菩薩という言葉をすでに知っていたが、きっと漫画で覚えたと思う。また、「大菩薩峠」という字面に妙に恐ろしいものを思っていたが、この年齢になってもその名前の場所がどこにあるのか正確に知らない。
ネットで調べると即座にその画像がたくさん表示され、それが筆者の長年のイメージと違い、また昔のままのようであるのが相変わらず恐ろしさのようなものを感じさせる。筆者が母と一緒に近所の映画館でこの映画の完結編を見たのは8歳だ。小学3年生で、映画の内容はさっぱりわからなかったが、とても恐い場面があって、そのたびに目を覆ったものだ。子どもの頃に筆者は恐がりが過ぎて、恐怖映画をまともに見ることが出来ず、親類のお姉さんたちはそういう筆者をからかうためによく恐怖漫画のページを開いて無理やり見せた。この『大菩薩峠』を一度だけ見たのに、ある場面が頭にこびりついてしまった。先日53年ぶりにその場面を確認して記憶が少し違っていたことを知ったが、それでもほぼ正確であることに驚いた。半世紀経ってもたった一度の経験が生涯強く記憶される。それが大人向きの意味不明の映画であってもだ。半世紀の間ずっと覚えていたのは、主役の机竜之介を演じる片岡知恵蔵が両脇に木製の灯篭が並ぶ石段をこちらに向かって少しずつ歩みながら、灯篭が次々に真っ二つに割れて中から生首が現われる場面だ。その生首が恐かった。作り物であることはわかっているが、さびしい場所で盲目の侍が狂ったように刀を振り回し、そのたびに今まで殺した人たちの首が出現する。悪夢に囚われている場面で、刀を持った侍がたくさんいた江戸時代は恐いと子ども心に思った。小学5,6年生から中学生になると同じクラスの友人らと映画館に行き、時代劇を盛んに見たが、『大菩薩峠』ほどに難解なものはなかった。この映画がわかりにくかったのは、3部作で、しかも筆者が見たのは第3作目らしき1本であったからだ。連続ものであるので、見るならば第1作目からだ。灯篭から生首が現われる場面が大人になって見ればどれほど恐いかを確認するため、知恵蔵出演のビデオを2,3年前にネット・オークションで買った。すぐに見なかった。ビデオを買ったのは、7,8年前にKBS京都で市川雷蔵の『大菩薩峠』全3作の放送を通して見たからだ。そこには灯篭生首の出番はなかった。1960年の製作で、筆者9歳だ。それでもけっこう古いが、生首の恐い場面は知恵蔵の出演版であることを明確に記憶していた。
先日ジャン・ギャバンの『レ・ミゼラブル』の感想を書いた。最近家内がその映画がリメイクされたそうだと話したが、そのことは全く知らなかった。先日梅田に出ると、阪急電車の長いエスカレーターの壁にその映画の大きなポスターが貼ってあったし、今朝はその映画の予告編をTVで見た。CGを使ってダイナミックな映像に仕上がっているようだが、その分子ども騙し的な作品に思えてあまり見る気がしない。それはともかく、人気のある物語は何度も映画化される。『大菩薩峠』がそうだ。筆者はてっきり知恵蔵と雷蔵のものしかないと思っていたが、ネットで調べると知恵蔵版はふたつあり、その前に大河内伝次郎が主演している。また雷蔵の後は仲代達矢が演じている。時代劇の人気は今は下火になっているので、今後の映画化は長年ないだろう。雷蔵版は二度目の知恵蔵版と同じく3作に分けてあったが、知恵蔵版をほとんどそのまま模倣しながら、雷蔵が若い分、洒落た現代的な仕上がりになっている。わずか2,3年後の製作であるのに、映画は時代を忠実に写し取る。今回知恵蔵版を見て、雷蔵版の記憶とはあまりに違って間延びする場面が多いことに驚いた。こんなにゆったりとした雰囲気で撮っていれば3作になるのは仕方がないという思いだ。それはたとえば、女性が三味線を弾いたり、踊ったりする場面の挿入だ。これらは物語の筋とは直接関係がなく、今なら真っ先にカットされる。雷蔵版にもない。だが、その充分長過ぎる演奏や踊りの場面は、江戸時代はきっとそんなゆったりとした時間が流れていたのだろうなと、かえって好ましい表現に結局は思える。映画を見る楽しみは、筋書きだけを追うことにあるのではない。物語には無関係と思える、昨日書いた言葉で言えば、「逸脱」の場面があることによって、全体が豊かなイメージをまとう。監督が内田吐夢であることを思うと、そうした踊りや楽器演奏の場面の挿入には納得が行く。このカテゴリーで以前取り上げた『恋や恋なすな恋』では、ほとんどそういう場面こそが映画の持ち味になっていた。内田監督は映画は楽器演奏や踊りよりずっと後に誕生した新参者としての娯楽であって、それがいわば古典芸能に敬意を表するのはあたりまえと思っていたのではないか。『大菩薩峠』を今仮にジャニーズ系の俳優を起用して撮る場合、監督はもはや古典芸能についての知識も興味もなく、内田監督が重視したものは全部切り捨てるだろう。それでも原作の小説の持ち味がまた違った形で表現されるのであればよいが、そこまでこの空前の長編小説を読み解いて数時間の映画にまとめる意義を世間は認めるだろうか。それはこの小説が今読んで意味が大きいかどうかにかかっている問題でもあるが、監督が現代にマッチする意味をつかみ取ったとして、それを映画にして多くの観客に歓迎してもらえるかどうかはまた別の話だ。
話は前後する。今日この映画を取り上げておく気になったのは、来年に持ち越したくないからだ。そして今日はまた自治会のチラシを配らねばならず、法輪寺の長い石段脇の灯篭の写真を撮ることにした。法輪寺のこの灯篭は、先に書いた竜之介が灯篭が並ぶ石段をこちらに向かって少しずつ歩んで来るイメージの背景にきわめて近い。先ほどその写真を加工しながら、今夜の投稿はこの映画と決めた。知恵蔵版のビデオを長らく見なかったのは、筆者の半世紀前に見た記憶が正しいかどうかを確認することがもったいない気が多少したからだ。そして第1作目を見たのが1年ほど前だ。そこには生首灯篭の場面がなかった。最近中古のビデオ・デッキを買ったことは昨日も書いたが、真っ先に見たのは2本目だ。だがそこにも灯篭は出て来なかった。そこでかなり焦った。3本のうちどれを見たか覚えていない。こうなれば3作目しかないが、もしそこにも生首灯篭が出て来なければ、筆者は自分の記憶力を多いに卑下し、この半世紀の期待が半ばした気持ちの持って行きようがないと思った。そして3作目を見たが、記憶どおりに生首灯篭の場面があった。ところが記憶と多少違った。生首が現われるのは、知恵蔵が刀を振り回しながらゆっくりとこちらに近づいて来る場面ではない。知恵蔵が眠っている間に悪夢を見て、そこにひとりの女が灯篭が並ぶ脇を歩くと、順に灯篭が頭から割れて中から生首が出て来る。やはり恐ろしい場面だが、昔のように目を覆うほどではなかった。半世紀の間に筆者も大人になった。あたりまえだが。知恵蔵が刀を振り回しながらこちらに向かってゆっくり歩いて来る場面は別にあった。それは第3作目では最も印象深い、また竜之介の格好いい場面だ。竜之介が宿泊している家から火が出る。竜之介はかつて殺した妻そっくりの女と一緒にそこを出るが、背後は赤々と燃えしきり、そこに竜之介を切ろうとする侍が次々に襲いかかる。だが、目が見えないはずの竜之介はひとり残らず切り倒しながら、画面いっぱいに姿が見えるようになると、ようやく背後で震えていた女が竜之介のもとに駆けつけ、そこでカメラは暗転する。この場面はかなり長い。それをロングショットから始めながら、カットなしで内田監督は撮った。この作品ではほかにもカメラの長回しが目立つが、どれも見事に計算され尽くしている。今まら背後の火事はCGに頼る。またカットを多くして、切り殺す動きに迫力をつけようとするだろう。ところが内田監督は知恵蔵の演技を信じ、カメラを回しっ放しにする。監督と俳優も名人なのだ。そして両者の力比べに火花が散っている。内田監督の時代劇では『血槍富士』を以前に見た。そこでも知恵蔵の切り合いの場面は見事の一言に尽きた。
さて、半世紀前に一度だけ見て記憶した場面は実際は違ったが、この映画の最も印象的なふたつの場面を合成して記憶していたことに気づく。燃える屋敷を背後に刀を振り回す竜之介がゆっくりとこちら向かって来る場面と、悪夢の中の生首灯篭だ。このふたつが合わされば筆者の記憶した映像とほとんど重なる。ということは、この映画を意味不明と思いながらも、筆者は核となる部分をしっかりと把握していたことになる。そのことが嬉しく、また子どもの目の精確さを改めて思う。10歳にならない子はすでに大人と同じ眼差しを持っている。ごまかしが利かないことを大人は自覚しておいた方がよい。小学3年生の筆者が恐ろしい映画として記憶したこの『大菩薩峠』は、半世紀後に見返してみて、子どもの頃と同じく退屈で途中で意味がわからなくなった。1,2作目はよいが、3作目がそうだ。実はこの3作目を筆者は先月と今月、3回見た。だが、3回ともまともに見ていない。途中で眠くなってしまうのだ。先ほどまた見始めたが、やはり途中で意味がわかりにくく、映像を止めてしまった。子どもの筆者がこの第3作を恐い場面があるだけでさっぱりわからないと思ったことも正しかった。原作は未完であるから、第3作が中途半端な印象をもたらすのは当然と言える。竜之介がわが子を救おうと、急流に飲み込まれる橋に乗り、そのまま流されてしまうところで映画は終わる。雷蔵版も同じであるのは当然だが、人殺しのプロである竜之介は血も涙もない男と思っていると、やはりわが子だけはかわいいかと、何だか半ば白けさせる結末だが、そうでもしなければ小説の読者や映画の鑑賞者はいい作品を味わった思いがしないのかもしれない。だが、妙に道徳的とも言えるそういう設定は冷酷な竜之介には似合わない気がする。そこで思い出すべきは題名かもしれない。峠などいくらでもあるのに、わざわざ『大菩薩峠』としたところに、仏教思想が中里介山にはあったのだろう。明治から昭和まで生きた中里は、江戸末期を舞台としてこの小説を書いた。江戸末期から明治、大正、昭和は一連ではあるが、あまりにも激動の変化で、それら激動の堆積がこの小説に全部投影されているだろう。竜之介という男は雇われて人殺しをするが、頼りにするのは切れ味鋭い刀一本だ。江戸末期ではそのようなはぐれ侍は各地にいたであろう。刀は人切り包丁の異名があるが、竜之介の場合はまさにそれで、第3作では竜之介がある男の手首を切り落とす場面がある。それも筆者が目を覆い、また恐怖を覚えた場面だ。地面に手首が転がる場面は、いくら模型とはいえ、刀の恐ろしさを子どもに充分伝えた。当時としてはそういう映像はまだ珍しかったのではないだろうか。それはともかく、小説が竜之介のような悪人をヒーローにするのは、激動の時代の中に中里がどこか虚無を見ていたからか。そういうニヒリズムはいつの時代でも保つ人があるが、小説は映画に用いて人気を得るのは、社会がどういう状態にあるためか。
激動を言えば、去年の東北大震災からこっち、日本は大激動中ではないか。国全体をニヒリズムが覆っているとは言えないが、そうなる傾向にはあるだろう。昨日は電車の中で女性が知らない間に太腿を切られる事件があった。竜之介が辻斬り人とすれば、電車の中で刃物を使う奴もそうだ。竜之介はまだ自分が切った人間の亡霊に苦しめられる人間性を持っていたが、それは生善説による。仏教を持ち出せば、江戸末期はまだ信じることが一般にあった。その仏教の心が失われているとすれば、人を殺めた人間は悪夢にうなされるだろうか。ましてや自分の子が危機に瀕している時、絶叫しながらそれを命を賭けて救おうとするだろうか。「菩薩」という言葉を聞いて、心の中に仏像が思い浮かぶだろうか。筆者はこの原作となった長編小説をおそらく読まないだろう。大菩薩峠は甲斐の国にあって、竜之介は武州の出であるから、この小説は関西人には馴染みにくさがある。だが、であるからこそ、いつか大菩薩峠に行ってみたいとかすかに半世紀も思い続けて来ている。筆者はその峠が今は舗装されて車がたくさん走ると思っていたのに、ネットで調べると映画に見えた場所と同じではなく、また同じように何の変哲もないような峠であることに拍子抜けした。この峠のすぐ近くで石の仏像を彫り続ける無学で優しい男が登場するが、竜之介とは対極にあるようなそんな平凡で心優しい人物こそが主役でなければならないこの世の中で、実際知恵蔵版でも雷蔵版でもその男の存在感は大きい。物語としては、仇討を果たそうとする若侍が全体を通じて竜之介を追い続けることが経糸になっているが、ふたりが切り合う場面はなく、最後ついに竜之介を追い詰めたと思った途端、濁流に飲み込まれて去る竜之介を見守るばかりで、これはどちらか片方を死なせるには忍びないという原作者の思いだろう。人殺しの竜之介が殺されるのは当然と見る向きがあるかもしれないが、そういう仇討を許す限り、また仇を討ち返す連鎖の思いは途切れない。また、竜之介は悪い役人に使われるが、武士の中にも腐った人物がいるという設定はいかにも江戸末期らしいし、また小説や映画を楽しむ人は期待する設定だろう。一方ではそういう悪人の金を鼠小僧のように奪う身軽な男も登場するが、このように登場人物が多岐にわたり、小説のどこを取り上げて捨てるかでいくらでもリメイクが可能だ。それは『レ・ミゼラブル』も同じだ。仏像を彫り続ける無学な男、また鼠小僧のような優しい心の持ち主や悪人の侍の登場など、テーマが多岐にわたり、小説の一部を映画していることは知恵蔵版と雷蔵版を比べればわかる。最後に書いておくと、筆者が買ったビデオはカラーの色合いがかなり白黒に近いように褪色していた。右京図書館にこのDVDを見つけた。それを見ていないが、色合いを元どおりに調節したものであるならば、それで3本を通して見たい。だが、全体に陰鬱な内容の物語であるので、色彩を誇張した派手な画面ではなく、白黒に近い鈍い画面こそが似合う。特に生首灯篭の場面はそうだ。