還暦はめでたいそうだ。60歳が平均寿命より上であったからだろう。寿命が延びた今では60はまだ若いとされるが、60は60で、昔の60と雰囲気は変わらないはずだ。長寿になったとはいえ、それは老人の時代が延びただけで、若い期間は昔のままだ。
それを勘違いしやすく、30になっても結婚しない女性が多い。まだ大丈夫と思っているうちに数年はすぐに過ぎ去り、子を産む適齢期を逃してしまう。最近TVで女性の写真を見せ、何歳に見えるかを訊ねるコマーシャルが頻繁に流れる。実際は50だが、質問された若者たちは20代や30代と答える。そのコマーシャルを見るたびに筆者はTVの質問者に向かって「50!」と言う。それを聞いていつも家内が笑う。コマーシャルに出ている女性はよほど自分が若く見えることに自信があるのだろう。だが、50は50だ。いくら何でも20代はない。若者が年配者の年齢がわかりにくいのはいつの時代もだ。まだ到達していない世代のことに理解が及ばないからだ。ところが50をとっくに越えた筆者や家内は、いくら化粧でごまかしても50歳は50歳に見える。そのTVコマーシャルは50より若い人に質問しない。そこがみそだ。60の人に訊くと、きっと50であることを当てる。化粧しても年齢は隠せない。ところが美容ビジネスはいつの時代でも大儲けが出来る。そしていつの時代でもそうした成功者の女性がいて、TVの有名人になる。名前は知らないが、最近よくTVに出る中年女性がそうだ。家内に訊くと、化粧品か何かで知られて来た人らしい。その女性が、熱海だったろうか、山手に豪邸を建てた。有名芸能人を数多く呼んでパーティを開き、それがTVの特番になった。また先月は別の番組で邸宅の内部を紹介していた。美容商売で儲けたお金で建てた家を使ってまた金儲けしている。とかく金は金がたくさんあるところに集まるものだ。そのことを改めて思わせるのがその女性だ。ゑべっさんではそうした女性を十日戎に呼ぶべきではないか。あるいはそうしたいのは山々でも、ギャラが高くでかなわないか。女性を美しくすることに貢献する商売であるから、何らやましいところがあるのではなく、むしろみんなから大喜びされる。であるから大金持ちになる。そのため、貧乏人は自分だけが喜ぶ「けちんぼ」であるという理屈になりそうだ。金持ちならそう言うだろう。美容にたくさんのお金を使うと、確かに美しくなる。同じ50でも、しょぼくれて見えるより、一見若い方がいいに決まっている。そのことをよく女性たちは知っていて、美容代に男では考えられないお金を費やす。とはいえ、男も今はいろいろと化粧品らしきものを使う。筆者は安物の石鹸で毎晩30秒ほどで顔をざっと洗うだけで、一切そのほかには使わないが、家内に言わせると、だから年齢相応に見えるということだ。

還暦は建物にも言える。鉄筋コンクリートの寿命はせいぜい60年と昔習った。実際は立地やメンテナンスによって差が出るが、それでもせいぜい半世紀と思ってほいた方がよい。それに日本が豊かになって耐震基準が上がって、まだ半世紀経っていない建物は外側から鉄で覆われたり、支えをされたりで、本当ならば30年ほどしか持たないことになりそうだ。その一方、ある業者が「100年住宅」なるものを宣伝している。外見は全く今までと変わらないのに、どこが違うのだろう。前にも書いたが、100年後は誰も生きていないから、嘘をついたなと訴訟を起こされることもない。それに予測出来ない大地震があったので、仕方なしに壊れましたと言えば済む。「100年住宅」という甘い文句に釣られて買っても、今までどおりの寿命と思っておいた方がよい。高度成長期に造ったあれこれが寿命を迎えていて、その建て替えや修理に莫大な費用がこれから必要となるが、修理業者がたくさん生まれてこれは新たな働き場所が増えていい。ただし、手抜き工事がどんどん行なわれ、どこを修理したのやらということになるに決まっている。笹子トンネルの事故は、定期的に検査をしていたにもかかわらず生じた。これは検査をしていると称して、実際は何もしていなかった。つまり、手抜き、さぼりだ。そういう職業、仕事が今後はどっさりと増える。放射能の除染も同じで、しかるべき捨てる場所がないので、あちこち無造作に投棄している。そうしても、放射能は見えない。こんなにうまみのある仕事はない。除染の名目で大儲けが出来る。悪いことをすればするほど儲かる。であるから儲かっているのは悪人ばかりという理屈になりそうだ。手抜きをされても一般人はわからない場合が多い。笹子トンネルの内部が点検によって劣化場所が全部わかったとして、それが竣工当時の強度を持つかとなると、修理するのは個人だ。夜間の数時間しか出来ないこともあって、完璧な仕事が常に期待出来るとは限らないのではないか。そこは修理者に信頼を置くしかない。ところが修理者には考えの差があって、かくて修理箇所の完璧度は差が出る。そうしてまた数十年持つと思ったものが、十年でほころびが出たりする。そうなっても修理者は責任を問われない。十年の間に予期せぬ自然の悪影響があったと主張すればそれでおしまい。無責任国家日本は永遠に安泰だ。だから、電化製品は数年で壊れるように作られる。その方が経済も活性化するし、時代を常に反映した新しいデザインの品物が周囲を取り巻いていいではないかという意見がある。

前置きが長くなった。大阪の肥後橋にあるフェスティバルホールが生まれ変わった。それを去年12月のクリスマス頃に見に行った。わざわざではない。国立国際美術館の帰り、ふと立ち寄ろうと決めた。同ホールは長らく閉鎖されていた。10数年かと思うとそうではなかった。ネットで調べると2008年12月に閉館になっている。筆者は長らく同ホールに入っていなかった。それでもっと以前に閉鎖になったと思っていた。開館は1958年というから、還暦を迎える前に建て変わった。ま、平均的な寿命であったというべきだろう。朝日ビルディングを高層に建て替えるため、同ホールも解体するしかなかったが、音響の素晴らしさを惜しむ声が多かった。大阪の音楽ホールは、長らく同ホールと厚生年金会館が双璧であった。1976年にザッパが来日した時は、後者で演奏を行なった。同ホールは当夜イーグルスが公演し、有名度でははるかに劣るザッパは厚生年金会館を使うしかなかった。その後、同会館は同ホールと前後して解体された。「厚生年金」という名称も今ではあまりにほころびが目立つ。日本のよき一時代が終わったのだ。同会館の音響は同ホールより劣ったであろう。だが、ごくたまにしか訪れない筆者のような者にはその差はわからない。同ホールの音響はそれほどよかったのであろうか。筆者の記憶では、大阪には音響のよいホールはなく、フェスティバルホールもたいしたことがないと言われていた。なので、もっと音楽専門の、欧米並みに音響を計算し尽くしたホールを建てるべきという意見が盛んになり始めた。ところが、このたび新しくなったフェスティバルホールの扉前のレッド・カーペットの両脇に、クラシックからロック、フォーク、歌謡曲といった日本の有名な音楽家や歌手たちが開館に合わせて寄せた色紙を見ると、大阪にまた同じ名称のホールが同じ場所に戻って来たことに大感激したものばかりで、それほど有名なホールだったのかと認識を新たにした。ネットで先ほど調べると、このホールの音響はミュージシャンには神が作ったものに思えるほどよかったらしい。拍手が滝のようにステージに聞こえて来たともあるが、それは演奏者の感覚であって、観客は知りようがなかった。つまり、このホールの人気は演奏家のもので、観客にとって音がよかったのかどうかは別問題ではないか。ホールをそのまま残して高層ビルを建てることも出来たが、周辺の道路を閉鎖する期間が長く、許可を得られなかったそうで、これはもう少し工夫されてもよかったのではないか。それでもすっかり建て替える方が安上がりで、大阪人はそれを歓迎する。
フェスティバルホールはこのたび復元されたのだろうか。名称は同じ、場所も同じ、外壁の青い陶製の半具象のレリーフによる人体や月星も同じであるから、そう言って差し支えないだろう。それで、前述のようにこのホールで長年コンサートを開いて来た音楽家たちは大喜びだ。だが、それはまだ早いのではないか。大勢の観客を入れて演奏しないことには、響きがかつてと同じかどうかはわからない。肝心のそれまでを復元ないし改良しないことには失望が待っている。もちろん同ホール以降、日本は各地に音楽専用のホールをたくさん作って来たから、音響面は緻密に計算されての建築であろう。それは主に聴き手側に立った配慮であるはずで、きっと観客は昔以上にいい音だと感じるに違いない。問題は演奏家だ。耳のいい彼らがどういう評価を下すのか。ところが、以前の響きとどこまで精確な比較が出来るのだろう。以前のホールがすぐ隣りにあって、行き来しながら聴き比べられるのであればいいが、そうではない。そのため、昔がよかったと懐かしむ声は一定の割合であるはずで、それがこのホールの評価を今後どう定着させて行くか。ただし、古い人間の意見は古いと思われるから、気にすることはないという思いがやがて大勢を占め、二代目の同ホールは立派に役目を果たして行くだろう。筆者らが訪れた時、1階に大勢の人が列を作っていて、最後尾を示す札を持った若者など、人の列を整備する人が数人いた。筆者らも並ぼうとしたが、ひとりをつかまえて待ち時間を訊くと、1時間と言う。そして鑑賞出来るのは確か10分程度であった。どこで何を鑑賞させてくれるのか、もらって来たチラシが見つからない。ホール内部ではなく、その外側のビルの窓際だったと思う。そこで一種のプラネタリウムのような星空を音楽とともに映写してくれるのを見るもので、同様の催しは二度とないという触れ込みであった。入場無料とはいえ、1時間待って10分の鑑賞では待ち甲斐がない。それで諦めた。また空腹であったので、すぐに地下に出来た新しい食堂街に行った。以前のホールとほぼ同じ形にエントランス・ホールが作られたと思うが、1階の出入り口から入って正面に大きな階段があり、それを上ったところに赤い絨毯が敷き詰められ、そのさらに正面向こうにホールにつながる狭い扉がある。4月の正式なオープンまで、ホールの内部にはまだ一般人は誰も入ることは出来ないのではないか。レッド・カーペットの両脇は洒落たレストランで、公演を待つ間に利用出来る。フェスティバルホールで思い出すのは、1階出入り口のドア・ノブだ。大理石をはめ込んだ大きな勾玉型で、それは復元されなかった。また、その古いノブは解体された時に取り外され、いかるべき場所に保存された。その展示は大阪歴史博物館で2年前の秋に開催された
『民都大阪の建築力』に展示された。なかなか印象深い展覧会で、同展で紹介された喫茶店など、行こうと思いながらまだの場所がいくつかある。どんどん変わる大阪であるから、そのうちにと思っている間になくなってしまう。最後に書いておくと、フェスティバルホールの南側壁面の青いレリーフは誰がデザインしたのか、時代を感じさせてとてもよい。以前のものが外されてまた取りつけられたのではなく、同じデザインで復元された。わずかに配置に差があるが、ぱっと見は同じで、可能な限りの復元だ。これは実に嬉しい。土佐堀川沿いを歩いても四角いビルばかりで、絵と呼べるものはほかにない。そこにこのわずかな、ラピスラズリ色の神話をモチーフにしたようなレリーフが小さく見えることは、何ともほっとさせるものがある。街にはもっとこのような美的なこだわりが必要だ。特に大阪では。