昨日書いた若冲忌で出会ったおばあさんは、京都大丸で開催中のこの展覧会にも行くと言っていた。おばあさんがまだ若い頃、初めて観た展覧会がルオー展であったらしい。それは1953年のことで、今から52年前になる。

おばあさんは70代後半に見えたから、20代半ばのことだったろう。当時の日本は戦後まだ間もないから、外国の本格的な画家の展覧会には人々は強い憧れを抱いたはずだ。おばあさんが当時のルオー展で決定的な洋画の洗礼を受けたとしてもよく理解出来る。実は筆者が初めて観た展覧会もルオーだ。大阪天王寺の市立美術館での『ルオー遺作展』で、1966年1月16日の日曜日であった。この日、中学校の同じクラスの3、4人と連れ立って観に行った。大勢の人が来ていて、ほとんどの作品は人の背に隠れて見えなかったことを覚えている。それでも油彩画はカラフルで力強く、版画は黒い線が図太く引かれ、よくわからないながらも印象は強かった。中学生で自ら進んでこうした展覧会に行くことは珍しかったと思う。その時も観に行きたかったのは本当は筆者だけであったが、ひとりで行くのは心細かったので、ちょっとしたデートも兼ねて当時つき合っていた彼女や、それに仲のよい友だちを誘った。彼女とはいえ、手に握ったことはない。彼女は筆者のことを初めて好きだと言ってくれた女性だが、筆者の進学の勉強の妨げになるからという理由で、中2の終わりできっぱりとつき合いをやめると宣言した。当時、この言葉が筆者には信じられず、かなり長い間落ち込んだ。そんなつき合い程度で勉強が疎かになる程度の男ではないと自分を信じていたし、実際、彼女が現われてからの方が勉強はしっかりとやり、成績はぐんぐん伸びた。彼女が出来て勉強が手につかず、成績が下がったなどというのは、全く格好悪いことの代表だと今でも思っている。先日、息子と車で大阪に行った時、時間があれば中学校の校舎を見、ついでに学校から近い彼女の家のあたりを歩いてみようかと思った。風の便りでは、彼女は意に反して親の勧める結婚に踏み切ったそうで、大阪には住んでいない。幸福な家庭を営んでいることを願う。中学2年生の思い出はたくさんあるが、話を戻そう。

ルオーに関心があったわけではなく、何も知らずに展覧会に行った。知らないことは積極的に知りたいと思うのは若者の特権だと思うが、案外そうでもなくて、子どもでも大人でも知ろうとしない人は多い。相変わらず展覧会に片っ端から行く筆者は、14歳の少年がそのまま大人になったような生活をし続けていると言ってよいが、中学時代の友だちが筆者のことを昔と全く同じだと思うのは、そんなところを知ってのことだろう。『ルオー遺作展』の図録が今手元にある。これは中2の時に買ったものではない。当時はそんなものが買える小遣いをもらっていなかった。当時、図録は正方形のものが主流で、大体500円していた。封書が15円の時代で、それから換算すると、500円は2500円ほどか。これは今の図録の価格と同じだが、内容が違う。今は全図版がカラーであるのはあたりまえで、重量もかなりある。『ルオー遺作展』の図録は長い間探した。新聞の読者欄で譲ってもらえる人を探したこともある。古書店でようやく見つけて買ったのは、10年以上も経った20代後半であった。それを見つけた時は嬉しかった。何しろ初めて観た展覧会だ。正確な日づけを覚えているのは、チケットの半券を大事に取っておき、その裏面に鉛筆で観た日を記入していたからだ。図録にはカラー図版は2点しかない。カヴァー表紙の中央にはそのうちの1点が数センチ四方に縮小されて貼り込まれている。黄色い花を生けた花瓶を描いた油絵だ。惚れ惚れするほどいい色だ。カラー図版がたった2点であるから、なおさら感激が深いのかもしれない。『ルオー遺作展』以降、ルオーの作品を観る機会は何度もあったが、関西でまとまった作品の展覧会があったのは、1998年に大阪大丸での開催だけではないだろうか。チラシによるとパリ市立近代美術館所蔵の約100点が持って来られたが、これは観に行かなかった。もう10年以上も前から言われていることだが、日本ではルオーの人気が急速に減少した感がある。それはよいことではないだろう。だが、ルオーの絵の深い精神性が、軽薄な時代には理解されにくいものであることは容易に想像がつく。筆者も正直な話、あまりルオーに関心はない。いくつか理由がある。が、聖書を題材にした作品が代表作になっていることとも関係する。馴染みにくいのだ。だが、今回のルオー展が開催されることを知って、観に行くことはすぐに決めた。それは自分にとっては40年振りのルオー展で、もう一度ルオーを見つめるのはいい機会と思ったからだ。何か今までの印象を打破するものが感得出来るかもしれないという期待だ。
若冲忌で出会ったおばあさんはとても多弁で、ルオーのよさを強調していた。もちろん、師匠のギュスターヴ・モローとの関係もよく知っていて、モローが落選を続けるルオーに、抗議の意味もあって国立美術学校の退学をすすめたことも話していた。モローは教え子の中ではルオーを最も高く評価していたが、退学後のルオーはそれまでのレンブラント風の写実を捨てて、全く独自の作風へと進み始める。モローが死んだ後、その自宅が美術館として開館する時、ルオーが最初の館長になったのも当然と言える。モローの絵とルオーの絵はタッチの点では全く共通しないと言ってよいが、美術学校時代やその後しばらくのルオーは、先のレンブラントやあるいはモローを思わせる絵を描いていた。それがやがて若い頃のステンドグラス職人の徒弟時代の仕事からそのまま影響を受けたような、太い黒の線とその間に埋め込まれる明るい色彩とで構成された絵になって行く。ただし、聖書からモチーフを取るのはモローと共通していると言える。ルオーと言えば、すぐに黒々とした太くて荒々しい線を想起するが、素早い速度で引かれたような流動感があって、素描的と言ってよい。同じく素描的とも言えるディック・ブルーナは蝸牛が移動する速度よりまだ遅い筆致で描くが、ルオーの線はそれは正反対だ。そのため完成度というものが、概してルオーの線からはあまり感じられない。『ルオー遺作展』の図録をかいつまんで読んでみると、ルオーの絵ははっきりとした制作年がわからないものが多い。遺作として残された絵はみな未完成と言ってよいが、数十年前に描かれたものもあって、まだそれらに手を加えようとしていたことがわかる。今回の展覧会では油彩画のみが並べられていたが、中には漆喰で盛り上げたかのような、表面がレリーフ状になったような厚塗りの絵があって、それは完成を目指して何度も絵具が塗り重ねられたことを物語っていた。素早く描くが、完成にはへたをすると数十年もかかるということは、何を意味しているのだろうか。ルオーの油彩画、特に晩年のものは、間近で見るとほとんど抽象画と言ってよい表情をしていて、多少の絵具を削っても、あるいは加えてもたいして絵が変わらないように思える。つまり、一応は完成作として作者の手を離れて人目に触れてはいるが、もしまたルオーがその作品を見ることがあれば、またどこかに手を加えるのではないだろうか。ルオーにとって完成はなかったのだろう。そこがルオーという画家を頑固でやや難解な存在にしており、それが人気減退の理由になっている気もする。会場にはルオーが油彩画を制作中の大きな写真があった。手元の台のうえには変形した絵具のチューブが山積みにされ、絵との凄まじい格闘状況を端的に示していたが、油絵具だけでもそうなのであるから、そこにパステルや水彩など他の画材が加われば、ルオーのアトリエの混沌とした様子は充分に想像がつく。それはまるで工場といった雰囲気であったろう。これはステンドグラス造りの徒弟であった頃からの、ものづくりの場のあるべき姿として認識していたものではなかったかという気がする。ボラールが死んだ後に未完成の作品が大量にヴォラール側の手にわたり、それを奪還するための訴訟を起こしてルオーは勝訴するが、半分ほどの作品を官吏立ち会いのもとにストーヴに投げ入れて燃やした。この様子はフィルムに収められ、1、2度観たことがあるが、普通の人には完成作と見えていても、ルオーには未完成作は歴然としており、世に遺すことをよしとはしなかった。ルオーにとって未完成と完成の境がどこにあるのか、そこがよくわかるまで充分に鑑賞しなければ、ただ絵の表面を上滑りして行くだけのことになるだろう。
この展覧会は、京都大丸にやって来る前、4月から6月にかけて東京都現代美術館で開催された。そのチラシが手元にある。そこには有名な銅版画集の『ミセレーレ』の中から選ばれた作品が印刷されているのに、京都には銅版画は1点もやって来なかった。東京では200点あまりの展示であったのに、京都では百貨店の中の狭い会場ということもあって、その半分しかやって来なかった。だが、初期の珍しい作風のものが少しあって、ここでは書かないが、ルオーが当時のさまざまな絵画の動向と関係があることがわかって興味深かった。東京に比べて展示数が半分とは残念だが、若冲忌に出会ったおばあさんは、ギュスターヴ・モロー展は東京では神戸と違って作品を2分して前期と後期でそっくり展示替えしたと言っていた。これも神戸博物館と東京の百貨店の中の美術館との差だ。それはさておき、『ミセレーレ』は『ルオー遺作展』の解説によると、とんでもないとでも言うべき方法で完成している。長い説明から少し引用する。『『ミセレーレ』は、ルオーの芸術の中心であり、頂点である。1914年の大戦は、人間の悲惨のさまざまなかたちとキリストの慈悲とを対照して示すようないわば造形叙事詩とでも呼ぶべきものを作ろうという考えをルオーの中に目覚めさせた。…ルオーは当時、50点ずつの銅版画を集めた『戦争』、および『ミセレーレ』という2巻の版画集を考えていたという。…『ミセレーレ』は記念碑的作品といってよいが、しかしそれでも、彼が最初に想起してデッサンまで描いたものに比べると、そのほんの一部-約半分-にすぎない。これらのデッサン、少なくともその中のあるものは、ヴォラールの手によってグラビア版として複製された。その後ルオーは、休むことなくその銅版に手を加え…ビュラン彫り、エッチング、アクワティント、ソフトグランド・エッチング、樹脂腐蝕法等々、あらゆる伝統的技法を利用してそれらをすっかり別のものに創り直し、新たに版画家として白と黒の作品を創り上げたのである。…その本質的な部分は、1927年前後に完了された。…しかしながらその後、ルオー自身も別に『ミセレーレ』を作り直したいと思ったことと、またヴォラールの方もその投げやりな性格とそしておそらくさまざまの商売上の思惑とから、版画集の刊行はのびのびになっていた。…1948年の11~12月、パリのクールセル街にあるギャラリ・オデット・デ・ガレではじめて-やっと-パリ人の前に展覧された…』。銅版画でもあらゆる技法を混ぜることでルオーしか表現出来ない画面を作り上げたことがよくわかる。これは油彩画の制作と同じと言ってよい。『ルオー遺作展』にはまたこうも書いてある。『…ルオーは、たった1点の作品を制作するためにさまざまなテクニック、油彩、エッサンス、グワッシュ、パステル、水彩、墨を用いたために使用した技術画材によって作品を分類することも不可能…』。
買わなかったが、今回の展覧会では表紙の色と絵が違う2種の図録が売られていた。中を少し見ると銅版画も掲載されていたので、ひょっとすれば東京での200点の展示の図版が全部掲載されているのかもしれない。さて、ルオーには執拗に追求するモチーフがあった。『ルオー遺作展』でも時代順に作品を並べるのではなく、主題別に分類された。参考、そしてルオーの描く題材の理解のためにそれらを列挙しておく。「サーカス」「娼婦」「裸体」「顔と肖像」「裁判官」『悩み果てぬ場末』「ユビュ」「グロテスク」『気ばらし』「幻想の動物」「死の舞踏」「ロシア・バレー」「花」「風景」「キリスト教芸術」「ミセレーレ」。これらはみんなルオーだとすぐにわかる個性を持っていて、荒々しさがそのまま静謐に、俗がそのまま聖に変化したような不思議な空気に包まれている。フランスのフォーヴィズムやドイツの表現主義との関連は無視出来ないが、それらとは一線を画した独自の幻想的な世界があって、現代の宗教画と呼ぶのはふさわしい。比較的若い時期の透明感のある水彩や、晩年の重厚なマチエールの油彩画など、技法的な面でもルオーは独特の世界を築き上げ、それらに影響を受けた日本も画家も少なくないだろう。日本では白樺派が最初に目をつけたが、本格的にルオーが有名になるのは昭和4年頃かららしい。30歳頃のルオーは病弱で、療養生活を経験したが、それが作風の一新につながり、やがて結婚して子どもを4人もうけ、1958年に86歳で亡くなるから、粘り強い人生であったと言えよう。ところで、上述の主題には今回の展覧会の目玉と言ってよい『受難(パッシオン)』の銅版画は入っていないが、これは『ミセレーレ』以降の1930年代半ばに制作されたシリーズで、『ミセレーレ』と並ぶ代表作と言われている。題名からわかるように、キリストの最後の日々をテーマにしたもので、64点からなる。だが、別の本では76点としていて、どちらかが正しいのはわからない。これは白と黒の銅版画として世に出たが、ルオーのいつもの混合技法的なアイデアによって、紙に刷られた銅版画を、その周囲から数センチ程度大きい別の紙に貼りつけ、元の銅版画の絵のうえに油絵具で描き直したものが1セット作られた。ルオーは銅版画を貼りつけた跡が気に入らず、そこを絵具で塗り潰すことによって額縁のような感じを表現したが、よく見ると稀に貼りつけた縁がほんの少し剥がれているところがわかる。ルオーは銅版画の仕上がりが気に入ったが、その後で白黒画面をそっくりそのままカラフルな画面にすることを思い立ったのであろう。最初から新しい紙やキャンヴァスに描くのではなく、あたかも下絵となるように版画のうえにそのまま絵具で描くのであるから、ちょっと手抜きを思わせるが、なかなか面白い着想だ。紙に油彩で描くことは、ルオーにとっては馴染みの技法であったので、自然とそうした発想が浮かんだと思うが、それ以前に同じような例はなかったはずで、ルオーの非凡さをよく伝える作品だ。この銅版画を下敷きにした油彩画の『受難』は、1972年に分散して売却されようとした。すぐさま日本の著名な文化人たちが立ち上がり、一括購入の道を探って結局画商の吉井長三が購入して出光佐三に売った。仙厓の大コレクションで有名な出光佐三は当時白内障を患っていて、この『受難』を見た時、日本画と思ったという。ルオーの自在な素早い線描は仙厓を連想させるものでもあるので、出光が『受難』の購入を決めたのは納得出来る。この購入をきっかけにルオーの娘が作品を寄贈するなどもし、出光コレクションにおけるルオー作品は質、量ともに世界最大の規模を誇るまでに充実して行った。そうしたせっかくの日本のルオー・コレクションであるのに、大阪の出光美術館はとっくに閉館になったし、なかなかまとまっての展示の機会がない。日本におけるルオー人気が凋落に向かっているとするならば、それを食い止めるのは出光コレクションの積極的な公開だろう。