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👽💚🐸🐛🍀📗🤢😱5月11日(土)、京都河原町三条下るLive House『DEWEY』にて👻『ザッパニモヲ 💐母の日LIVE』午後5時開場、6時開演。3500円👽筆者の語りあり。
●今回は初めての別会場での、そしてザッパ/マザーズの結成日である1964年の「母の日」から60年という節目における、ザッパニモヲの演奏です。チラシ画像はここ。恒例の手製のお土産をくじ引きで配布します。

●蛇塚古墳への道
より山の方が大きくてよい。また、小山や中山より大山がよい。そんなことを思いながら年賀状の小塚にもならない束を輪ゴムでまとめる。



クリスマスに高槻から送ったという年賀状が今日届いたから、筆者が書いた年賀状は7日か8日頃に届くのではないだろうか。今日届いた年賀状の中にこちらから送っていない人が2枚あって、その返信を電車の中で書いた。揺れが少ないので普段と変わらない調子で書くことが出来る。若い人は年賀状を出さずに無料のEメールで済ますらしい。年賀状を100枚出すにはほとんど丸2日かかるから、年末のそうでなくても気分的に慌ただしい時にこれは大きな無駄に思える。そう思いながらも年賀状でしか近況を知り得ない人が多くいるので、それなりに効果はある。筆者は必ず手書きの文章をわずかながらも添えるが、年々そういう年賀状は少なくなっている気がする。宛名も文面もみな印刷では2日はかからないが、そうなるとほとんどメールと大差なく、もらってもあまり嬉しくない。そう思うので筆者はたとえ1行でも文を添えるが、同じ文章を使うのであれば確かにそれも印刷した方がよいかと思わないでもない。そんな話題が今日は家内の実家で持ち上がった。アメリカのNWESWEEK紙が電子版オンリーとなったこともその話のついで出た。話相手はパソコンを通じての新しい医療検査の仕組みを研究しているが、彼は紙に印刷した本というものも不要と考えている。書き手と読み手の間に存在する出版業者に儲けさせることはないというのだが、本は内容が命であって、パソコン画面で見ることで充分で、物理的な場所を取ることは無駄というのが本当に理由だ。アメリカの新聞が紙に印刷しなくなると、日本もそれに追従するはずで、20年も経てば新聞紙というものがなくなるかもしれない。新聞はニュースであるから、古くなれば用がない。本にもそういう傾向がありはするが、人間は形のある存在で、生きている間は自分の読書経験をその実物を眺めることで何度も再確認したい性質があるのではないか。本は紙の資源を消費するので、その点でも電子本がよいという意見がある。電子本は人間が電気を使うことになって必然的に生まれて来たアイデアだが、電気を消費する点で普通の本にはない不便さがある。電気があることをあたりまえに思っているのは文明人だが、電気を使うには金がかかる。本は何も出版社が作るばかりではなく、先日書いたようにパソコンで印刷したものを束ねて自分だけの本を作ることも出来るから、すっかり電子本の時代になっても紙の本はなくならないだろう。形のある人間は形の美しさを求める。電子本にもその美は宿るとしても、紙の本の比ではない。年賀状という美を盛るには小さな容器であっても、それは電子メールより人間味があってよい。人間味を欲しない本というものがあれば、それは電子本だけで出せばよいが、書き手は時に紙質や活字、装丁に好みがあり、決して文章の内容のみが自分の創造のすべてとは思わない。たとえばこのブログは電子本のようなものだが、文字の種類や色、大きさ、1行を何字にするかなど、筆者なりに考え抜いた結果だ。そういうこだわりが文章の内容にもどこかに現われると信じている。とはいえ、古いものは少しずつ新しいものに置き換わって行き、古いものの中の利便性は新しいそれに取り代わられる。
●蛇塚古墳への道_d0053294_1814228.jpg

 新年にさしてふさわしい話題でもないが、去年秋にようやく初めて見た太秦の蛇塚古墳を取り上げる。今日はそこに至るまでの道のりで撮った写真を載せる。蛇塚古墳の存在は京都に来た頃から知っていた。住宅に取り囲まれていて、奇妙は景色を作っている。太秦の南部が梅津で、京都に来た頃にそこに住んでいた。その家は今もあり、たまに自転車で前を走る。建て替えられたが、家の向きも昔のままだ。そのすぐ前の筆者が自転車で走る細い道は江戸時代の四条通りであった。現在の四条通りはそれより50メートルほど北を東西に走り、筆者が通うスーパーのムーギョやトモイチがある。梅津地区の道は割合知っているが、太秦はほとんど用がないのでほとんどの道は未知だ。そこをよく自転車で走るようになったのは、右京図書館に通うになったこの半年ほどのことだ。地図を持って走ればすぐに道も目的地もわかるのに、それをせずに2週間に一度、迷いながらあちこち走り、今ではおぼろげにどのあたりがどんな家並みかがわかるようになった。ところが、たとえば以前に写真を載せたが、カリンの木があった畑にもう一度行こうとしても、それが見つからない。これが不思議でならない。そこで書くのを中断して、今ヤフーの地図とGOOGLEのストリート・ヴューを使って調べると、30分かかってその場所がわかった。太秦石垣町にあった。ここはその後走っていない。もう少し南方を西へ向かうことが習慣になっているからだが、未知の場所を2週間に一度走っていると、毎回知らない道を選んで迷子になるより、知った道をまず確保し、その後に脇道に入ってみようと考える。そうして自分のとってのメインとなる道をどうにか作ったが、その次に蛇塚へ行ってみようとしたのではなく、蛇塚に行くために何度も違う道を走っている間に、メインとなる、つまりわかりやすい道を覚えた。読者にはどうでもいいことだが、そうして毎回通る道の半ばに大きな坂がある。その写真を今日は最初に掲げる。坂を下る前に撮ったもので、向こうに見える家の2階がこちら側の地面と同じ高さであることがわかる。この坂を下り切ったところに車道がある。あまり車は通らないが、自転車をブレーキをかけながら下らなければ、飛び出て来た車にぶつかる。坂を下り切ったところに「飛び出しボーヤ」の看板が立っていればよいのにそうなっていない。車道は右手が広隆寺方面、左が四条の梅津段町だ。段町という名称はこの車道を隔てて東側全体が西よりかなり高い台地になっているからかもしれない。そのことを京都に来て30数年ぶりに知った。実際はどうかわからないが、たぶんそうではないだろうか。この坂を知ったのは数か月前のことでその後は図書館の帰りにいつも通る。そして車道を越えて右手すなわち北に少し行って西進すると、前述のカリンの木のある畑に出るが、いつも南に行く。それは少しでも四条通りに接近して、ムーギョやトモイチに立ち寄りたいためであるし、蛇塚に至るには最もわかりやすいからだ。
●蛇塚古墳への道_d0053294_18151467.jpg

 地図で蛇塚の位置を確認すると、道筋はわかりやすかった。ところが現地を走るとたどり着けなかった。2週間後もまたそうで、3回目もそうなりそうであったので、「飛び出しボーヤ」の看板が貼りつけられている金網のすぐ近くに立っていた40歳ほどの女性に訊ねた。わかりやすく説明してくれたはいいうが、地図で記憶した道とは全く違い、初めて走る道であった。わが家の裏手と同じような用水路があって、それに沿った道を来た方向へと逆走した。それならもっと近道があったのだが、教えてくれた人はその説明が難しく、また筆者に遠回りでもわかりやすい道を教えたかったのだろう。それほどに道が入り組んでいる。用水路にはたくさんの鴨がいた。人慣れしていて、手を伸ばしても驚かない。用水路はそのあたりが昔は農地が占めていたことを示す。前述の畑のように太秦にはまだ畑は点在しているが、住宅に取り囲まれて地域の数パーセントの面積しか占めていないだろう。また、農地を次々に宅地にしたのはいいが、碁盤状の街区ではなく、梅津や嵐山と同じく、袋小路が少なくない。それに自動車が入り込めない狭い道が目立つ。自転車で走りながら方向感覚を失い、何度も道に迷うのはそのためだ。それでもどうにか自分なりのわかりやすい道をようやく得た。そうなってみると、初めて太秦に愛着めいたものを覚えた。自転車で走ることは徒歩とは違うが、車で走るよりかは徒歩に近い。メインの道を確保し、ゆっくり周囲を見ながら進むことで、その地域が自分のものになる気がするのは、全体の文章量が視覚や手に感じる重みでわかる紙の本による読書に似ている。こうしたブログも文章の全体量はわかるが、それはこの画面に現われている文章に限る。今までに筆者が投稿した文章の全体量はさっぱりわからず、原稿用紙に換算して何枚に相当するかを知るには、ページごとに自分で字数を計算して集計するしかない。その不安さや面倒さを持つ電子本が紙の本を駆逐するだろうか。新しい媒体は必ず古いそれのどこかを切り捨てる。読書は知識や情報の吸収だけが目的ではない。書き手の持ち味を楽しむ面もあって、それは文章に多くの寄り道がある方がよい。また、結論を早く知りたいと思って文章を読むとは限らない。人生と同じようなもので、結論などなく、絶えず途上にあるその道筋を味わうことが面白い。筆者が右京図書館からたとえば蛇塚に至るまでの道で思うのはそういうことだ。その道は自転車しか通れない箇所がいつくかある。車は早くて便利だが、それでは見逃すこともある。電子本では味わえない醍醐味が紙の本にあり、それを否定することは結論を急ぐあまり、周囲を看過し、また人間の自由さを無視することにつながりはしまいか。人間に残されている自由が電子本に存在しないと言いたいのではないが、電気のなかった時代に登場した本は、電気の力に負う電子本にはない自由さがある。手わざの職業に携わる筆者はFORMに大いに関心があり、手触りがほしい。それは電子媒体に取り込めない。そう言いながら、大きな山のごとき蔵書を見ると、その整理が決して終わらないことにうんざりする。とはいえ、小さな塚にもならないタブレットに筆者の蔵書をすべて取り込んで読みたいとは絶対に思わない。
●蛇塚古墳への道_d0053294_1816591.jpg

by uuuzen | 2013-01-02 23:59 | ●新・嵐山だより
●『写真展 福島の姿―3.11... >> << ●蛇塚古墳

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