章が変わる気分だ。昨日まで京都を話題に投稿して来た。今日からは大阪に移る。撮った写真は昨年秋以降のものが大半になる。それでも、たとえば一昨日や昨日の投稿のように最新の出来事を織り交ぜるので、古い話ばかりとは言えない。
また、映画や韓国ドラマ、展覧会など、ほかに書くべき内容はたくさんある。それらをたまに挟むつもりでいる。今日はまず、章代わりの気分でおいしい紅茶を飲んだ話を書く。去年12月だったと思う。天神橋筋商店街で家内と入った紅茶専門店がとても雰囲気がよいうえに料金も安く、気持ちがよかった。その時に撮った写真をいつ投稿しようかと思い続けていた。同じことは今後投稿する写真にも言える。載せるべき写真がたくさんたまって来ると、どの順番に投稿してよいのかますますわからなくなる。ところが、まず何かについて投稿すると、それに関連して次の投稿が自ずとわかる。そのようにして半ば茫然としていたことが少しずつ取り崩されて行く。このことは、たとえば大きな仕事を前にした時、途方に暮れながらも少しずつ手のつけられる、つけやすいところからこなして行くと、いつの間にか大きな山がすっかり崩れ去っていることと似ている。最初は手探りだが、そのうち余裕が出て来て、遊び心さえ芽生える。そういう思いをここ数日は感じた。ちょっとおおげさな話だが、ネタを多く抱えながら毎日投稿していると、日々の関連、あるいは急減な変化といったことを自覚するし、パソコンに向かうまで何を書くか決めていないことがスリルとなって楽しい。それは自己満足だが、このブログを読むひとりかふたりは、「明日は何について書くのだろう」と期待とは言えないまでも、ふと考えることがあるのではないか。そう思うことが書き続けるエネルギーになっているのではない。ただ、筆者が楽しんで書いていると、それは多少は読み手に伝染すると思いたいし、なるべく楽しいことを書きたいと思う。紅茶専門店で撮った写真だが、先ほど同じ店に行き、また同じように写真を撮った。前回座った場所には女性がひとりで陣取っていたので、その隣りの隣りに座った。今日の2枚の写真には1か月ほどの開きがある。前回は筆者らの隣りに小さな子ども連れの若い夫婦が座った。顔は忘れたが、雰囲気はよく覚えている。30歳くらいだろうか、真面目そうな夫婦だ。その店はパンもたくさん置いていて、5歳くらいの女の子がおいしそうに食べていた。小さな子どもには紅茶の味はわからないから、母親はジュースを与えていた。
筆者は毎朝トースト1枚に自分で作ったジャムを塗り、ティーバッグの紅茶を飲む。ティーバッグは2回使うが、2回目は色がうすくなり、香りもない。家にはどういうわけかいつも大量の紅茶がある。ほとんどがティーバッグで、これが紅茶だと思っているが、たまには缶入りのものも飲む。昔、ある人からFORTNUM & MAISONの大きな缶入りをもらったことがある。とても香りがあって、リプトンのティーバッグとは全くの別物であることを感じたが、ティーバッグの手軽さはない。おいしさを求めるのであれば労を軽んじてはならないが、パンを喉に流し込むといった表現がふさわしい筆者は、ひとりでゆったりと本格的に紅茶を飲む気分にはなれない。天神橋筋商店街の4丁目あたりだろうか、スーパー玉出より150メートルほど南にセイロン何とかという名前の紅茶専門店がある。たぶん出来てまだ半年ほどではないだろうか。同商店街は月に一度は必ず歩き、そのたびに新しい店が出来ていることに気づくが、この紅茶専門の喫茶店に気づいたのは去年秋だ。紅茶が飲み放題で、ちょっとしたセットものが500円からある。気軽に入れる店で、店内も清潔だ。そこの紅茶を飲んでびっくりした。去年飲んだのはアール・グレイだ。これは筆者は20代から好きで、夏場にアイス・ティーでよく注文した。アイス・ティー用の品種かと思っているとそうでもない。ともかくそれを頼むと、ガラスの筒に紅茶の葉を入れ、卓に砂時計やトランプのカードを差してウェイトレスが運んで来てくれた。砂時計の砂が全部落下すると、ガラスの筒のてっぺんのレバーを押し下げて葉を全部筒の底に詰める。そうしておいてコップに紅茶を注ぐとこれがちょうどいっぱいになる。このガラスの筒はわが家にあったろうか。その記憶が曖昧なほど、紅茶はティーバッグ専門で飲んでいる。この店で飲んでびっくりしたのは、香りがとても強く、生まれて初めて本当の紅茶を味わった気分がしたからだ。それほどに毎日安物を飲んで舌が鈍感になっているのだろう。あまりにその香りがいいので、その後も何かの拍子にこの店を思い出し、家内にまた行きたいと話していた。その機会が今日あった。簡単に書いておくと、今日は神戸に行って展覧会を見た。3か所予定していたのが、出かけるのが午後1時半頃になって1か所しかこなせなかった。阪急阪神共用の1日乗車券を買ったので、尼崎からは難波に出ることも出来たが、天神橋筋商店街のスーパー玉出に行くことにした。そこであまり買うものもないのだが、同商店街ではスーパーはそこのみで、ついつい足が向く。買い物を済まして紅茶専門の喫茶店に行った。そこで話し込んで気づけば9時になっていた。家内には何でもよく話しているようで、実際は話していないことも多い。とくに筆者がこっそり買い込んだものだ。あまりに散在に呆れる家内だが、目的があって買っているし、またそれは筆者の夢の実現へのネタであるので、文句は言わせない。だが家内が心配するのは、来年定年を迎えることだ。そうなれば無収入同然でどう生活して行くのか。とはいえ、ふたりともそんな心配はあまりしていない。これはたくさん蓄えがあるからというのではない。どうにかなるという楽観主義だ。本当にどうにかなるかどうかはわからないが、どうにかしなければならないし、今までどうにかなって来た。
先ほどTVで、30歳を超えた独身女性が都会の便利な場所にマンションを購入する特集をやっていた。年収が300万程度でも、金利の安い今は充分買えるらしい。ある女性は転売する時に有利なように、フロアに何か防御剤を塗布し、またキッチンのシンクの底も傷つけないようにシートで覆っていた。涙ぐましい自衛と言うか、そこまでして今後のことを考える姿が憐れに思えた。売る時のことを考えて物を購入するのは筆者の性分に合わない。筆者はたとえば同じCDを間違って2枚買ってしまうと1枚は売る気になるが、買ったものはほとんど売ったためしはない。話が少し脱線する。『気まぐれ美術館』で有名な洲之内徹は木造の古い文化住宅に住んでいた。ところが所有する絵画は、たとえば1点で家が買えるほど高価であった。最晩年、そうした絵を少し売ればもっといいところにゆったりと暮らせると書いたが、結局売ることはなかった。この態度は筆者には何となくわかる。いい家に住みたいから絵画を扱う仕事をしているのではない。豊かな生活ぶりを示すと信用出来る画商と一般には思われるだろうが、そういう俗物的な生き方は洲之内はしたくなかったのだ。そんな彼は女性に持てたようだが、それは当然だろう。それに若い女性に子ども生ませたようだが、男としてはうらやましい人生だ。そんなことが出来るのは、高価な絵画を持っている金持ちだからという意見があるかもしれない。だが、それは間違いだ。金持ちらしい暮らしは洲之内には無縁であった。たとえがやはり悪かったかもしれない。今の普通の若い女性は自分が頑張っても年収がどれほどかをよく自覚している。それに伴侶に恵まれないかもしれず、そうなれば老いた時に家賃に困らぬように今のうちに自宅を購入しておこうというわけだ。それは堅実な考えであって、全く非難されるべきことではない。だが、それでも何となく惨めに思える。夢が感じられないからだ。確かに他人に迷惑をかけないように家くらいは自分で買うのはまことに立派なことだ。だが、そうした思いに今の若い女性の多くが囚われているのは、自分の人生は孤独が待っていると覚悟しているように見え、若者らしくない気がする。SAVE NO MONEY、INVEST YOURSELF.という格言めいた言葉を昔学校で習った。筆者は今でもそのとおりに生きているつもりだ。家を買うことも自己投資と言われるとそうだが、こつこつ貯めるお金がすっかり家に化けたではさびしい。今の日本の若者がいかに苛酷な状態に置かれているかを証明しているようだ。日本中で家がたくさんあまって来ているのであるから、せめて住宅費は限りなくゼロに近くならないものか。そういう筆者も貧しい親から資産あるいは家を譲ってもらったことはなく、今の若い人と同じように20年のローンを組んで仕事が出来る家を買った。しかも金利は9パーセント近かった。銀行に支払った全額は、家の価格の2倍であった。それから比べると、家は大変安くなった。昔の半額以下の感覚だ。それはさておき、1か月ぶりのおいしい紅茶で、前回と違ってお代わりした。2杯も飲むとカフェインで眠りにくいかもしれない。