副題は『ポーランド、チェコ、スロヴァキア、ハンガリーの現代美術』。8月15日に観に行ったが、今日も行って来た。金曜日だけは夜の7時まで開館しているのでありがたい。

今日は午前中に大阪に出た。午後3時頃までに展覧会を3つ回って、それから国立国際美術館に行った。3時間半は中にいたと思う。6時少し過ぎに観終わったが、外に出ようとした途端に1階のガラス張りの天井が強く光り、大きな雷の音が何度も響いた。出入口にいる警備員に「降ってますか」と訊くと、「ええ、今降って来たところです」との返事で、すぐにまた地下に下りて、毎回この美術館に来れば写生することにしているヘンリー・ムーアの彫刻『ナイフ・エッジ』を写生した。その後、椅子に座って3、40分うとうととし、7時5分前に外に出るとほとんど雨は降ってなかった。それでサラリーマンに混じって梅田まで歩いて阪急に乗った。今日は1日で4つ展覧会を観たので、ブログに書く内容には当分困らない。今日はどれについて書くべきかと思ったが、1か月ほど前にも観ているこの展覧会に決めた。図録は買っていないので詳しいことは書けない。東欧の4か国の現代美術の紹介であるため、前回の『ゴッホ展』と比べると観客は100分の1かもっと少ない。前に観た時も少なかったが、今日はもっとで、会場にいた3時間ほどの間、入場者は20人ほどだろう。係員の方が多く、あまりにもがらんとしていた。若者ばかりであったが、観終わるのに時間のかかるヴィデオ作品は大抵素通りしていた。この展覧会に2回行くことにしたのは、前に観られなかったヴィデオ作品を全部観たかったからだ。1本で20分や30分のものが少なくなく、それを4つも観れば2時間近くはすぐに経ってしまう。それほど見応えのある展覧会にもかかわらず、拍子抜けするほどの入場者数では残念だ。東京で同じ展覧会をすればどうだろうか。人口が多いということを度外視しても、やはりもっと多くの人が入るように思う。大阪という土地はこうした現代美術をあまり受け入れないのかもしれない。あるいは、東欧諸国に対して興味がないかだ。恐らく後者が原因が大きい。めったに開催されないからこそ、こうした展覧会を通じて東欧の現状を知っておくことにはよい機会だと思うが、現代美術で遅れを取っているような国々といった先入観があるのかもしれない。遅れているかどうかは実際に観てみないとわからないし、何をもって遅れていると判断するのかという問題もある。もういい加減、西欧やアメリカだけに先進美術があるという劣等根性は捨てた方がいい。
チラシの裏面にはこんなことが書いてある。『…これまでにも、この地域の現代美術を含む展覧会は開催されたことがありますが、主として90年代以降に焦点を絞った展覧会は日本で初めての試みです。1989年、旧東欧諸国では雪崩を打って社会主義体制が崩壊しました。そして、2004年5月には、上記4カ国がEUへの加盟を果たしました。古い価値体系が覆された後にやってきたのは、必ずしもユートピアという訳ではありませんでした。…』。以下まだ同程度の量の文章が続く。省略した部分には「…臨機応変の柔軟さ、そしてユーモア精神は…」とあって、この展覧会の内容を端的に表現している。現代芸術となれば、わけがわからないとかまえてしまいがちだが、今回の出品作はみな面白い。深刻なものはほとんどないと言ってもよい。選ばれた4か国の作品は、いちいちどの国かとはすぐにはわからないように展示されていた。作品のそばの壁面にある小さなキャプションを呼んでも、どこそこの画廊所蔵といったことがわかる程度で、国名は書かれていないからだ。そのため、4か国がまるでひとつの大きな国に思える。日本の一般的な考えからすれば、このあたりの諸国がどう隣合っているかはなかなかわかりにくいが、加えて旧ユーゴスラヴィアがいくつかの国に分解した問題もあって、さらに地図の国境がどうなっているかは謎めいて思える。たとえば、こんな作品があった。ヴィデオ作品で、パウリーナ・フィフタ・チェルナの『ヨゼフについて』という10分のインタヴュー映像だ。ヨゼフという30代とおぼしき芸術家の考えとその作品の紹介だが、彼は古い廃墟のような建物のボイラー室を使って作品を作っている。建物の天井や床が順に丸く大きく抜けてしまって吹き抜け状態になっている様子をそのまま作品に出来ないかと考えているが、もっぱら平面作品で宇宙をテーマにしている。それらは日本では50年代に盛んであった『具体』の仕事に似て、絵の表面を燃やしたり、オブジェを貼りつけたりしたものだ。また、売るためではなく、自由になるために制作していると言うが、周りの人々はそれを理解しようとはしない。友人が出来てもほどなくしてつき合いがなくなり、芸術に関心のある者などもいないと愚痴る。旅をするのが好きで、クロアチアやスロヴェニアの人々は親切だったが、自分が今住んでいるスロヴァキア人は冷たいと言う。
ヨゼフのような芸術家は東欧に限らず、日本にも多くいるはずだ。彼らには一生光が当たることがなく、また本人たちはそれでもかまわないと思っている。チェルナのヴィデオ作品が日本で紹介されたということは、チェルナの方がヨゼフより有名であるわけで、チェルナはどういう思いでヨゼフを紹介しているのか、ちょっとわからない。そのわからない変な気分がこのチェルナの映像作品の魅力になっている。観る人によってはヨゼフを純粋な芸術家でいつか陽が当たればよいのにと同情的に思うし、辛辣な人ならば、結局素人仕事はいつまで経っても駄目と断定するだろう。どのように解釈してもよい。観る人をある一定の感情の方向に連れて行こうとするドキュメンタリー映像とは違うということだ。それはいいとして、ヨゼフはクロアチアやスロヴェニアの人はよくて、スロヴァキア人は駄目だと言っており、ここがこの映像の見所のひとつとも言えるかもしれない。スロヴェニア人とスロヴァキア人がどのように違うのかは日本にいてはさっぱりわからないが、同じ東欧でもややこしい事情があることだけはわかる。したがって、この映像作品はかなり深い問題を孕んでいるのかもしれない。同じくチェルナの映像作品で『マロシュと一緒に』と題する20分のものがある。これはすでに父親がいないおじいさんが、息子のマロシュと対話したり、自分ひとりで散歩する情景を録画したものだが、撮影しているのはほとんどがおじいさん自身で、そのためカメラは始終かなりぶれている。おじいさんの目から見た、かつて自分がまだ小さな子どもだった頃の父親との楽しかった思い出話と、今の息子とのやり取りがつなぎ合わされ、3代にわたる日常生活といったものが20分にまめられている。おじいさんの生活は年金だけが頼りで、それも毎年かなり減少しているが、やもめ暮らしのようで、買物はまとめてしているようだ。たまに買い忘れたものをマロシュに頼む。そのマロシュも後何十年かすれば、作品の中のおじいさん、つまりマロシュの父とそっくりになるだろう。何も変わらないようでいて、やはり国や経済の事情があって変化する。ちょっとしたフィクションの映画を観るような感じがあった。他の2編もちょっと変わった人物を撮影していて、どれも面白いようでいて悲しい人間像がよく出ていた。東欧の現在がちょうどそのような様子なのかもしれない。
映像つながりで言えば、アゾロという男4人組の芸術家集団の作品があった。彼らは芸術において何をすることが残されているかを考え、その思考と行為をそのままヴィデオに撮影して作品化する。モノとして展示されるものは作らず、行為をそのまま撮影して編集し、笑いを込めて提示する。『全てやられてしまったⅠ』『同Ⅱ』はそれぞれ12分、26分の作品だが、現代芸術ではもうあらゆることがやられ尽くしてしまって、自分たちのすることなど残ってはいないという、その思いそのままを映像化している。これはよくある手で珍しくはないが、「すべてやられてしまっている」ということを主張することだけはまだどんな芸術家も作品として主張はしていなかったということに着目している点で、それなりに独創的になっている。何だか馬鹿馬鹿しいが、そもそも現代芸術には馬鹿馬鹿しいものが多いとみなしているような不敵さがあって、ダダイズムの現代東欧版といったところか。同じ路線で『芸術家は何をしてもいいの?』というのがある。13分半の長さだが、これは街角にたくさん貼られているアンディ・ウォーホル展のポスターにアゾロが悪戯描きをするものだ。ウォーホルは晩年に自分の小便をひっかけただけの作品を作ったことがあるが、そうしたウォーホルに対して、「有名になれば何でもありかい?」という、からかいの気分いっぱいの映像作品だ。これも全く珍しいネタではないが、ウォーホルをからかっている点で、東欧というアメリカに比べてうんと貧しい国に住む者の皮肉や風刺があらわにされ、芸術で有名になるのも結局は国力の問題かという重要なテーマを突きつけてもいる。『プロポーザル』は短い作品で1分45秒しかない。それはアゾロに対して作品の出品を依頼して来た機関の電話の留守録音をそのまま4人が聞いて笑い転げるものだ。電話の内容は、作品の出品や旅費などは全部作家の自前でお願いしますというもので、ここでも経済的貧しさの事情がそのまま作品の面白さになっている。『すごく気に入った』はアゾロがあちこち画廊での展覧会を観に行き、会場内部は一切撮影せず、ただ、会場に入る時の姿と、出て来て「よかった」と口々に述べる姿だけをいくつもつないだものだ。これは画廊の壁面に展示されるような作品など、もう『すべてやられてしまった』と考えるアゾロからすれば、作品がよいとしてもそれはもうほとんど意味をなさないというアゾロ宣言を説明しているようなもので、この4本目に至って映像作品の輪が閉じる。アゾロは日本で漫才の脚本を書けば、かなり上質の笑いを獲得出来るだろう。
会場に入ってすぐも映像のコーナーで、そこではアルトゥール・ジミェフスキというワルシャワの作家の作品『歌のレッスン1』という14分の作品が上映されていた。これは字幕がない。20名ほどの混声合唱団が教会の中で歌のレッスンを受け、そして最後は全員で歌う。だが、最初から最後までみんな声の調子がかなりおかしい。と言うより、全然音程が合っていない。途中で事情がわかる。手話をしているからだ。つまり、聾唖者の混声合唱団なのだが、顔だけ見ているとそれは全くわからない。楽譜のクローズアップ映像はなかったが、みんな楽譜を見ながら歌っていたので、手話を利用した特別の楽譜であるかもしれない。男女とも制服を着ていて、女性は特に黒のガウンを羽織っているため、中にはくるくる回転してそのガウンを大きく膨らませ、あたかもスーフィーの踊りのような格好で恍惚とする者もいる。まるで子どもがよくするような行動で、知恵遅れなのかもしれない。ヘルツォールのフィルムを観ているような気分にさせる作品であった。同じ作家のもう1点は『我らの歌手』で、やはり歌うことに注目している。これは老人ホームを訪れて、各人に最もよく記憶している歌を歌ってもらう内容だ。何も思い出せない人に対しては誘導尋問的にある歌を想起させようとするが、それはポーランドが他国に蹂躪される時に英雄が現われて自分たちを率いてくれるという歌詞内容だ。その英雄の名前はダブロウスキと言っていた。ポーランド人なら誰でも知っている名前であるのだろう。あるいはわざわざ老人ホームに取材しているところを見ると、今の若者にはもう昔の英雄の名前も、それを讃える歌も知られていないことを作家は暗に伝えようとしているのかもしれない。出演している老人はほとんど過去の遺物で、それを見据えている作家は『転換期』を記録しておこうという考えなのかもしれない。
パヴウ・アルトハメルの『お母さんとお父さん』は30分ほどの映像作品で、中年の夫婦が日本人に知り合いに日本旅行に招待され、新幹線で移動しながら東京、大阪、広島を2日ずつヴィデオ撮影したものだ。日本に旅立つ前の準備から撮影していて、ついつい最後まで見入ってしまう。それは外国人による日本の風景撮影という点で珍しいからでもある。NHKでそのまま放送してもいいような内容で、別段劇的な何かが撮影されているわけでもない。ごく普通に淡々と東欧人が日本の珍しい風物に関心を示して撮影しているだけと言ってよい。それでも時々はっとさせられる瞬間がある。たとえば東京上野公園に林立する青シートによるホームレスの館の群れだ。そういったものばかり誇張して撮影しているのではなく、むしろ実際に現地を訪れてみれば、誰の目にも明らかな存在となっているホームレスの実態をたまたまその作家も目にしただけであり、こんな豊かな国の日本にこれほどたくさんのホームレスがいるという素直な驚きの思いが伝わる。日本に住んでいればあたりまえの光景になって、今ではほとんど誰も気にしないものになっているが、外国人から見れば非常に奇妙なものに見えるのだろう。ホームレスがそのように集団で生活することは日本だけの特徴ではないだろうか。どの国でもホームレスはいるが、個人主義から群れることはないだろう。それに、そうした群れた場所があれば市民から反発があるだろうし、そもそも群れるほどにホームレスが増える前に福祉でどうにかもっとましな場所に収容するのではないだろうか。あるいは仕事を与えるかだ。国が豊かになっても、貧富の差が拡大して人生からはじき出される人が増えるのは、本当に豊かになったことがどうかだ。外からの目で教えられることは多いのではないだろうか。またそうした外からの目がなければ昔から日本人は自ら覚醒することは少ない。ところが、外からの目を内政干渉だとか何とかつまらぬ理屈で聞く耳を持たない人が増えている。転換期を迎えている東欧もいずれ日本のようになるのかどうか。それは注目せねばなるまい。
これは映像専門の作家ではないが、ラクネル・アンタルのコンピュータ・グラフィックスによる7分ほどの作品は笑いと風刺のスケールが大きかった。『ブンデスベルク・ベルリン2020』という作品だ。これは海抜が34から60メートルしかないベルリン市内に1000メートルの高さの人口の山を造り、ベルリン市内を一気に有名な建造物があることで目立たせようという計画だ。ベルリン市内とその山が実際にどう見えるかをCGで作っていた。山は産業廃棄物で造るというのだが、ドイツの大きな国内問題になっている産廃問題を強く皮肉っている。ドイツの困っている事情をそのように風刺してもいいものかどうか、日本がそういうことをされれば、きっと外交問題として騒ぎ立てるだろう。だが、ヨーロッパはそうした国家やその権力者への風刺の伝統は長く、これぐらいでは外交問題になるどころか芸術とみなされる。そのよい見本だ。ベルリンはせっかくドイツの首都になったが、誇るべき記念物がないため、今ひとつ精彩を欠いている。それならば、ヨーロッパでも最も目立つ人口山を築造して、産廃問題を解消すると同時に、山を観光にも利用すればいいという提言は、アホらしくもどこか真実めいて見える。たいして豊かな経済国家ではない東欧諸国からすれば、ドイツのようにたくさんの産廃が発生することはなく、これは微妙に形を変えた、貧しい国の持てる国に対する当てつけになっている。そうしたねじれた視線をひがみ根性と受け取ってはおしまいだし、そんな見方しか出来ない人にはそもそもこういった芸術は、ない。さて、映像作品のことばかり書いたので、ほかの作品について書く余裕がほとんどなくなった。大きな部屋ひとつを占領していたミロスワフ・バウカのインスタレーションは、表面を灰で塗装した合板で建物の壁を表現したもので、デコボコと数メートルごとに壁をくぼませつつ、四方を取り囲む格好で閉じていた。壁の高さは2.5メートルもあるので内部は覗けないが、全体で3か所、鉄のホースから水が少量流れ続けていた。壁を見せる作品であるので、内部がからっぽであることは間違いないはずだが、にもかかわらず、壁の向こうがどうなっているかという印象がついて回る。図録を読んでいないので何の隠喩なのかはわからないが、強制収容所をイメージさせる暗鬱さがあった。この作品のみ例外的に暗く、そして悲しい歴史を感じさせた。会場の最後にはおまけのような形でチェコ・アニメか4本上映されていた。有名なシュヴァンクマイエルの作品のほかに3名の監督のもので、眠たかったので『手』というイジー・トルンカの作品しか観なかった。