●「武田理沙~フランク・ザッパ・メドレー関西初演」 武田さんと筆者が10月26日、大阪の神山町のALWAYSにて対談します。
●『ジャン=リュック・ゴダール短編傑作選』
らしたネタは元に戻らない。「覆水盆に返らず」をこう言い代えてみて反省する。映画やドラマの感想を書くブログは多いが、「ネタばれ注意」と断ってあるものを見かける。



d0053294_1102638.jpgさらに「それでもかまわない人は以下を読むように」と親切に書いてあるが、筆者はネタを明かすどころか、細部まで書き過ぎだ。昨日はそう思いながらも、投稿し終わってまだ書き足らない思いをしていた。見たばかりの映画であるので書くことも多いが、これが数週間でも経つと半分ほどは記憶が消えているだろう。その代わり、確かな印象だけが残っていて、それを書けばすっきりとした感想文になるかもしれない。昨日のようにたくさん書いても、数か月で何を書いたか覚えていないはずで、それは無責任なことだ。かといって、筆者の取り上げる映画はたくさんの人がすでにブログに感想を書いているし、それらに似た内容では意味がない。そのためというわけではないが、書きたいだけ書くつもりでいる。ネタばれであろうがかまわない。筆者の文章を読んで映画を見た気になることもいいし、実際に見たいと思う人もあるだろう。また、結末がどうかを予め知ってから見ても、感動が減るとは限らない。ただし筆者はあらすじを知らないで見る場合がほとんどだ。意外性を求めるからだが、そう言う筆者が結末どころかあれこれ細部を書くのでは、読み手はその作品に対する意外性を持てなくなりがちだ。だが、こうした文章と映像は全く違う。いくら解説を読んでも、自分の目や耳で味わう作品は自分だけの思いを抱かせる。したがって解説などあってもなくてもいいもので、毒にも薬にもならない。それをわかりながら筆者は映画や音楽の感想を解説するかのように綴る。さて、一昨日に続いてDVDの後半に収められている3つの短編映画について書いておく。1日開けたのはさほど理由があってのことではないが、アラン・レネの短編とはあまりに異質な作品であるので、間を置く方がいいと思った。ゴダールの作品は『勝手にしやがれ』を20歳頃に映画館で見たのを皮切りに、2,3本見たことがある。正規で売られたビデオも持っているし、録画してもらったのに20年近くも見ていない作品もある。何となく自分には合わないなという思いがしていた。それが今日書く短編によって、初めてその才能と特質がわかった気がした。愉快で洒落ていて、また知性が豊かで、日本で似た作品を撮る監督はいないだろう。特に「知性」の点においてそう思う。これは日本の監督に言わせれば、「映画を見る人たちにそれが欠けているから」ということになるのかもしれない。
ゴダールの3つの短編の題名を書くと、57年の『男の子の名前はみんなパトリックっていうの』20分、58年『水の話』12分、58年『シャルロットとジュール』13分で、どれも若い男女の性がらみの話だ。若い男女がいると、必ずお互いセックスを求めるという確信が監督にはあるのだろう。あるいはそのように見なければ何も面白くないという考えだ。アラン・レネの短編は性に関する事柄はほのめかし程度もなかった。同じフィルムを使いながら、レネは男女のそういうことよりも芸術家の生涯や作品に関心がある。ゴダールはそんなものはどうでもよく、異性をどう得るかにひたすら執心する。フランス映画はエロティックというイメージを筆者は10代で何かで知ったが、そういう評価はたとえばゴダールのこれらの短編が作ったものではないだろうか。エロティックという形容詞はあまり似合わないか。女性が肉体を曝すのではないし、卑猥な会話があるのでもない。ゴダールの短編ではごく気軽に男も女も相手を求めるので、じめじめしたところが全くない。まるで腹が減ったので何か食べるのと同じように性を捉えている。食も性も本能だ。男女にあたりまえに具わっている性への欲求は、相手の言葉にどうなびくかという一種のゲーム感覚とつながっている。強姦という方法もあるが、そういうことにはゴダールは関心がない。男がどんな方法で女を口説くか、また女は男のそういう才能を見定めて、『これならいいか』と納得するその過程を面白いと見ている。これは言葉を操る人間だけの特質かと言えば、そうでもない。動物でも雄は雌に求愛する際には必死になって自分の才能が優れていることを示す。3本の短編を見ながら、筆者は小鳥を連想した。小鳥の雌雄が結ばれるまでにも、人間の男女と同じようなそれなりの演技がある。今「演技」という言葉を使ったが、3つの短編は当然男女の俳優が演技をする。その演技が本物の男女の出会いや求愛のそれに見えるほどに自然で、しかも洒落ていて、見ているこっちまでもまた恋がしたくなる。男が女を求め、女が男を求める。それだけでこの世はハッピーで、ほかに何が必要というのだろう。ゴダールはそのように言っているかのようだ。
 昨日取り上げた『父 パードレ・パドローネ』は意外なほど性についての描写があった。数人の少年が鶏小屋に入って片っ端から鶏を捕まえ、それと性交する場面では、荒い息が何重にも被されて効果音として背景に長らく響きわたっていた。サルディーニャの青年が女性に不自由している間、フランスの大学生たちは毎日のように異性を代えてセックスに及んでいた。日本は後者で、今ではゴダールのこれらの短編を見ても、新鮮味を感じないだろう。だが、長くても20分という長さの映像作品においてゴダールほどに見事に男女の間の機微を捉える才能はまずほかにはないことに気づけば、女性を誘う時の格好よさ、また女性は誘われる時の態度といったものを勉強し直す。先に書いたように、3本の短編に登場する男女はみなそれなりに知的だ。2本目の『水の話』は、雪解けの季節には村が水浸しになるパリ近郊の村に住む女子大生が、パリの大学に行くのにヒッチハイクし、その運転手に身を任せてしまう話だが、初めから最後まで女子大生の語りが途切れない。しかもその内容が日記風になっていながら、いかにも大学生らしく、実験映画としても一級品の仕上がりだ。その語りの中で、大学の講義でルイ・アラゴンが、ペトラルカであったか、彼のことを話すべきなのに、ずっとほかの話題に終始した。それで学生がそのことを抗議すると、アラゴンは『逸脱こそが彼の方法であった』と答えたと言う。アラゴンの小説は逸脱が特徴とされる。『水の話』を共同監督したフランソワ・トリュフォーやゴダールはそれを映像作品に適用することを考えて『水の話』を撮ったのではないだろうか。アラゴンは日本で言えば誰に相当するだろう。ちょっと思い浮かばないが、アラゴンに言及する短編を日本の若い映画監督が撮るだろうか。まずアラゴンの名前を知っているだろうか。
 この作品の映像はほとんどNHKが放送するようなドキュメンタリーだ。そこに見事に女性の矢継ぎ早の語りがシンクロすることでドキュメンタリー作品とは全く別種の独創的なものに仕上がっている。では、その独創的なものをもっとほかの手法で同じように表現することが出来ないのかと言えば、それは無理だ。筆者が面白いと思ったのは、まずフランスのしかもパリ近くの人しか知らない雪解けの水が村を水没させる話を持って来たことだ。女子大生は村人から長靴を借り、またあれこれ手助けしてもらいながら、ようやく車が拾える場所に出る。そこで車に乗った青年を見つけるのだが、青年は若い女性が乗って来たから、どうにか親しくなりたい。ところが道を知らないので、遠回りしてまた最初の場所に戻ってしまうなど、なかなかパリに到着出来ない。そして車を捨てて、水のあまりないちょっとした場所で休憩し、そこで男は女を誘って、ふたりは寝そべって重なり合う。その後また運転を続け、ついにエッフェル塔が間近に見える場所に着き、そこで女性が語るのは、『彼とはこれからも付き合う』といった恋人を得た勝利宣言だ。男は女を物にしたが、それは女も同じだ。ここには男女平等主義が見える。これがよい。そもそも村からパリにヒッチハイクで向かうのに、ひょっとすれば格好いい男であれば、ひょっとしたことがあるかもしれないとどんな女でも思う。そう思わない女はヒッチハイクなどしない。なので、ヒッチハイクで待っている女性を見かけた男は、まず女が場合によっては寝てもいいと覚悟していることを悟るべきで、車に乗せたからには口説かねば失礼だ。そしてその口説きに技術が欠かせない。雪解けの季節は春で、それは小鳥と同様、男女が重なり合うに最も最適だ。村に毎年のように雪解けの水が溢れる。それは村の若い女が男を求める合図でもある。ゴダールはそんな符合を示したかったのだろう。そしてもうひとつは逸脱すなわち寄り道だ。この短編では寄り道して男女が体を重ねる。男女ともに目的はそのことにある。村が水で溢れた珍しい光景をドキュメンタリー作品のようにあれこれ見せながら、ゴダールが結局言いたかったのは男女の出会いとその当然の帰結だ。その帰結のみを描くとポルノになるが、そこは見せないで、それまでの過程を工夫して見せる。恋は過程が楽しい。この作品を見てどこが面白いのかと言う人は少なくないだろうが、それは逸脱の面白さを知らない人だ。筆者も文章ではよく逸脱する。それこそが個性で、それがないものはたとえばウィキペディアのように無味乾燥だ。
  『男の子の名前はみんなパトリックっていうの』も女子大生が主人公だ。ゴダールは女から見た男を描くのがうまいようだ。『水の話』に出て来た若い男は、先日書いた『いとこ同志』に出演したジャン・クロード・ブリアリで、この短編ではさらにその演技力の冴えを見せている。彼は『いとこ同志』と同じくパリの大学生、自称パトリックを演じる。こっちの短編が先に撮影され、その分彼は瑞々しく見える。さて、パトリックは若い女を見ると必ず声をかけ、毎晩のようにデートすることを考えている。同時に数人の女性と交際し、どの女性にも何を専攻しているかは明かさない。一方、ふたりの女子大生が部屋を分けて住んでいて、どちらもたくさん交際はして来たのだろうが、これだというような恋人を持っていない。ある日ふたりは公園で待ち合わせをするが、片方が先に着いて待つ。そのすぐ近くにいたパトリックは早速声をかけてデートに誘う。さりげなくボディ・タッチをしつつ、相手にノーを言わせないほどに素早く自分のペースに嵌めて行く。その積極性を女はいやとは思わない。また最初から脈がありそうな女性と知って男は声をかけるものだが、パトリックは数撃てば当たる主義であろう。そうでなければ映画で見せるような洗練された態度であるはずがない。断られてもともとではなく、断られてもしつこく迫る。そうすれば必ず落ちると確信を抱いている。女はそのような攻撃的な男には弱い。頼もしく見える。それにパトリックは嘘八百を並べ立てるが、それは後でどうにでも言い訳出来るとの考えだ。まずはデートして、そしてベッド・インしてからの話だ。それは女も求めている。そのように男女とも数多く関係を持ちながら、そのうち本命に出会う。あるいはそうでない場合もあるが、とにかく若いのであるから、異性なしでは暮らせない。公園で声をかけられた女性はその日有頂天になって誘われたことを同居の友だちに自慢する。ところが同居女性も待っていたはずの友人がいないのでそのまま公園を後にした時、たまたまパトリックからデートの誘いを受けた。そして、ふたりはそれが同じ男であることを知らずにお互い自慢し合う。翌日ふたりは街に繰り出し、本屋で絵はがきを見ていると、目の前にパトリックが別の女性を連れて歩いている。ふたりがタクシーに乗って去ってしまう様子を見たふたりの女子大生は、お互いに同じパトリックに誘われたことを知るが、立腹しないどころか、「彼は合格ね」と言い、「今夜はわたしで明後日はあなたがデートの番」と言い合いながら仲よく歩き始める。この物語は、特別に持てる男がいるという現実と、そういう男は浮気性であっても、それを自分が物にして見せるという女の闘争心を掻き立てる存在であることを示している。ふたりの女性に同じ日に接近する一方で別の女性の尻を撫で回す男を、日本女性は軽薄で許せないと思うだろうか。この映画の意外性は最後のふたりの女性がパトリックを非難しないことだが、そう考える筆者はお堅い、そして女性から素敵とは思われないに違いない。数人の女性を同時に手玉に取るほどの男っぷりでなければ、どうせたいした仕事も出来ない。パトリックはゴダールの分身ではないだろうか。
  『シャルロットとジュール』は男女ふたりの対話劇だ。ジャン=ポール・ベルモンドが最初から最後までしゃべりっ放しで、女性はそれに相槌を打ち、ごくわずかしか言葉を発しない。女は1週間前まで男と暮らしていたが、今は別の男のところにいる。それがどういうわけか予告なしに男のところにやって来た。真夏だ。女はアイスクリームを食べている。その舐め具合がエロティックだ。だが、男が話し始めるや否や、食べ残しを窓から捨てる。男はワン・ルームの高層に住んでいて、ベッドの脇のタイプライターが仕事道具だ。映画の脚本家で、女は女優という設定だ。彼女が逃げたのは、男の才能を見限ったためか。男は恨みたらたら、女は役をもらいたいから監督をしている男に逃げたのだろうと責める。ここはゴダールやその周辺の実話が反映しているに違いない。映画人同士では、少しでも自分が世に出るのにつごうのいい相手とセックスをするのはあたりまえのことだ。監督のもとに走った女が自分のところに戻って来たことに、最初男は横柄な態度を取り、次第に哀願調に変わる。そして自分が書いた脚本が売れたので、それで車を買ってやるとも言う。男はてっきり女が自分の方がよくて戻って来てくれたと思うが、女は最後にコップの中の歯ブラシを見つけて、「これを取りに戻って来たの」と言い、クラクションを何度も鳴らして窓下で待っている監督へと戻る。男が話している間、女は小さな扇風機のスイッチを入れ、その風をめくったスカートの中に入れる場面がある。セリフがないので楽な役柄のようだが、かえって眼差しや態度で男に飽き飽きしている様子を表現せねばならず、なかなか達者な俳優だ。『…パトリックっていうの』に出た女子大生のひとりで、アンヌ・コレットという名前だ。女に逃げられた男の悲哀の小話だが、より才能のある男が女をかっさらって行くのは現実だ。そのため、男は絶えず自分を磨かねばならない。女も同じだ。安心に胡坐をかいていると男は確実にほかの女に目を移す。ともかく、ネタばらしをしたゴダールの短編だが、テンポが小気味よく、無駄のない画面とセリフに圧倒されるはずで、予算が少なくてもかえって素晴らしい作品が出来ることの見本だ。世界で名を知られる監督はさすがに違う。
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by uuuzen | 2012-12-20 23:59 | ●その他の映画など | Comments(0)


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