双葉町、富岡町、大熊町、浪江町、どれもTVでよく耳にする。原発の被害を受けた福島の町で、その現状を福島三春在住の写真家が撮影した展覧会を天神橋筋商店街でたまたま見た。去年11月17日の土曜日か翌日のことだ。
関西文化の日で、天六のとある施設に行った後、商店街を南下していて見かけた。そこは関西の大学が借りている店舗だと思うが、この商店街は営業不振で店がよく変わる。そうして空いた店舗を大学が権利を得て、このような展覧会を開いたのだと思う。通りに面しているので、たくさんの人が入ってもよさそうだが、入場無料でしかも通りから一歩で内部に入れるにもかかわらず、筆者と家内が見ていた間は誰もほかに入って来なかった。それに展示空間は数坪で、たくさんの人が同時に見ることは出来ない。商売のメッカと呼ぶべきその商店街でこういう展示はきわめて珍しい。それでふと惹かれた。学生がひとり番をしていてしばし話した。筆者は次の予定があるので10分ほどでそこを後にしたが、写真を撮ってもよかったので、4つの町名と若干の写真が写るように4枚だけ撮った。今日はそれらを載せる。正月の投稿として何がふさわしいかを今日バスに乗りながら考え、この写真展が思い出された。今年は震災から丸2年を迎える。ところがまだ数十万人が仮設住宅で暮らしている。また他府県に移住した人も多い。つい先日、福島から京都に転校して来た児童のその後をTVが簡単に紹介していた。子どもであるから、すぐに環境には慣れる。その女の子は友だちも出来て、居心地がよさそうであった。その映像だけを見れば、こっちにやって来て本当によかったと思う。ところが、自分の故郷はないも同然で、それを捨てての京都移住だ。人間は動物であるので、災難に遭えばそれを避けて別の場所に移住するのは当然と言える。だが、親しみと簡単に表現出来ないほどの土地を奪われての移住だ。それも自分たちに何の落ち度もない。しかもある突然だ。戦争なら時間の余裕を持って疎開したが、今回は放射能の恐怖だ。取るものを取りあえず、着の身着のままだ。それも天災であるから仕方がないと諦めろというのかもしれない。原発事故が天災なのか人災なのかと言われれば、地震直後は完全な人災とTVでは誰もが言っていた。人災ならば保障されるべきだ。ところが今なお仮設住宅住まいがなくならない。日本は過去を忘れるのが早いとは昔からよく言われる。地震と原発についても2年経たない間にほとんど人々の話題に上らなくなったようだ。そういう時に大阪一、いや日本一長い商店街の1軒でこの写真展が開催されたことは企画した人の少しでも多くの人に見てもらいたいという意気込みが伝わる。

起こってしまったことで、またどういう被害であるかは、TVや新聞、週刊誌でもう充分にわかっているという人がほとんどだろう。実際この写真展を見て、初めて知ったことはなかった。だが、初めて見たようなショックを受けた。たとえば牛が骨になって転がっている様子だ。放ったらかしにされた牛は野生化して生き延びているのもたくさんいるだろうが、餓死するものもいることは想像出来る。そしてその死体も想像出来る。だが、それはそういう写真を見たからであって、普段はそんな情景を誰も想像しない。しても心は痛まない。ところがこうした写真展で見ると、カメラマンは実際にその現場に行って撮影したのであるから、その人の目になり代わることが出来る。そして腐敗した牛の姿を見ると、家族のように世話した家畜をそのような姿にしてしまわねばならなかった人たちの無念さが多少とでも想像出来る。写真の力と言うべきだろう。これは言葉はかなわない。牛の死骸があちこち転がっていると言われても、そうかなと思うだけだ。ところが、内部がからっぽになって骨の上にわずかに黒い皮が残っている姿を写真で示されると、そのリアルさに言葉を失う。言葉よりもまず実情を示す写真だ。ほかにもさまざまな写真があった。新築してまだ数年ほどの家がわずかに傾いている。そこに住めなくはないだろう。だが、放射能汚染でそれは出来ない。そして雨や風、雪によって、その家は少しずつ傾き、もう数年すれば倒れるかもしれない。牛が死んでやがて蛆が湧き、骨と皮になって行くのであれば、家も同じ運命を辿る。頑丈そうに見える家でも人が住んで家の中に風をたまに通さねば、すぐに内部に黴が発生し、配管も腐食する。ごくわずかなものしか持って出られない人たちの、持って行きようのない怒りを写真は伝える。その怒りを大阪の最も人通りの多い商店街で写真展を通じて示しても、ほとんどの人は注目しない。これでは被災者たちがなおのこと怒りを増しながら、それをぶちまける方法を知らないことになる。

写真をひとまず見終わって筆者が係員の学生相手に言ったことは、こういうめったにない出来事に対して、日本中から手を差し伸べ、半ば強制的に財産の数パーセントを寄付するのはどうかと意見した。そのお金で放射能の心配のない場所に新しい町を作る。除染という言葉は救世主のように素敵に響くが、目に見えない放射能をどこまで除くことが出来るかは疑問だ。筆者はほとんどそれを信じてしない。土の表層部を交換すればもう安全といったようなことが言われているが、あらゆるところに放射能は万遍なく降り注いだ。またそれを除いても、それをどこに保管するかだ。放射能を除くとは別の場所に移動させることであって、消えることはあり得ない。除染は気休めであり、また一部の業者を潤わすだけで、莫大な金がかかる割には効果がほとんどない。それよりも土地を捨てて別の場所に集団移住することだ。その方が手っ取り早いし、また安価で済むだろう。ところがそう意見しながら、筆者は自分を無責任きわまると思った。それは、愛着のある土地をそう簡単に捨て去ることが出来るかという問題を無視しているからだ。チェルノブイリでは老人たちは逃げもせず、放射能に汚染された森のキノコを採って食べた。それはもう残り少ない人生であり、今さら放射能の恐怖もないという腹のくくり方と、もう半分は住み慣れた故郷を後にしてどこにも行きたくないという思いだ。福島の老人たちも同じだろう。「放射能の心配のない土地に新しい家を建てました。ですからそこにみんな移住してください」というのは、現在の仮設住宅と同じ考えだ。そこは不便であり、またそういう新しい場所に移転させられたはいいが、後は自分たちで工夫してどうにかまた生活して行ってくださいでは、無責任としか言えないだろう。一方で、日本全体が原発の被災者たちのことばかりを考えて、自分たちの財産を削ることは賛成しないという意見もあるに違いない。天神橋筋商店街でせっかく開催されたこの写真展がどれほどの人が見て、また認識を新たにしたかは疑問だ。やらないよりやった方がいいのは確かだが、その程度のことに留まるだろう。大阪人として出来ることは、せめてわずかな子やまた家族を受け入れて、大阪でのびのびと暮らしてもらうことであって、放射能で汚染された瓦礫を運び入れ、燃やすことですら反対する。そして、沈み行きつつあるかもしれない日本であるから、福島以外に心配することはもっとたくさんあると思って、原発の被災者のことを思い出さない。これは日本中がそうだ。

先ごろの選挙で自民が圧勝し、また原発は今後各地に建設される様子だ。また巨大地震と津波が原発を襲って、第二の福島のような地域が出来ても、日本は自民党を担ぎ、原発を作り続けるに決まっている。そうして日本中が放射能で住めなくなっても、まだ原発万歳と言っているに違いない。かつて1億総玉砕と叫んだことを本能レベルで忘れておらず、福島程度が日本から消えてもどおってことないと政治家は考えている。東京さえ残ればよく、残りの地方など、どうでもよい。建設予定であった原発をまた見直して建てることが進行すれば、さらに新たな計画が生まれるに決まっている。福島で損した分を取り戻すには、原発しかない。きっと政治家はそう思っているはずで、今後福島の惨状をTVや新聞が伝えることはさらに少なくなるはずだ。TVも新聞を国のいいなりで、真実を伝えない。真実はどうにでも書き変えられる。真実は見方によって異なるものだ。そしてその見方の最も強いものを持っているのは首相だろう。原発は安全で、それに頼ればまた景気がよくなると繰り返し首相が言えば、国民はみなそれを信じる。また信じさせようとマスメディアは動く。かくて原発反対と唱えている山本太郎のような人間はピエロとみなされ、発言に注目する人は激減する。真実は首相であって、山本太郎は馬鹿だと誰かが言えば、いずれ日本中がそう見る。これは1か月ほど前のニュースだったか、日本の言論の自由度は世界で50位程度という結果だ。これは日本の誰でもそう思っているので意外ではないだろう。元旦の特別番組かどうか、数時間前にTVで日本の景気がどうなるかという討論を見た。首相つきの経済学者が出ていた。またそのほかにも自民よりのジャーナリストなどが出ていて、公共事業をどんどんやるのは大賛成だと発言していた。そのひとつの理由として笹子トンネルの事故のように、昭和の建築物が老朽化していて、その補修にお金がかかることを挙げていた。それは誰でも賛成だろう。だが、自民党が言う公共事業はそんなところにはあまり使われず、以前のようにどうでもよい箱物や道路をさらに作り続けるに違いない。筆者は思うのは、その事業費の半分ほどを震災の被災者のために使えないかということだ。だが、そんなことを言い出す政治家はまずいない。それどころか、被災地のために設けた予算もだまし取ってほかのところに使おうとする者が続出した。火事場泥棒同然で、政治が無法化している。そして、相変わらず、仮設住宅に住む人たちは明日への夢を描くことが出来ないでいる。そのうち彼らが高齢化し、順に死んでくれればもはや予算を使わずに済むと本気で政治家は考えているのではないか。放射能汚染された地域と同じく、見捨てるということだ。正月早々、何だか無性に腹立たしい。その理由はわかっている。それを最後に書いておく。毎年夏と年末に京の和菓子などを福島の世話になったTさんに送っていた。去年、Tさんは「放射能もあって送り返す物がないので、お互い中元、歳暮はやめにしましょう」と手紙に書いて来た。その言葉にしたがったが、今年はまた送ることにした。お返しの品を期待してのことではない。せめて年末にわずかな甘味でもという思いだ。すぐに以前と同じくクール宅急便で魚類が送られて来た。それとほとんど同じく、Tさんからはがきが届いた。夏から体調を崩して思わしくないとあった。Tさんは筆者の母と同じほどの年齢で、80半ばだ。気丈な人で、そんな文面は初めてのことだ。それなのに、筆者の歳暮の品に即座にお返ししようと思ったのだ。済まない気持ちと、また体調が気になって電話した。30回ほど鳴って御主人が出たが、耳が多少遠くもあり、あまり要領を得ない。Tさんに代わってもらうことはやめた。Tさんを元気づけたいが、その方法がわからない。それに今年は震災から2年経とうとし、筆者の記憶からTさんが被災したことを以前のようには頻繁に思い出さなくなった。自分もまた忘れやすいのだ。あるいは、いつまでも辛い思いに耐えられない。そう言いながら、震災の文字を見るとたちまちTさんや被災地のことを思う。それでいて何もすることが出来ない。