誉める理由が最初はわからなかった。見事な紅葉はもともと天気のいい日に日差しを受けて鮮やかに見える場合しか筆者は評価しない。夜桜はわかるが、夜紅葉はライトアップというおおげさな仕掛けを用いる必要があって、ここ20年ほどで目立って来たことに過ぎない。

篝火を焚いて能を舞うといった風情は夜桜のもので、ライトアップの紅葉は味気ない。そのため、10年ほど前に見た高台寺の紅葉のライトアップも感心しなかった。それに懲りたということでもないが、夜の紅葉を楽しむために出かける気が起こらない。それが「朱雀の庭」は初めて聞く場所で、従妹が大絶賛するので見ておこうと思った。2週間ほどもやっているのであれば行かなかったかもしれない。わずか3日でしかも残り2日しかなかったので行くことにした。昨日は朱雀の庭で撮った写真の前半を紹介した。その月が見える月並みなライトアップの様子に、どこが見事なのか首をひねるだろう。ところが庭の後半、つまりピラミッドのように見える玄関とレストランを兼ねた建物に戻る途中で見た光景には驚いた。それを今日は2枚目、つまりすぐ下に載せる。左右に分けて2枚撮ったものをつないだパノラマで、中央にカーヴした細い道があり、その左右は池だ。左右で水位が少し違い、確か写真で見える右側が2、30センチ低かった。そして細かく波打っていた。左は鏡のように静かで、真っ暗な洞穴に見えた。道は奥に向かって少しずつ狭くなり、写真の突き当りの方では30センチほどしかなった。家内はそこを歩くのを恐がった。手をつないで前後に並んでゆっくり歩いた。それでもバランスを崩しそうだ。突き当りは坂を上がって先に歩いた道に通じている。坂を上がってもう一度昨日載せた写真を撮った場所を通過し、そしてまた今日の2枚目の写真を撮った場所に立った。何度見ても、誰もが同じ思いを抱いたはずだ。それは池が真っ暗な夜空を映し込み、そこが底なしの穴に見え、見ているとふっと吸い込まれそうであることだ。夜空は星があれば無限大に遠い距離を感じることが出来るが、では星がない場合は画用紙にべたりと黒を塗ったように平面的に感じるかと言えばそうではない。人間は経験に左右される。真っ暗な夜空であっても、そこに本当は星が本来存在する、つまり果てしない奥行がある空間であるとわかっている。その無意識が池に反射する真っ暗な夜空に反映し、その池が夜空と同じほど奥深い闇に見える。これを家内は恐いと口に出した。

写真に撮るとそのことがわからない。3D写真ならば多少はその立体感は伝わるが、やはり現地に立つことには及ばない。従妹が絶賛したのはこの池に映る紅葉だ。確かに初めての経験で、夢の中の一場面のようだ。誰も声を立てずに池の間の小径を静かに歩いて行く。花見とは全く正反対のその雰囲気が面白い。向かって右の池が小刻みに波立っていた理由は知らないが、左だけでも本当の鏡のように見えたのがよかった。風が強かったり、雨が降っていれば池であることをいやでも意識させられた。24日は満月に近い月が浮かび、風もなかった。池を囲むなだらかな丘は芝生がきれいに刈られてゴルフ場のようだが、池もいかにも人工的だ。それがライトアップには似合っている。こういう人工性は京都の有名な寺社の庭にも当然あるが、長い年月の間にそうした作為が柔らかくなって自然な造作に見える。朱雀の庭は歴史あるそうした庭とは対照的にきわめて殺風景だ。言い代えればよけいなものがない。そのための時間的経済的余裕がないからでもある。その無機質性が、池が鏡のように紅葉を映し込むことに効果を上げている。紅葉のライトアップで有名な高台寺は、単に明るくするのではなく、さまざまな色合いの光源を使い、また光で絵を表現するなど、思い白く見せようと技巧的だ。それが元来技巧的な庭とかえって相殺し合っている。素朴なライトアップでいいではないかと思うが、それでは人を呼べないと考えているのだろう。明日まで開催されている嵐山のライトアップもそうだ。60年代にはやったサイケデリックな色合いと模様を描いたスライドを通して山全体を照らしているので、その人工的な絵模様が山の樹木本来の錦織のごとき斑模様に重なってあまりにごちゃごちゃし過ぎている。その点、朱雀の庭ではオレンジ色の照明を用いるのみで、紅葉の色合いをそのまま夜にも見せようという思いを通している。そしてその紅葉の見事さを池の反射とともに2倍に増やそうとしている。実際は2倍の美しさとは全く別の深い虚無空間が池面に出現し、そこに吸い込まれそうな危うさを覚える。

それはほかのどの庭や公園にもないだろう。だがそれを意図してこの庭が設計されたであろうか。紅葉をライトアップしてこその効果であって、青空の下ではそれはそれで一昨日載せた一休寺の池に反射する紅葉と同じような具合になって恐さを感じないはずだ。恐さを売りにする庭とは思えないが、11月下旬の3日間だけ鑑賞出来るライトアップされる紅葉の売り物は、夢のように恐いこの反射だ。あまり宣伝していないとすれば、人はこの反射紅葉を見た後、必ず細い道を歩くからではないだろうか。前述のようにここは人ひとりがかろうじて歩ける狭さで、大勢押し寄せると必ず池にドボンとはまる人が出る。そうなれば真っ暗でもあり、また寒くもあるので、死者が出るかもしれない。そのため知っている人だけこっそり来てほしいということではないか。池の間の小径は、ライトアップの紅葉が炎に思えるので、二河白道を思い出させた。そして誰もが池に落ちるのではなく、無事に向こう岸の坂を上るというのがよい。ついで書いておくと、坂を上がってすぐにまた下がる道がある。そこを降りると滝が間近に見える。その写真も今日は載せておく。池に映る紅葉を見た後、そのすぐ後ろに設置されていた臨時休憩所で甘酒とぜんざいを買った。このことは先書いた。小さな紙コップに半分しか入れてくれない。毎夜先着200名は無料という。その分をそれ以降の客から回収しようというのだろう。コップに半分であればすぐに元は取れる。100円は安いが、このケチ根性に失望した。一杯飲み屋ではコップや枡から酒を溢れさせて注ぐ。この大盤振る舞いの所作に呑兵衛は微笑む。甘酒とぜんざいはさっぱりおいしくなかった。どこで食べようかとまたバス通り沿いを歩き始めた。京都駅まで出る気がしない。それで大宮通りを北上することにした。そのうち四条大宮だ。そのすぐ手前で新しい中華料理店を見つけた。店内はコンクリートの打ちっ放しで、メニューも多かった。2階は騒々しく、貸し切りのようであった。筆者らが入ると続けて3組の若いカップルが入って来た。みんなお互い顔を合わせない。15分ほど待ってようやく料理が運ばれて来た。飛びっ切りおいしいというのでもないが空腹であるので合格点と感じる。その後近くのスーパーで買い物をして帰った。