ。本作は辻褄が合うようにどの場面も表現されているが、わずかにそうではない短いカットが挟まれる。これが時として意味不明のように思えるので筆者は二度見た。だが、覚醒している時の人間が常に意味あることだけを思い浮かべるのではない。あるいはどのイメージも意味をつなげるとは限らない。急な場面転換といった思いは常に生じている。映画がそうであっては観客は戸惑って楽しめない。本作は大枠はわかりやすい物語の運びとなっているが、断片的なカットが挿入されるので、それらが何を意味しているのかと一瞬期待し、またそれがいつもはぐらかされる。先にこの一瞬の挿入映像はディエゴの思いと書いたが、そう読み取ってもよいし、ほかの見方も出来る。
主人公はディエゴであるので、筆者は短い映像はみなディエゴの閃きを具現化したものと捉えるが、ディエゴの思いとすればディエゴの望みや行動がその短い映像で予告されていることになる。つまり予知としてのイメージだ。ところがこの映画でもうひとつ首をひねるものがある。それはナレーションだ。この声がディエゴかと思うと微妙に違って、少し甲高い。ではこのナレーターはディエゴの内面の声で、自分の行動を客観視してのものかと言えば、そうでもないようなところがある。となると、短い映像はディエゴの思いではないかもしれない。ここらあたりがこの映画を見て誰しも戸惑うところであろう。それはさておき、この短い映像のひとつに、金髪の女性の顔のアップがある。最初ディエゴの帰りを待つ女かと思ったが、そうではなく、仲間のひとりで本屋を経営している男性の女だ。猫の目のような美女で、アップになった時にとても印象深い。ではその女がその後活躍するかと言うと、ほとんど出番がないし、ディエゴと恋仲でもない。となると何のために彼女の短い映像を場違いな箇所で挟む必要があったのか。その理由はわからないが、強烈な場面としては記憶される。そこが重要なのだろう。そしてそれが女だ。ディエゴが仲間の妻を思い出しても不つごうはない。深読みすれば、映画には描かれないが、かつてふたりは肉体関係があったのかもしれない。そういう想像が突飛でないのは、ナディーヌに関心を抱いたディエゴはすぐにパスポートの返却の件もあるので彼女の家に行くからだ。それは初めてのことだ。父は数日間旅行中であったが、もし在宅していれば、ディエゴは検問で逮捕された。運がよかったことを喜ぶディエゴで、またナディーヌは彼に興味を抱き、部屋に招き入れるやふたりは肉体関係を持つ。これはまだ10代のナディーヌが単なる尻軽女かと言えば、そうでもあるだろうが、彼女は学生運動をしていて、ディエゴのような筋金入りの活動家に憧れがあるからだ。ふたりのベッドでの場面はかなり暗示的で面白い。ナディーヌの両足を扇のように左右にゆっくりと開かせ、カメラがつま先から股に向けて移動して行く。女の体を開花にたとえているのだが、この場面は短編映画の『スティレンの唄』の冒頭場面、プラステッィクの色鮮やかな花が開花して行く様子を思い出させる。ディエゴとナディーヌのベッド・シーンは本作ではやや異物のような印象が強いが、それだけにふたりは通い合うものがあったということだろう。そこに『二十四時間の情事』での男女が重なる。同じ思想を持っている者はすぐ共鳴し合うと言いたいのかもしれない。ナディーヌはその後ディエゴのために動くようになるが、しょせん学生の運動は底が浅い。ナディーヌに誘われてディエゴは彼女の仲間と会い、活動を批判される。若者たちはもっと過激な活動をすべきと考えているのだ。時代はそのように進んで来た面がある。先日来、ナイジェリアでのイスラム過激派の事件が頻繁に報道されている。それは爆弾を使ってのテロだ。同じことを60年代半ばのフランスの過激な学生は考えていて、そのことにディエゴは嫌悪感を抱く。それは、ナディーヌが学生のひとりから受け取ったカバンの中にプラステッィク爆弾が入っていることをディエゴが知り、それを妻に駅のコインロッカーに預けさせ、その鍵をナディーヌにわたす場面で示される。ここには父と娘ほどに年齢の離れたふたりが結局わかり合えない仲であることの示唆がある。
本作は3日間のディエゴの行為を描いたとされる。それは二度見てもよくわからなかった。そして3日間とすれば、ディエゴはナディーヌや妻と寝るので、活動の合間に女と寝ることだけが生活のようなところがある。妻はディエゴと早く落ち着いて暮らしたいと考えている。そして一方では同志であるから、ディエゴ以上にスペインが自分たちの望む国になると信じている。マドリッドに向かったホアンを助けるためにある温和な男が選ばれる。自動車の整備工だろうか、苦車のドアを外し、その内部に書類を隠す場面がある。この男は急死してしまう。理由は明かされない。同志らが集まって墓地に参る場面では、ホアンを助けるためにディエゴがスペイン行きを命じられる。ところが、ディエゴの正体はスペインで知られていることがわかる。幹部たちはディエゴの妻にホアンを助けよと命令を下す。合言葉やまたどこでどう乗り継ぐかなどを復唱させられ、彼女は旅立つ。そこで映画は終わる。彼女はディエゴを助けるのではなく、ホアンを助けろと命じられた。ディエゴとホアンが落ち合っている場所に到着すればふたりとも救出出来るが、ディエゴのことは警察に知られているから、彼女は夫を失い、同志のためにホアンを助けることが出来るだけだろう。そのことは描かれないが、そうした非情な結末は予告されている。あるいは彼女も逮捕されるかもしれない。何を目的で生きるかと言えば、人さまざまだ。ディエゴのような人たち、またおそらくイスラム過激派も、聖なるものを内側に持っていて、そのためには命は惜しくないと思っている。命をかけるものがあることは幸福だ。それ以上の幸福はないと言ってよい。であるから、ディエゴやその妻はどんな状況にあっても幸福と思うだろう。出口がなかなか見えない戦いにディエゴは半ば疑心暗疑になっている。そのことを妻がたしなめる場面がある。妻も本当は活動の不安とは無縁の状態で夫と暮らしたいのだ。しかし仲間から脱退してしまうと、彼らからは裏切り者と思われる。そうなれば無念のうちに死んで行った者たちに顔向け出来ない。そういう苛酷な人生があることをレネは描きたかったのだろうが、彼らの救いは、たとえば理解し合える異性があることだ。その理解は心底からかどうかはわからない。ディエゴとナディーヌは出会ってすぐに抱き合う。それは一度だけのことだ。刹那的と言うべきで、ディエゴら活動家はそのようにしか生きられない。それを自覚しながらも、昔のとおりに活動を続けるしかない。この戦争を終わりにさせない思いは、守るべき自由や教えといったものがある限り、人間から消えることはない。ディエゴの妻と書いたが、正式には結婚していないのかもしれない。彼女のもとに戻ったディエゴは小さな子が眠る寝室に入り、その枕元の小さな黒板にチョークで何やら文字を書く。字幕スーパーではその訳語が出ず、また黒板がクローズアップされなかったが、二行目は「ソレイユ(太陽)」であったような気がする。地下に潜った生活を四半世紀続けて来たディエゴらが本当に太陽を感じるのに、自分たちの力が微力であることを自覚しないのであろうか。この映画の邦題を、後年ジョンとヨーコの名曲が真似をした。それほどに戦争はなくならないということだ。しかも爆弾テロの脅威は高まる一方で、皮肉にもこの映画で描かれたフランスの学生たちの思いが前面に出て来た。蛇足ながら、ディエゴの妻は飛び出す絵本を作ることを職業にしていて、ここにもレネ監督の本好きが出ているように思う。また、彼女の手伝いをしている女性がディエゴの素性を知りたがり、ナディーヌから受け取った爆弾入りのカバンを密かに開ける短い場面がある。それは実際にそうであったのかディエゴの不安の想像なのかわからないが、筆者は前述のように、そうした断片的映像の挿入はディエゴの思いの視覚化と考える。