粟おこしのことを昨日書いた。子どもの頃は岩おこしと呼んでいた。先ほど調べると、岩おこしは粟とは違って米を砕いたものを固める。岩のように固いのでそう呼ぶことは知っていた。

そう言えば固焼き煎餅というのもよく食べた。これが石のように固く、木槌で割って食べさせるほどのものもある。大阪名物ではないだろうか。今も売っているが、買うのは高齢者であろう。筆者の世代以降、甘い食べ物が氾濫し続け、またどれも柔らかい。ケーキなどその最たるもので固焼き煎餅とは正反対だ。とにかくソフトでスイートなものが歓迎されるようになった。これは食べ物だけではない。読み物も映画も音楽も人も何もかもだ。そのうち人間は噛まなくなって顎が鉛筆のように尖る。すでにそうなりつつある。筆者は子どもの頃から硬いものをよく食べたからか、顎がしっかりしていて、歯も丈夫だ。にもかかわらず、最近ブログに書いたが、前歯の1本の裏が20歳頃から黒い筋が内部に入って少しする虫歯となって来て今に至っている。それは歯が弱いからではないと思う。このことはもっと以前に書いたが、その歯の先端は少し斜めに欠けている。小学4年だったか、校庭の片隅で東京から転校して来たT君と石の投げ合いをして遊んでいる時、彼の投げた石が前歯を直撃し、歯の先が欠けた。男の子はそういう危険な遊びするものだ。それに、石を避けるのが遅かった筆者も鈍感過ぎる。歯医者に行ってくっつけてもらうほどではないし、また技術的に無理であったはずで、欠けたまま授業に出た。痛みはなかった。舌の先でその欠けた箇所を今舐めている。大人になるにつれて前歯は大きくなったので、欠けた部分は徐々に目立たなくなった。だが、断面をスパッと切り取った形になっているので、その断面から虫歯菌が毛管現象で上部に浸透しやすい。おそらくそのようにして少しずつ虫歯になった。それはいいとして、岩おこしを近所の葬式でもらえなくなったのはその頃だった。その後自宅から葬式を出すことも減少し、筆者が大人になった頃は結婚式も葬式も専門の会館を高額を出して借りて行なうようになった。それがまた変化し、今では家族葬というのがはやっている。
今日副会長から訃報の電話が入った。地元で長年自治会の役職をしていた人でとても愛想がよかった人だ。88でクリスマスの翌日に亡くなり、葬儀も家族で執り行った。ここ5,6年はほとんど姿を見なかったが、昨年の地蔵盆ではとても疲れた雰囲気ながら、テントの下に数時間座ってぼんやりしていた。88の享年は長い方だ。それでもその人が冗談を言って笑顔を絶やさなかったのは80少しまでで、男は女より肉体的に弱いことを思う。90になってもかくしゃくとしている女性は自治会にちらほらいる。さて、11日にラヴィ・シャンカールが死んだ。92歳であった。その訃報を聞いた直後に今月のこのカテゴリーは彼の音楽をと決めた。これは筆者の世代なら誰しもと思うが、ラヴィの音楽を知ったのはビートルズだ。映画『ヘルプ!』にはシタールの音楽が若干使われていたはずだ。そして65年のアルバム『ラバー・ソウル』では「ノルウェーの森」、66年の『リヴォルヴァー』では「ラヴ・ユー・トゥ」、67年の『サージェント・ペパー』では「ウィズイン・ユー・ウィズアウト・ユー」といったように、ジョージはシタール音楽にのめり込んだ。その勢いは留まらず、ビートルズ解散後の自社レーベル「ダーク・ホース」のロゴ・マークは首がたくさん描かれる黒馬となってヒンズー教への心酔ぶりが見えた。「マイ・スウィート・ロード」の「ロード」がそうだ。これはキリストのことではない。またジョージは『バングラ・デシュのコンサート』ではラヴィに演奏させ、ジョージが亡くなった後の記念コンサートでもラヴィは演奏した。ジョージが死んでなお長年活躍し、また娘も有名にさせるなど、もう充分働いたと言ってよい。アマゾンで調べると、EMIでの録音は10枚組で2000円もしない廉価盤で入手できる。古典になったということだ。筆者が最初に買った彼のアルバムはウッドスットクでのライヴ盤だ。そこに「マンジ・クワマジ」という20分ほどのラーガが収録されている。だいたい彼のアルバムは3曲入りで、1曲はタブラのソロを聴かせる。ウッドスットクのライヴ盤を先日引っ張り出して聴いた。買ったのは1971年か2年ではなかったかと思う。そのジャケットに1枚のコンサートのチラシが挟んであった。大阪でのコンサートで、74年だったと思う。割合前の方の席で、しかも中央であったことを覚えている。ラヴィのいるところまで10数メートルだ。だがどんな曲を演奏したのか記憶にない。それほどにラヴィの曲はどれも似ている。その後筆者は機会あるごとにアルバムを買い、LPは4,5枚あると思う。CDは盤の数にして20枚近くある。アップル・レーベルから70年頃に出たシングル盤も持っている。1年に1回も聴かないが、聴くとなるとまとめて聴く。そんな機会が先日の彼の訃報を聞いてから訪れた。
ラヴィが演奏するラーガはインドの悠久の時の流れを思わせる。最初に聴いた時からその感覚は変わらない。インドと言えばカレーだが、シタールの音楽はカレーのようだ。どのメーカーの製品、また誰が作ってもカレーはカレーだ。それと同様、ラーガはどれも似ている。そう言えばラヴィに叱られるだろう。厳格な様式があって、数百年も昔のものが今でもそのまま演奏される。即興部分は当然あるが、基本の音階は厳格に守られる。そこがアメリカのジャズ・メンに受けた。彼がアメリカで紹介されたのは50年代後半で、リチャード・ボックが広めた。ジャズの新しい時代を切り開く可能性があると思ったのだろう。また、当時は民族音楽がブームになり始めた頃かもしれない。ラヴィの音楽がアメリカで発売されるようになってからかどうか、瞑想ブームのようなこともアメリカに生じ、そこからヒッピーも出て来た。ラヴィがアメリカ西海岸に与えた影響はとてつもなく大きいように思う。ヒッピー文化が日本に波及し、一方でビートルズがインド音楽に関心を寄せたこともあって、日本でもラヴィは有名になった。先に筆者はビートルズによってラヴィを知ったと書いたが、それ以前にシタールの音色はラジオから聴いていたと記憶する。それほどにひとたび耳にすると誰しも忘れられない。カレーを一口食べるとそうなるのと同じだ。これは70年代後半あたりからだったと思うが、ラヴィのシタールよりもっとすごい演奏がインドにあるということを主張し始めた人があった。そうしたLPも筆者は何枚か買って聴いた。正直なところ、ラヴィの演奏とどこがどう違うのかあまりわからなかった。ラヴィがあまりにアメリカで有名になり、そのことをポップな世界に魂を売ったとみなす人がいたのだろう。そこには半分はやっかみがある。インド音楽のすごいものはもっと素朴で無名のまま埋もれているという見方だ。本当にそうかどうかは知らない。それほどにラヴィのひとり勝ちで、彼以外でシタールのアルバムを数多く出した人を知らない。ネットでディスコグラフィを調べると、半世紀以上も録音し続けたのであるから、大変な数が紹介されている。ところが再発売ものもあったりして、筆者が所有する盤がそこに記載されていなかったりする。またディスコグラフィーはその音楽家の成長を記録するものともなっているが、ラヴィは最初から最後までシタールを奏で、また伴奏もインド楽器であるので、変化というものが見えない。簡単に言えばどのアルバムをいつ出してもよかった。
その一方、西洋音楽との共演とたびたび行なっている。有名なのはまずユーディ・メニューインのヴァイオリンとの共演だ。この模様をNHKが昔放送したことがある。あまりに昔なのでいつのことか忘れたが、アルバムは2枚出て、66年だ。もう少し前からメニューインはラヴィの音楽に興味を抱いていたと思うが、一緒に録音するのに練習を重ね、66年になったのだろう。66年は前述のようにビートルズは『リヴォルヴァー』を発売しているから、メニューインとラヴィ共演はあまり驚くに当たらない。むしろポップ・ミュージシャンの方がラヴィに注目するのが早かったと言える。メニューインはインド音楽の旋律に不慣れで、録音は大いに苦労したようだ。音階が西洋音楽のそれとは違い過ぎたからかもしれない。この共演盤のメニューインのソロを聴くと、どこかアラン・ホヴァネスの音楽を思わせる。それは当然で、ホヴァネスはラヴィの音楽を構造面からアメリカに紹介した人物だ。それはともかく、メニューインは白い襟なしのシャツもインド風で、全面的にラヴィに近寄っているのが面白い。メニューインは楽譜に書き起こしてメロディを練習したが、ラヴィには五線紙はない。どれほど多くのラーガがどういう形で記録されているのか知らないが、ラヴィのアルバムには同じラーガはたぶん含まれておらず、彼はアルバムごとにおそらく無数にあるラーガをひとつずつ紹介して行くことを50年代から覚悟したのではないだろうか。先にどのラーガも同じように聞こえると書いたが、それ楽器の音色が同じであるからで、緩急の違いやまた長短の違いといったものは聴き取れる。またラーガにはペン他トニックもあればもっと音の多い音階もあって、聴き込むとそのカラフルさがわかるのだろう。カレーの味にもいろんな微妙な差があるのと同じだ。筆者がラーガを最初に聴いて思ったのは、演奏する時間が決まっていることの不思議だ。朝や午後、夕方といったように、ラーガは特別の時刻に演奏されるための形式がある。ほとんどのラーガは最初はきわめてゆっくりで、最後は猛烈な速さで演奏されるが、最後まで同じ速度のものもある。演奏する時刻が決められているラーガというのは、儀式めいてよい。さあ、今からじっくり聴くぞという気分になれる。またそういうラーガはいかにも生活に密着している感じがして、西洋的な意味での娯楽とは一線を画するのではないか。筆者はシタールがゆっくり奏でられる時の糸を引くようなまったりした音が何とも艶めかしく感じるが、ラーガは性行為とも関連しているのではないだろうか。最初の緩部分はいわば前戯で、後半に熱を帯びて早く演奏されるのは男女とも無我の境地にあるエクスタシーだ。この考えはおそらく間違ってはいるまい。

ラヴィのラーガの演奏を聴いていると、どうしてもザッパのギター・ソロを思い出す。筆者はザッパの音楽を聴くより前にラヴィの音楽に触れた。ちょうどその頃、マハヴィシュヌ・オーケストラが大人気であったが、そのリーダーのジョン。マクラフリンの姿はメニューインとだぶった。マクラフリンはマイルスの方向から脱するにはラヴィの音楽にヒントがあると思ったのではないだろうか。ともかく、イギリスはインドを植民地にしていたこともあって、ラヴィの音楽に魅せられるビートルズやまたマクラフリンを生んだのは必然であった。ラヴィはジャンルの違う西洋の音楽家から尊敬され、共演を求められることをどう思っていたであろう。ウッドスットクなど有名な音楽フェスティヴァルに出演を乞われるかと思えば、71年にはアンドレ・プレヴィンの指揮によるロンドン交響楽団と共演しているが、こうした動きはザッパも含めてその時代のロックやジャズ・ミュージシャンと共通し、またメニューインとの共演アルバムの題名であった『WEST MEETS EAST』であって、完全な融合というわけではないのであって、正直な感想を言えば筆者はそうした共演作はあまり面白くない。ラヴィが無理しているというのではないが、全体に音楽が単調に聞こえる。これは西洋の五線紙に書かれた音楽の方がインド音楽より薄っぺらいということではなく、異質なものが出会って歩みよればどっちつかずのつまらないものになるということだ。たとえば『WEST MEETS EAST』にラーガに基づいた「SWARA-KAKALI」という曲がある。この後半はメニューインのヴァイオリンとラヴィのシタールがユニゾンで素早い演奏を繰り広げる。見事というほかない演奏だが、楽譜に書いた旋律を練習した成果であって、そのことはラーガ本来の持ち味ではない。ただし、そういう曲芸的ユニゾンはザッパが大いに好み、やがて数々のアルバムで真似る。ザッパがラヴィの音楽から受けた影響はそれに留まらない。シタールをギターに置き換えてのラーガをザッパは演奏したと言ってよく、時にフレーズまで多大な感化を受けている。それはザッパのギター・ソロが単一の旋律を奏でるシタール音楽と共通するからでもあるが、それを別の面から言えば、ラーガが用いる音階による即興演奏が、ジャズのモード奏法と同じようなものであるからだ。だが、ラーガの音階がギリシア旋法や教会旋法と全く同じものがおそらくないことからして、細部にわたってきわめてよく似た演奏ということは出来ない。そこにはまた楽器の音色の差がある。ラヴィはシタールの音色をエレキ・ギターのように変えなかった。電気シタールを作るとそういうことも可能であったはずだが、その意味を認めなかったのだろう。あくまでも何百年もそのまま伝わっているラーガを演奏し、そのことによってインドの歴史の長さ、文化の深さを西洋に伝えるという思いだ。それにポップやジャズのフェスティヴァルに招待されて演奏しようが、管弦楽団と共演しようが、そういう特別の何かによりかかる思いもほとんどなかった。この頑固とも言える態度によってラヴィは貫禄を保ち続けた。それは身上げた態度だ。西洋がどんな新しい道具を開発しようが、ラーガはとっくの昔に完成されていて、改変の余地がないという考えで、むしろ西洋がシタールの音色に魅せられてそれをポップの世界は取り入れた。
ラヴィの曲で何かひとつ取り上げることは難しい。それで取りあえず「RAGA BHIMPALASI」にするが、これは午後のラーガで、全体に低音でゆったりと演奏される。午睡にちょうどいいような具合だ。30分近い演奏で、67年のモンタレーのポップ・フェスティヴァルで収録された。これとは別に同年に同じ場所で収録されたアルバムもある。どちらも3曲入りで中間にタブラ・ソロの曲があるが、これは同じ曲だ。不思議なことに後者はWIKIPEDIAのディスコグラフィーには掲載されていないが海賊盤ではなく、筆者は所有する。おそらく同じフェスティヴァルで二度以上出演し、違う曲を演奏したはずだ。なおジャケットは後者の方がよい。「ラーガ・ビヒムパラシ」は午後3時から5時の間に演奏されるラーガで、14,5世紀のものだ。ラヴィは北インドの生まれだが、インドは南北でそうとう文化に差があって、それは音楽にも及んでいる。南の方が構造に厳格とされるが、そこにラヴィの音楽が西洋のポップに接近出来る、つまりインドらしくないという批判の理由もあったのかもしれない。ラヴィのラーガ演奏が伝統的なものをどれほど即興で雰囲気を変えているのか同じなのかは比較のしようもないのでわからない。だが、「ラーガ・ビヒムパラシ」を何度か聴くと、基本となっているメロディはすぐにわかるし、それが30分もの間繰り返し出て来ることに気づく。その基本的メロディが当のラーガの特質だ。したがって、それさえ守れば後は即興演奏者の自由な解釈で展開していいものかと言えば、そう簡単な問題ではないだろう。ジャズならばそこはかなり自由で、決めた音階の中を自由にソロは動き回る。ラーガではたぶんメロディの緩急やまた上昇と下降の際に一定の決まりがあって、即興の自由さに枠があるのではないか。それはともかく、「ラーガ・ビヒムパラシ」を聴いていると、最初のゆっくりとしたメロディが低音で、それがトワンギー・ギターのような音色で面白い。そしてこの低音は最後まで守られる。ただし、演奏速度は徐々に早まり、また終始タブラを伴わないので、ギター・ソロあるいは津軽三味線を聴いている気分になる。40代半ばの演奏で、年齢的には最も気力が充実していたのではないだろうか。21世紀になってからのラヴィはめっきり痩せて別人に見える。何十年も演奏して来たのであるから、技術の衰えはなかったであろうが、活動は停滞気味であったと思う。それにしても92の享年はあっぱれだ。音楽のお蔭といったところだろう。枕につなげるならば、ラヴィの音楽はソフトでスイートな菓子とは言い難く、岩おこしのように歯ごたえがあって、噛むほどに味わいがある。