板に友禅を施した作品を昔見た記憶がある。祇園で開催された加賀友禅作家の由水十久の個展だ。30年ほど前だったと思う。寒い頃で、小雪が舞っていた。画廊ではない場所であった。
先生はおられた。キモノ姿で小柄であった。同行した同じ工房の連中が話しかけてみたらと筆者に声をかけた。筆者ら以外誰も見に来ていなかったので、会場は静かだ。そのため、筆者と仲間のやり取りが先生には届いたようだ。すこしきょとんとした表情で筆者らの行動を眺めているという風で、結局声をかけなかった。また先生の方から話しかけることもなかった。童を題材にすれば右に出る者がおらず、また京友禅も含めて最高度に精緻な糸目で、人間技では限界に到達しているものであった。当時『うなゐ』と題する豪華な作品集が出た頃で、それを記念しての原画展であった。原画とはこの場合、友禅染めした絹地のことだ。先生は加賀から京に出て友禅を学ばれ、また筆者の記憶違いかもしれないが、師匠の工房に「うなゐの友」という有名な玩具の絵本を見かけたことが、その後童を題材に染めることになった。筆者が「うなゐの友」の実物を見たのは数年前のことで、30年前は郷土玩具に関心がなかった。その後『うなゐ』とは関係なしに興味を抱いたが、「うなゐの友」と『うなゐ』はあまり関係があるように思えないので、やはり記憶違いで『うなゐ』と題した別の本が師匠のところにあったかもしれない。それはいいとして、加賀友禅を代表する作家となった先生が京都で学ばれ、また題材について決定的な体験を得たのは、さすが京都と言うべきだ。それでも先生ほどの技量を持った、同傾向の作家は京都にはいなかったし、これからもそうだろう。それもさておいて、これも曖昧な記憶だが、先生の先の個展会場に板に友禅を施した風炉先屏風のような作品があった。木材に友禅を施した作品はきわめて珍しい。そのために覚えている。加賀友禅は糊糸目が基本で、先生の作品もそうであったから、板に糸目を施して彩色すれば、色をどう定着させるかの問題はあるが、板を水で洗えば糊は落ちるから、布地と同じ効果を板でも得られる。加賀友禅は顔料を使うことが多く、それを紅型のように豆汁で固着すれば蒸しを施す必要はない。たぶんそんな方法で板に染めたのであろう。染色はだいたいが布地に染める。紙に染める人もままあるが、板は珍しい。紙ならば芹沢銈介の糊型染のカレンダーのように版画として見てもらえるし、板ならば額絵としてより風格が増すだろう。一番安っぽく見られるのは布地だ、いくら手の込んだ友禅でキモノを作っても、しょせんキモノということで芸術とはみなされない。そのため、キモノが売れなくなったここ10年か20年は、キモノ以外の何かに友禅を施して売ろうとする試みがある。
先日のNHKのTVで、京都の鹿の子絞りの技術を持った親子を紹介していた。仕事が激減し、夜は家を出てアルバイトで稼ぎ、それでどうにか食いつないでいる状態であったのが、シャツに染めて販売するとこれが当たって、今では月収150万で生活が安定しているということだ。キモノに用いていた技術を、同じ衣服ながらもっと安価で大量に売れるものに使った。そのことでひとまず技術の保存は出来るというが、キモノ全体にびっしりと鹿の子絞りするような技術の極地はTシャツには使えない。使えないことはないが、そんなことをすると1枚50万円ほどに価格になる。そう考えると、やはりキモノからほかの商品に鞍替えすると、技術は衰退する。たとえば前述の由水先生の童という画題は、キモノに数人染めて当時1000万円ほどしていたが、同じ下絵をシャツに染めることは、素材の差はひとまず飲んでも、小売り単価の点で不可能であるから、早く仕上げるためにごく簡単な技術と絵に変えなければならない。そうなると、もはや由水先生の持ち味はすっかりなくなる。このように、キモノと不即不離の関係で極限まで発展して来た染色技術であるから、不況になってキモノが売れなくなると、途端に右往左往するしかない。絞りは抽象模様であるから、まだ洋服には似合うし、実際ヒッピー時代には絞りのTシャツがよく売れた。友禅も糸目を極太にして絵を単純なものにするとシャツその他小物に適用出来るが、そうしたものは友禅ではなく、筒描きと呼ばれる別の染物に類するもので、友禅の繊細さはない。また、もともと繊細なものを求めない洋服であれば筒描きで充分で友禅は必要がないが、一般には友禅の名はよく知られているので、手描きではなく、型友禅でシャツを染める場合が多い。今ではパソコンのプリンターで染料も吹きつけることが出来るようで、そうなればますます手描きの友禅は出番がない。出番がなければ収入がないから、キモノに比べるべくもない安易な技術であっても、キモノ以外の商品に適用するしかない。それは本当は無念だが、収入が150万もあればそんな気持ちは一気に吹き飛んで、洋服さまさまとなるだろう。とはいえ、手描き友禅の技術でキモノ以外で成功している作家がいるだろうか。そんな話は聞かない。多少はいると思うが、日本中で有名になることには遠い。一方、これは蛇足だが、TVのコマーシャルではキモノを染める作家が登場し、どうしようもないへたくそで安易な技術を曝している。一般人はそういう作を代表的キモノと思うであろうか、友禅を含めてキモノの染色はあまりにも一般には縁遠いものなっている。そうであってもまだ仕事があって食べて行くことが出来ればよいが、今は技術を誇ることとは縁のない、たとえば安価な暖簾を染めるなどの賃仕事に手を出すしかない。そうそう昨日は消防団の新年会があって出席した。筆者の隣りに座った人が70代半ばで、キモノが飛ぶように売れた頃に財産を築いた。その人が言うには、一昨年の東北の震災で水に濡れるなどして汚れたキモノの染み落としの仕事が京都に殺到し、ある染み抜き屋は3か月で500万稼いだという。これは以前にも書いたが、染み抜きは絵を描くなどのいわゆる創作としての染色とは関係のない仕事だ。ところが、一番稼いでいるのが染み抜き屋だ。こんなアホらしい話はないから、筆者は自分で染みを抜く。日本が高度成長に沸いた頃に京都の呉服に携わった人たちはみな大きな財産を得た。筆者の隣りの座った人も、自宅は300坪の敷地があって、最近株で数千万損をしたなど、筆者とは桁違いの生活ぶりだ。また、そうして儲けた人たちはみな芸術には関心がない。それに、芸術家とは自分より収入が多く、立派な家に住んでいると思っているし、またキモノ作家で有名な人たちは実際そうであった。
さて前置きが長くなった。筆者は染色やキモノの組合に入ったためしがないので、現在どれほど京友禅の売り上げが落ち込んでいるのか知らないし、関心もない。日本は村社会で、組合に入るか、あるいは芸大でも出ない限り、染色作家を名乗っても誰も相手にしない。公募展の審査員はだいたいが組合の偉いさんとか芸大の教授であるから、筆者のような無所属はとても不利だ。それもあってあまり熱心に公募展には出品して来なかったが、組合の偉いさんなり芸大の先生たちは、自分たちの目の届かないところに異才が存在するはずがないと確信している。これは鋼鉄のように頑丈で、自分たちの利益を守るためには当然とも思っている。同じ図は日本中のあらゆる小さな社会や団体に根を張っている。そのことに憤っても仕方がない。悔しければそういう団体に加入するか、また肩書きを得るために専門の学校を出たり、資格を取るに限る。友禅の場合も全く同じだ。しかも今では人間国宝は世襲性になったと言ってよい。そんな閉塞的な状態であるから、筆者は有名な公募展は見ないことしている。10年1日であって、何も変化は見られないからだ。ところが、昨年秋は目を引くチラシを見つけた。今日はそれを最初に掲げるが、京都府庁旧本館一般公開のチラシの表紙に、板に手描き友禅で表現した紅葉の旧本館が表現されている。これは珍しい。どんな作家が染めているのか、またどういう工程かが気になって出かけることにした。『WOOD友禅』と題して杉の板に染めている。結論を言えば、糊糸目で、絹のキモノに用いる酸性染料だ。これは蒸しをしなければ水洗いで色が落ちる。板を蒸しかけるかと思いきや、定着剤を塗布して蒸しの代用としている。そうしておいてから水で糊糸目を洗い流す。板目が透けて見えるので面白い効果を上げている。それはいいとして、このチラシ絵を見ればわかるように、雲取りの中に菊の小紋を糸目で描いたり、また旧本館の壁面に七宝文様を施している。友禅であることは糸目の存在からわかるから、こうした充填模様は不要と筆者は思うが、本来キモノを染めているので、絵を描こうとなってもこうした模様がひょいと出て来る。
一部屋を主に大小さまざまなサイズの杉板作品が占め、中央の州浜にはキモノが1点衣桁に飾られていた。やはり本命はキモノということなのだろう。杉板に友禅を施すのはアイデアとしてはいいが、肝心の絵が画家とはとても呼べないしろものだ。若冲の雌雄鶏を染めた作もあったが、若冲には遠く及ばない。これでは注目されないだろう。友禅屏風といったいわゆる絵画作品は、戦前にもっと立派な作品があった。では今は圧倒的に技術が落ちているのか。それは言えるだろう。それにこの『WOOD友禅』は京都の美山あたりの田舎で工房をかまえ、分業で製作している。受付に中年女性がいてしばし話をしたところ、友禅は糸目だけでも習得するのに何十年もかかるので、分業があたりまえですということであった。筆者は下絵から何から何まですべてひとりでやっていると言うと、信じられないという顔をした後、興味がないという風に変わった。友禅の技術でキモノ以外の何かを作ることは大勢の人が考え続けて来ている。板に染める試みもそのひとつだが、染め上がったものがそれなりに面白い味を出すとしても、額に入れて飾るとものの1年で色が飛んでしまう。日本画や油彩画と同じほどに褪色せず、またそれらにない面白い絵と技術の味わいがあればよいが、そんな面倒なことをするのであれば、さっさと日本画の顔料で描くか、油絵具を使う方が断然早い。友禅でしか表現出来ない味わいは確かにある。ところがそれにこだわってもそれをよく知る人がいないし、今後も育たない。何だかさびしい思いで部屋を後にした。旧本館を出ると、玄関脇に彫刻作品があることに改めて気づいた。この玄関を出たばかりの景色は十数年前にも味わっているが、初めてのような気がした。それで写真を撮った。今日の2枚目がそれで、空を見上げるとまだ青い。そこに西に向かってジェット機が飛んでいた。先に飛んで行った機が作った雲をなぞるような形で、パイロットは前方にその雲がどう見えているのかを想像した。それはともかく、前進するのに便利は先人の跡があるというのはよい。それが伝統というものでもあるし、友禅もそのひとつだ。その伝統がさらに革新されて行くのか、衰退する一途なのか、筆者はどうでもよい。気になることは、また強固な完成度を誇れる仕事だ。