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●『四季を売る男』
められることはどれほど大切だろうか。ブログはランキングによってどれほどの人が見ているかがひとまずわかるから、その数によって書き継ぐ意欲を保つ人がある。筆者がまず思い浮かべるのは小学校や中学校の義務教育だ。



●『四季を売る男』_d0053294_1324198.jpgいい成績を取ると親から好きなものを買ってもらえる同級生がいた。親は子が優秀であることを望み、子はそんな親の顔色をうかがって好きでもないことに懸命になる。小学校高学年の時代に、同級生にいやな性質の男子がいた。めったに話さなかったが、筆者の成績が目立って来た時に接近して来た。きっと成績の悪い同級生は無視しろと親から言われていたのだ。その男子は京大を目指すというので学習塾に通い、同級生の中ではかなり浮いていた。これは前にも書いたが、おそらくその男子は夢をかなえたと思うが、会社では鼻つまみの存在になっているだろう。ついでに書けば、その時期の担任に大人になってから会いに行った。当然同級生のその後のことが話題になって、そのいやな男のことを筆者が話題にすると、先生は吐き捨てるように、「ああ、あの電電公社の社宅に住んでいた……」と言った。先生によると親が教育熱心であるのはいいが、とんでもない鼻持ちならない人物であったらしい。やはりと思った。人間を学校の成績だけで測るような人物は多い。同級生は本当に勉強が好きであったのか。たぶんそうではなかった。ところが母親が頑として将来の設計図を描いている。それにしたがって動けば薔薇色の幸福が待っていると息子を洗脳した。勉強は悪いことではない。児童、生徒、学生、みんな学ぶために学校へ行く。だが、教育ママの考えの中には、学ぶ先のことがある。就職だ。そこでいい給料をもらって親より大きな家に住み、みんなから羨ましがられる。あるいは世間から認められるでもいい。それが人生の成功で、誰からも認められないのに勉強ばかりしてもらうのは困る。それもまた正しい考えだろう。それにしてもその同級生が嫌われていたのはなぜか。大人社会ではあたりまえのことを10歳くらいにすでに悟り切っていた態度であったからか。そうではなくて、とにかく毎日テストの点数しか頭にないような顔つきであったからだ。人生はテストだけか。筆者はこうも想像してみる。その男が立派な会社に入ったはいいが、今までの身の処し方に疑問を抱き、ある日母親に反抗し、会社を辞めて髭を生やし、スーツを脱いで気ままな暮らしを始める。遅まきながら、母が望んだ人生とは全く違う生き方があるとわかる。そうなっていれば面白いが、たぶんそれはない。
 認められることは励みになる。これは誰でもそうだ。母親の言うことにしたがっている子ども時代はいい。誰でも真面目に勉強すればいい成績は取れる。そして母は認めてくれるから、勉強に対する「やる気」はさらに高まる。問題は成人して世間に出て、そこで他人から認められるかどうかだ。学校の成績がよかった、いい大学を出ただけでどうにもならないことが多々ある。そこで挫折を知る。そこから立ち直って一人前だ。たいていの人は挫折を経験する。中にはそこから立ち上がれない人がある。これは何をやってもうまく行かないということとは違う。何もやらずに引きこもってしまうことが今の日本では目立つ。七転八倒の思いで行動すればいいが、そこまでに至らない間に諦める。そんな人は今日取り上げるファスビンダーの映画をどう見るだろう。2か月前に見ながら感想を書かなかった。先ほど年内に書いておくべきと決めた。それはいいが、1回しか見ていないので細部は忘れてしまった。2か月も放ったらかしにしたのは面白くなかったからではない。映画を見た直後、そして数日は、妙に悲しく、ふとした拍子に涙がはらはらとこぼれそうになった。それは感じたからで、その感じたことをすぐに文字にする気になれなかった。そのDVDの解説書と思うが、撮影中ファスビンダーの姿を捉えた小さな写真があった。俳優の横で笑顔でウィスキーをらっぱ飲みしている。それを見てびっくりした。撮影中に飲んだくれているという姿だ。その写真を家内に見せながら、ファスビンダーの本質を感じていたと言えばおおげさかもしれないが、その姿は意外ではなく、たぶん毎日そんな日々であったのだろうと納得させた。映画作りは俳優を使い、また大金も用いての大仕事だ。それを酒を飲みながらとは、えらく不真面目なと思う人は多いだろう。だが、肝心なことは作品が感動を与えるかどうかだ。監督がどんな私生活をしていようが、それは関係ない。ただし、その私生活は作品に表われる。ファスビンダーはそのことを知りながら、ウィスキーを撮影中に飲んだ。それは遊びながら仕事をするというのとは少し違う気がする。遊びと言えば、映画作りそのものが大きな遊びだ。暇潰しと言い代えてもよい。人生はしょせん暇潰しだ。ファスビンダーはそれを早々と知ってしまったであろう。暇潰しであるから適当にやるというのではない。その逆で、どうせ暇潰しであるから、全力投球する。それは私生活も映画を撮るという公的なことも差がない態度だ。酒を飲むのは、それが好きであるからだが、一方で何か忘れたいことがあるからとも言える。ファスビンダーのらっぱ飲み写真は、いつ死んでもよい覚悟を持っていたことを思わせる。それはつらいことがあったからでもあるし、それを映画作りが忘れさせてくれるという喜びもあったからだ。結局30半ばで死んでしまうが、そのことはらっぱ飲みの写真に強く暗示されている。その無茶な態度、生活が身を滅ぼした。だが、それと引き換えに数々の映画を残した。すでに60を超えた筆者はファスビンダーの真似事はとうてい出来ない。それゆえに彼の作品は圧倒的な力で迫って来る。今年はファスビンダーの映画に目覚めて出来る限り見ようと決めた。出来ることなら製作順に見た方がいい。そのためには入手出来るDVDを全部揃えるのがよい。すでに5本見ていたが、先月3本ずつ入っている箱もの全5巻を買った。こんな高価なDVDセットを買うのは初めてのことだ。それほどに筆者には特別の存在だ。感想を書いていないのが本作と、そして初期にもう1作ある。それらの感想をブログに書いた後に、セットものを順に見ようと思っている。そして感想をブログに書く。
 『四季を売る男』はファスビンダーの叔父がモデルになっている。何をしてもうまく行かない人物であったらしい。叔父であるから、映画の時代設定は戦後間もない頃だ。主人公はハンスという小柄な男で、マザコンだ。母親は厳格な人物で教育熱心であった。ハンスはその母の言いなりになっていた。その反抗からハンスは軍隊に入った。ところが馴染まずに脱走し、親元に帰って来て警察官になる。禁止区域で売春していた娘を署に連行して調書を取り始めたのはいいが、娘はハンスに迫り、フェラツィオをしてもらっているところを同僚に見られ、退官させられる。それから飲んだくれる生活で、母には機械工になりたいと言うが、母は手を汚す仕事を認めず、ハンスはそんな母が嫌いだと言葉を返す。そうしてハンスは野菜売りになった。妻と一緒に車で仕入れて来た季節の野菜や果物をリヤカーに乗せて売り歩くことで食いつないでいるが、ハンスは仕事に身を入れない。隙を見つけては妻に任せて居酒屋で一杯引っかける。母はそんな個人事業主のハンスを社長でもあると思うことにして、どうにか文句を言わずに我慢する。ハンスのただひとりの理解者はハンナ・シグラ演じる妹だ。彼女は母のハンスに対する今までの態度を冷静に責める。だが母は聞く耳を持たない。母やハンスの家の内部が印象的で、そこに飾られている十字架やキリストの絵は、当時の小市民性の象徴だろう。またそういう人たちが当時聴いた音楽もわかる場面もある。そんな部屋でハンスは妻に暴力を振るい、修羅場が演じられる。妻から最低のブタ野郎と罵られ、家出される。妻はハンスの妹夫婦や母のもとに行き、しばらく身を隠してほしいと懇願する。そこにハンスが怒鳴り込むが、酒を飲んでいたのか、暴力を振るう前に倒れ、救急車で病院に運ばれる。妻はさびしさから街で男を見つけ、自宅でセックスし、その最中に娘に覗かれて泣き崩れる。浮気した妻は入院したハンスや娘に対して罪悪感がある。そこでまた夫婦でやり直そうとする。それには現状打破で、商売を拡張せねばならない。妻は新たにもう一台リヤカーを中古で買い、商売に積極的になる。ハンスも人を雇わねば売り上げ増にならないと判断し、面接して適当な人材を見つけることにする。最初に目にかなったのは、何と妻が浮気した男だ。ハンスは彼に仕事を教え込む。順調に売り上げが伸びるが、ハンスは男にひとりで任している時でも、建物の陰に隠れて売り上げを記し、商品の在庫と売り上げが合っているかを調べる。ハンスは妻と結託して、妻はその男に高く商品を売らせる。つまり、ハンスの目をごまかして甘い汁を吸えとそそのかす。男はその言葉にしたがうが、そこでハンスは男が信用出来ないことを知る。せっかくよく働く男を雇ったのに、それをやめさせるように妻が仕向けたのは、浮気がばれることを恐れたというよりも、商売熱心になって来たハンスと仲よく暮らしたいからだろう。
 軍隊から警官、そして自分で商売を始める姿はそれほど見下げたことだろうか。日本でもそのような人はたくさんいると思う。母の世話にならず、妻と幼い子との生活を自立させているのであるからたいしたものではないか。だが、母が息子に望んだ姿はもっと違ったのだろう。そんな視線をハンスは感じていたのかもしれない。彼は懸命に働き、ある家では女性に無料で野菜を与える。それを妻は咎める。理由は彼女がハンスの最愛の人であるからだ。ハンスの妻は夫がひとりで住むそんな女性に優しく接することが我慢ならない。それでもハンスは言うことを聞かない。その女性にハンスが赤い薔薇の花を持って愛を告白しに行く場面がある。妻が浮気した男が怒ってやめて行った後だ。男は妻に殴りかかり、かつて浮気したことをほのめかす言葉を発する。それを聞いたハンスは妻が信じられなくなったのだろう。そして、ついに憧れの女性のもとに行ったのはいいが、女はリヤカーで野菜を売るような男を父には紹介出来ないと突き放し、もう会いに来ないように言う。この女性とはそれっ切りかと思っていると、その後またハンスは部屋を訪れる。その時には女性もその気になって素っ裸になってベッドに横たわり、ハンスに抱かせようと誘う。ところがハンスにその気が起こらない。何もしないで部屋を後にする。ここでのハンスはもはや憧れの対象も無残に崩れ去ったという絶望があったためか。これはあまり言葉にしない方がよい。この映画全体に言えるが、言葉で断定してしまうと味わいがすっかりどこかへ飛んでしまって、まるで反対のことを思っている気になる。憧れの的であった女性からベッドに誘われながらその気になれなかったハンスをどう解釈するかは、この映画にとってささやかな問題である一方で、ハンスの心を知るための最大の事柄とも思える。女性にその気が起こらないことは、雄としては精力減退で、もっと簡単に言えば生きる活力を失っているからだが、そう読み解いて間違ってはいないところがこの映画にはある。というのは、その後ハンスは自殺行動に出るからだ。それは母や妹、妻や娘など全員が集まった席でウィスキーを一杯ずつあおり続けることだ。小さなコップが20ほど食卓に並び、ついにハンスはテーブルに突っ伏す。それを見ながら誰も止めないのは、ハンスが死ぬ覚悟であることを知っているからだ。ではハンスは生きることに絶望したのか。そうとも言えるし、そうでもないとも言える。これも断定してしまえない複雑な思いが人間には常にあるからだ。ハンスは自分の立場に絶望したのではなく、その反対にもう死んでも思い残すことはないという一種の幸福を味わっていたからでもある。
 ハンスはファスビンダーの叔父像だが、叔父の人生を映画化したかったのは、叔父に同情していたからだろう。ハンスは厳格な母の犠牲であったかもしれない。ファスビンダーの母がどうであったか気になるが、酒飲みのハンスはファスビンダーの姿でもありそうだ。そうなると、ハンスの性の問題がある。妻と娘を抱え、また別に憧れの女性があるのでハンスはごくまともな普通の男だ。ところが物語の最後の方でレストランで食事している時にウェイターと顔を合わせ、それがかつての軍隊での友人ハリーであることがわかり、ふたりは大喜びで抱擁し合う。ここからが佳境で、ファスビンダー色が強くなる。軍隊での仲間がその後も特別の重要な存在になることは理解出来る。たぶんこの映画も単にそう読み解くべきなのだろうが、男色家でもあったファスビンダーであるから、ハンスとハリーは普通の親友以上の存在であったと見たくなる。それは必ずしも性行為を伴うものでなくてもよい。女に対する愛情とは別の、そしてもっと大きな愛を同性に認める態度だ。ハンスは最愛の女性から裸で迫られながら、それを拒んだ。そこには女嫌いとは言わないが、女であれば誰でもよいという思いは全くない。ハンスが求めているのは心の通いだ。以前薔薇の花束を持って出かけた時にはつれなく断った女が今度は積極的に性交を求める。そんな女の態度は男同士の友情以上のものを感じさせなかったのだろう。あるいは心が通い合うのであれば女でも男でも同じという思いだ。ともかく、ハンスはハリーと出会って、彼をすぐに雇い入れる。すぐにハリーはハンスの妻や子とも仲よくなる。そんな様子を見てハンスは自分が死んで、ハリーに妻も子も商売も与えようと考える。その理由は何か。それが映画の最後でややおまけ的に説明されている。その場面があった方がいいのかどうか筆者にはわからない。製作費のつごうでかなり安く仕上げられた場面で、成功しているとは言い難い。
 それは1947年のモロッコでの出来事だ。軍隊に入っていたハンスは敵に捕まる。木に縛りつけられて鞭打たれ、ハンスは仲間の居場所を白状する。その瞬間仲間の発砲によって助けられるが、ハンスは仲間を売ったことを恥じながら戦後を迎え、悶々としていたという設定なのだろう。ハンスはある日ハリーに「お前はブタ野郎だ」と言う。ハリーはにやりとして「お前もだ」と返すと、ハンスは妻もそうで、みんながそうだと言う。ここには持って行きようのないハンスの人世に対する恨みがこもっている。自殺は幻滅が通常頂点に達したからだろう。その幻滅をハンスは母から幼い頃から徹底して植えつけられたのかもしれない。結局母に反抗して思う人生を過ごしたハンスだが、妻や子を満足させられず、自分がいなくなれば周囲はうまく行くと思うほどに生きる意味を見失っていた。だがそうとも言えないかもしれない。ハリーが妻や子と仲よくやっている様子を見て嫉妬を覚えず、むしろそれは美しい光景に見えたかもしれない。それをハンスの欲のなさと見ることは出来る。母が望んだように一角の人物にはなれなかったし、世間ではどちらかと言えば蔑まれる職業だ。だが、そんな立場に幻滅したのではないに違いない。死にたくなったのは、先が見えたからではないか。それはファスビンダーにも言える気がする。この映画で最も印象的な場面は、おそらく死ぬと決めてからのハンスの行動だ。ハンスは昼間、近くの運河などをひとりで散歩する。その時にピアニカの音楽が背景に静かに流れる。それはファスビンダーの作曲でほかの映画にも使われているという。このハンスひとりが散歩する場面はなくてもよいものだ。だがあることによってハンスがこの世をどう見ているかがわかる。運河にはゴミも浮かんでいるが、全体にとても美しい。平凡な日常の美しさだ。だが、平凡であるからそれは明日も明後日もその後もずっと同じはずだ。ハンスが歩くこの緑の多い、変哲のない景色に筆者は涙ぐんだ。ハンスは生きていても仕方がないと悟った。幸福を味わいながら、また幻滅を味わいながら、もうよいと判断したのだ。ハンスは酒好きであったから、飲み過ぎて死ぬことがあるとはあまり信じられないが、その死に方はどうでもいいのだろう。ハンスが死んだ後、ハンスの思いどおりに妻と子はハリーと仲のよい家庭を持つ。それでこそハンスは死んだ甲斐があった。最後に書いておくと、ファスビンダーはこの映画を撮る前に、たまたまか、アメリカに亡命した監督ダグラス・サークの作品をまとめて見た。それらを世界で最も美しいものと評し、監督が隠遁していたスイスにまで会いに行き、そうして最初に作ったのが本作だ。公開当時戦後ドイツの最高傑作と評価された。子どもが生まれた後の男というものは、ほとんど役割を果たしたのであって、後は野たれ死にがふさわしいと筆者は思う。これはそのとおりの内容の映画だ。
by uuuzen | 2012-12-27 23:59 | ●その他の映画など
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