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●『アラン・レネ短編傑作選』
に障ると言えば、まだ使えるものが強制的に引退を命ぜられることだ。たとえばTVだ。去年の夏にデジタル化が一斉になされた途端、それまで使っていた旧式のブラウン管はお払い箱だ



●『アラン・レネ短編傑作選』_d0053294_1102638.jpgブラウン管は箱であるから、まさにそうだが、「お祓い箱」と称して貯金箱に改造するのもいいかもしれない。そんなことを思っていると、昨夜のTVではアフリカ諸国に日本で使われなくなったブラウン管TVが再利用されていることを紹介していた。そういう国からは、日本はまだ使えるものをなぜ捨てるのかと不思議に思われているだろう。わが家にはまだブラウン管のTVが2台ある。14型で、どちらもケーブルTVにつないであるので、J-COMが2年後まで電波を流してくれるデジアナ放送を見ることが出来る。これはデジタル放送をアナログに変えて放送するもので、地デジ用のチューナーを買わずに済む。ところが、今年1月末に買った26型の大きな画面に慣れると、見る気がしない。26型でも大きいと思うのは、それまで14型のテレビデオを長年見ていたからだ。それはともかく、最近はビデオテープを捨てる人が少なくないようで、以前に書いたかもしれないが、ゴミ出しの際にゴミ袋としては最大の40リットル用3袋にビデオテープとカセットテープを処分しているのを見かけた。まとめて1000本以上はあったはずで、透けて見えたラベルやケースなどによれば、まだ真新しかった。もったいない話だ。アフリカ諸国にブラウン管を輸出するのであれば、ビデオデッキもであろうし、となれば録画用のテープもほしい人がいるだろう。それにそんなプラスティック製品を燃やすと有毒ガスが発生しないのか。筆者もビデオやカセットをたくさんも持っていて、それを同じようにゴミに出すのは癪に障るので、少しずつ見直し、聴き直して行こうと思っている。そして先ごろ中古のビデオデッキを買った。早速昔録画したものをぽつぽつ見始めているので、それらの感想を書くこともあるかもしれない。驚いたのは20年以上前にTVで録画した映画が全く画質の劣化もなく、充分鑑賞に耐えることだ。DVDは便利だが、盤に傷があるとストップしてしまうことが多い。その点テープはまだ安心だ。
 今年はオペラのDVDに関心を抱いたことから、右京図書館に月2回通うようになった。返すと同時に借りるので、通いに終わりがないようだが、たとえばDVDならばもうしばらく通うと見たいものはおおよそなくなる。そうなれば行かなくなるかもしれない。今日取り上げる映像作品は、見たいというほどではなかった。ほかにいいものがなかったから借りた。だが、得てしてこういう場合にとてもいいものに出会う。アラン・レネとジャン=リュック・ゴダールの短編を収めたもので、今日は前者について書く。アラン・レネはどこかで聞いたことがある名前だと思って調べると、『スモーキング』と『ノン・スモーキング』という対になった作品がある。これを20年ほど前に深夜番組で録画して見た。あまりに凝った映画に驚き、当時消さずにおいた。そのことを思い出して、数日前にたくさんのビデオテープを調べると、記憶どおりに見つけた。まだ全部見直していないが、早送りしながら少し見たところ、次々に記憶が蘇った。右京図書館にはこの監督の代表作が確か1,2本ある。今度はそれを借りよう。さて、レネの短編集だが、製作順に5作入っている。アマゾンで調べると、ほかにも同時期に短編を撮っていて、それらを含めたDVDも出ている。筆者が借りて来たのは次の5作を収録する。一番古いものが1948年の『ヴァン・ゴッホ』で18分、次に49年の『ゲルニカ』で13分、そして同年の『ゴーギャン』で12分、56年『世界の全ての記憶』22分、最後は58年『スチレンの詩』で、これのみカラーで13分だ。どれも時代の最先端を行っていたことを実感させる名作で、さすがの芸術の国フランスと言うべきで、その後世界中のドキュメンタリー作品の規範になったのであろう。今はゴッホやゴーギャンの実作品を見る機会はよくあるし、画集も数え切れないほど出ている。そのため、古臭い白黒映像のドキュメンタリー映像など、新しい情報は何もないと言ってよいが、感動は別物だ。レネがゴッホやゴーギャンに寄せた思いが映像に反映していて、画家の生涯とは別に監督の眼差し、意気込みが胸を打つ。それは実物の絵画を前にした時の感動とはまた違うもので、映像の力だ。このことは、たとえばゴッホやゴーギャンについて文章を書いたとして、それが他者に感動を与える場合があることと同じだ。一種の批評行為で、それを映像で誰にもわかりやすく、しかも短時間にまとめ上げていることに映像の豊かな可能性を再認識する。画家を映像で紹介することは、たとえばNHK教育TVの『日曜美術館』がある。80年代はよく見たが、その後はほとんど見ていない。ゲストや司会が面白くないことと、それが肝心の画家の持ち味を時として損なっていると思えるからだ。レネの『ゴッホ』や『ゴーギャン』は、『日曜美術館』とは何の関係もないように思える。作品の解釈をせずに、ただ作品のみを初めから最後まで映すからだが、その手法を並みの監督が今使えば、勝手な解釈を入れるなと批判されるだろう。レネはもちろんナレーションや音楽を添えているが、どちらも映し出す絵画を邪魔していない。無機質であるからというのではない。音楽はそれだけを鑑賞しても面白いような優れた出来栄えであるし、ナレーションは時として映像処理とぴたりとマッチしてドラマを構成しようという意識が強く見えている。それでもゴッホやゴーギャンの生涯はドラマティックであり、そのように描かれてしかるべきだ。
 『ヴァン・ゴッホ』はゴッホが描いた順に作品が次々と画面に現われる。絵全体をカメラのフレームに収めるのではなく、部分をクローズアップしながらカメラを移動させることが多い。つまり、額縁を一切映さない。これは絵の細部を凝視せよということだ。そこに監督が絵のどこに注目しているかが示されるが、これは画集で言えば全体図を載せないので不親切ということになろう。だが、わずか18分の映像作品でゴッホの全画業をまとめようというのであるから、代表作のしかも代表的な部分しか紹介のしようがなく、そうであれば自分がゴッホのどこに感心するかを提示すべきだ。そうしてレネのゴッホ観はこの短編を見る者の胸を打つ。時をおいて二度同じ作品が映し出されるが、紹介される絵は全部で130点ほどだったと思う。1点あたり10秒ほどになるか。その間にカメラが作品を舐め回すように移動する場合が多く、実際の絵の前に立っている気になれる。これは『ゴーギャン』でも同じことを感じたが、白黒画面でふたりの絵を見ると、まるで写真のように写実的だ。あたりまえと言えばそのとおりなのだが、改めて西洋の絵画の根本に気づく。また映像作品としてのレネのこだわった見せ方としては、たとえばゴッホがアルル時代に描いた自分の宿の外観の絵がある。カメラはその全体を捉えながら、次第に絵に接近してひとつの窓を大映しにする。その黒っぽい窓が本当にゴッホの宿泊した部屋かどうかはわからないが、たぶんそうなのだろう。映像を見る者はその窓から部屋の内部に入り込む錯覚に囚われる。すると次に映写されるのはベッドやテーブルを置いた板張りの部屋を描いた有名な作品だ。このように鑑賞者の意識は、芋蔓式に映し出される作品によってゴッホの魂の後を追う。これは秒単位で何をどう映し、またどこで何を語るかを厳密に計算した結果で、18分はゴッホの名画のような凝縮を感じさせる。戦後間もない頃にこうした短編がフランスで撮られたことは当時の日本にどのような衝撃を与えたのであろう。日本がたとえば北斎を取り上げて同様の短編を撮ったことがあるだろうか。芸術を誇る国の違いと言えば異論も出るが、ゴッホやゴーギャンが常識人からは考えられない作家活動を行ない、無名のまま世を去ったことの激しさと尊さを讃えるレネのような監督は日本からは生まれにくい。レネは金になることを思ってこれらの画家を取り上げて短編を撮ったか。『ヴァン・ゴッホ』の最後の場面は有名な麦畑の絵を映しながら、次第にカメラは右端に進み、しかもそこは真っ暗になっていた。つまり、ゴッホは死に向かったことを示しているが、語りでは「栄光を信じて…」といった言葉を用いていた。このゴッホの自信というものを監督は描きたかったのだろう。そして監督にも精神の自由と栄光を信じる思いがあり、それゆえこの短編は傑作となった。
 前二作とは違って『ゲルニカ』では気高い調子はもっと主張される。ピカソが大作「ゲルニカ」を描いて12年経っていたが、レネがナチス・ドイツ軍の無慈悲な行為を戦後改めてこういう形で記録しておこうとしたのは、反ファシズムの思想からだろう。いかにもフランスの知識人であることを思わせる。ピカソは『ゲルニカ』をフランコ政権下のスペインに持って行くことを拒否し、長らくアメリカにあった。レネの描き方はそのことも予期していたかのようで、精神の自由の大切さが謳われている。前半はピカソの青の時代の人物像と次々に映し出し、後半では絵に銃の穴をたくさん穿つなどの映像処理を施して、それまでのピカソの画業を順に紹介するという手法を採らない。ピカソにインタヴューしてこの作品を撮ったとは思えないが、ピカソはまだ生きていたし、また「ゲルニカ」の衝撃が当時まだまだ大きく、レネは同作を中心に紹介しておきたかったのだろう。実際ピカソにとって「ゲルニカ」は代表作になった。それにこれは偶然かもしれないが、白黒で描かれた「ゲルニカ」と同じ白黒フィルムで撮影されたので、生々しさが保たれた。また絵の部分を見せるのは相変わらずで、「ゲルニカ」は画面が巨大でもあるためか、その全体像を映し出すことはなかった。監督が画家についての短編を撮ったのは以上3編だろう。
 次に『世界の全ての記憶』は、フランス国立図書館を紹介するものだ。去年だったか、京都ドイツ文化センターで若手の映像作家が同じ図書館で同じように図書館の機能を紹介するカラーの短編映像を見たことを思い出した。その人はたぶんレネのこの作品を見て、それへのオマージュとして撮ったのではないか。その内容は、閲覧室に5,6人の男女を配置し、彼らを個々に配置してさまざまな角度から撮影したもので、同図書館の機能が別の新しい図書館に移ることを知って企画した作品であったと思う。つまり、レネが撮った時から半世紀少々経って、同図書館は時代遅れのものとなった。インターネット時代になって、物としての本は場所をたくさん占めるという理由で若い世代に敬遠されつつある。レネが撮影したフランス国立図書館は、主に納本制度によって本を集め、またあらゆる雑誌や新聞までも網羅するもので、これは日本の国会図書館も同じだが、本の修理を常時行ない、蔵書は図書カードで検索するなど、とにかく人海戦術で膨大な資料を管理している。そこには分類の思想が欠かせず、そのこともレネは紹介する。新しい本が到着すると、まずその内容を吟味してどの棚に収めるかを判断する。そうしてラベルが貼られ、スタンプが捺され、しかるべき部屋まで運ばれる。それぞれに専門の係がいて、彼らは生涯本の整理に携わる。同図書館全体は本だけではなく、現物資料や手書き原稿、写本もあって、まるで兄弟な迷宮だ。収まったものの、一度も閲覧されないものがある。その一方、ランボーの未発表の詩がたまたま地方の新聞で発見されたことを例に挙げ、いつ日の目を見るかわからない貴重な資料が埋もれているから、資料収集を欠かすことは出来ないという。そうなるといずれ物理的に収納不可能になるから、電子的に管理しようという動きになったが、レネがこの短編を撮った時はまだそこまで至っていなかった。数値は忘れたが、本棚ののべ距離が紹介されていた。それは全部を流して眺めるだけでも不可能なほどで、レネはそうした図書館を無用の長物と思って撮ったかと言えばそうではないだろう。そのようにしてしか管理出来ない人間の記憶というものがあるということだ。レネはきっと図書館好きで、その内部がどのように関連しているかをわかりやすく一般人に改めて紹介したかったに違いない。自分の撮ったフィルムもいずれそのような場所に保管され、閲覧者を待つ。筆者が右京図書館でこのDVDを見つけて鑑賞し、感想をここに書くことは、図書館があればこそだ。レネはそういう出会いを知っていて、そこに夢を見ている。
 最後の『スチレンの詩』はプラスティック製品がどのようにして生まれて来るかを原材料に遡って紹介するもので、小中学校の理科の授業に見せるとよい。レネは映像を美しく見せることによってこのプラスティックという新しい可塑剤を讃えている。そのことは冒頭に映し出される柔らかい透明なプラスティックの花の数本からただちにわかる。今ではプラスティックは安物の代名詞で、しかもなかなか風化しないし、動物が食べて被害を受けるので、環境保護の面からは癪に障る厄介物扱いだが、1958年当時はまだそうではなかった。その後60年代後半あたりから日本でも急速にプラスティックの成型が盛んになり、もはや詩的なイメージを思い描くことが困難になったが、何でも度が過ぎるとよくないということだ。プラスティック製品は細かいチップを染料で色づけし、それを雌の金属型の内部に射出することですぐに型から取り出せる。射出機械は大型で、金網の扉を人間が開けることで射出のスイッチが切れる仕組みになっている。扉を開けて出来たばかりの製品を取り出し、また扉を閉めると機械がどろどろになった熱いプラスティックの塊を雌型に射出す。そこまではよく知られていることで、レネはその原料のチップスがどうして作られるかを次に報告する。それは化学プラントで石油から作られるが、もうそうなるとどのパイプをどのように原料が通過して反応するかは外側からは見えない。化学プラントは迷路でも極端なそれを思い浮かべればいいが、それを美しいと感じるかどうかは人による。合理的に設計されているはずで、どこにも無駄はないが、内部が見えず、また見えてもまるで手品であるから、美を感じる合間がない。ともかく、複雑な回路を通って手品のようにプラスティックの原料が出来上がる。ではその石油がどうして作られるのか。レネはそれにはいくつかの意見があるがどれが正しいかわからないとして映像を終える。今なおこの映像のとおりであって、冒頭に映し出された、ゆっくり頭をもたげるカラフルで透き通ったプラスティックの花は、本物の花が謎めいているのと同じように詩的なものに思えて来る。自然界にはそのままの形ではなかったプラスティックだが、その根源は自然に由来する。化学もまた芸術であるということなのだろう。その化学の恩恵をこうむって映画のフィルムもある。レネの作品は人生前向きの思いをたたえていて楽しい。どういう経緯でこのDVDが右京図書館に入ったか知らないが、誰かが購入を注文したのであれば、そのことに感謝したい。
by uuuzen | 2012-12-18 23:59 | ●その他の映画など
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