弱い日差しだが背中に感じながら歩くのは心地よい。今朝は筆者にすれば早い方だが、朝9時少し過ぎに松尾橋近いコンビニまでメール便を送りに行った。
数年前までならば郵便局で送っていたが宅配業者の方が安い。それで郵便切手にも関心を失った。コンビニに向かう途中、郵便局の手前にスーパーがあり、そのすぐ近くに郵便ポストがあったのがなくなっている。100メートルほど先に郵便局があるのでそれはあまり必要ではなかった。また郵便局にすれば宅配業者のメール便が増えたのであまり利用されないポストは撤去して行くのだろうか。それもあるが、そのポストのすぐ後ろに大きな駐車場がここ2,3週間で出来て、その工事の際に邪魔であったことが大きな理由だと思う。駐車場が出来て風景が一変したが、以前の姿が思い出せない。GOOGLE EARTHで調べるとわかるが、まだしていない。新しいものが出来るとその場所の以前の姿が思い出せないのは、その場所に関心がなかったのでなおさらだが、古いものはどんどん忘れ去られて行くという真実を示している。そんなことを考えながら松尾橋に近い場所まで歩き、発送を済ましてすぐに元来た道を引き返すと、はるか向こうに聳える愛宕山が真っ白になっていた。珍しい景色だ。愛宕山だけなら冬場はそうだが、その周辺の山の裾の方まで白いことはめったにない。今年はもうすでに2月の頃の気候になっているようで、先が思いやられる。そんなことを考えながら背中に太陽が当たってほんのりと暖かい。冬の朝の日差しはいいものだ。家まで15分ほどの間、何だか幸福な気分になった。「こんな気持ちのまま死ねるのならいいな」といった具合だ。だが、そんなことはまずあるまい。死の直前、妙に腹立たしいこともあるだろうし、気分がうまくコントロール出来るかどうかは誰もその間際になってみないことにはわからない。そうであるから、日頃気分よくしていることが何より大切だ。そんな気分よさがめったにない朝の日差しを受けながらの散歩で得られるのであるから、寒いから外出はいやだと思わないで潔く外に出るに限る。どんな状態にあっても楽しむ術があるということだ。この考えを老人になっても保てる人は穏やかな表情になるだろう。
コンビニを往復する間に今日のこのブログの投稿をどうするかも考えた。予定していた写真は明日に回し、今日は違うものを載せる。一休寺で撮ったのは同じだが、一休寺であるかどうかはわからない写真だ。以前路上のプラタナスの葉の写真を載せたので、その続きになるかという思いで撮った。一休寺の参道や枯山水の庭などに、もみじの葉がたくさん落ちていて、それが絵になっていた。この落ち葉をまた早朝に寺の人が掃くはずで、拝観時間が来る頃にはすっかりきれいになっているだろう。「だろう」と書くのは、拝観が始まって以降も葉はどんどん落ちるからだ。落ち葉がそのように絶えず人の手を煩わせるのであれば、最初から植木など必要ないという意見もきっとあるに違いない。それもあって最近の新築の家は木を植えるスペースは駐車場に使われる。車を使えばいつでも好きな遠方に美しい紅葉を見に行ける。庭掃除をする植木は邪魔なだけだ。また、土が見える庭があればムカデが春から秋まで家の中に這い上がって来て、時には睡眠中に襲われる。そんな物騒なことを考えるだけでも土をコンクリートで覆う方がよい。それが現代日本の平均的な人の考えだ。話を戻して、コンビニを往復する間、今日の投稿写真をどうしようかと考えながら、一休寺のあちこちに落ちている葉の上に雪が積もっている様子を想像した。そして11月中に行ってよかったと思った。雪の季節はそれはそれでまたいいのだろうが、一休寺は紅葉の頃がいいことは受付でもらった三つ折りパンフレットの表紙写真からわかる。本堂前を写していて、その両脇は紅葉真っ盛りだ。観光客は紅葉を味わい、その落ち葉を掃除して帰ろうなどと夢にも思わないが、自宅の庭ならば自分で掃除しなくてはならない。コンビニの帰り、筆者は玄関脇に植えている紫陽花の落ち葉を数枚拾った。これを毎日最低3回は行なう。黄色になっている葉は茎にかろうじてくっついているので、葉をもじるのは簡単だが、自然に落ちるのを待つ。そして落ちているのを見つけると拾う。それを面倒と思わない。葉を拾うたびに掃除してきれいになることが味わえるからだ。それは筆者がこれを書く大きな机の上やその周囲、部屋全体が本やCDであまりにも散らかっていて、それらを元の場所に収めることがないからだ。たまに全部収めるがその日のうちにまた何かを引っ張り出す。
昨日の午後、相次いで女性が訪れた。どちらも筆者より年配で、ひとりは福岡市内の大きな禅寺の奥さんだ。その妹が家内の中学からの友人で親しくなった。茶会のために妙心寺や大徳寺などによく来られる。そのついでにわざわざわが家に手土産を持参してくれる。昨日もそうで、手わたしてくれるなり、すぐに帰りますとの言葉で、いつもと同じくとても慌ただしい。それでは申し訳ないので、少し玄関先で話をしたが、それも2,3分だ。いただいた糊の分厚い束を今日は調理した。100枚あるようで、20枚を使った。ま、それはいい。筆者は「お姉さん」と親しく呼ばせてもらっているが、家内から聞くに、大阪万博の際、イラン館にコンパニオンとして詰め、その時イランの高官から求婚されたそうだ。美人で銀行の宣伝のポスターのようなものにも起用された。お姉さんがあっと言う間に姿を消して30分ほどして別の女性が訪れた。先月にも来られたが、自治会内の住居にまた戻って来て住むという報告だ。あまり詳しく書くとまずいが、養老院暮らしがいやで、息子らの言うことにしたがわず、また近所の知った顔の多い家で住みたいのだ。70代だが、筆者好みの顔立ちで、今でもはっとさせる美しさがある。そうそう、岸恵子に似ている。彼女がまた住むことになる家の近所の同世代の女性も同じことを言っていた。筆者が思うところ、彼女と同世代で同じような美人をほかに知らない。筆者が彼女と親しく話をしたのは11月が初めてで、昨日は二度目に過ぎないが、旧知の間柄のように話が弾み、15分ほど対話した。筆者が自治会長をしているので、それを立ててくれているのだろうが、年配者相手に話をするのが好きな筆者を感じてのことと思える。それはいいとして、彼女がまたひとり住まいを始めるとして、息子さんたちは不安が大きいのだろう。彼女の家の前は回覧板の配布物を組長たちに配り歩く際には必ず通るので、今月末か来年1月か知らないが、家の中に電気が灯っているとまた顔を出しますと伝えておいた。話相手になってほしいといったようなことを言われたが、筆者も10数年すれば同じ年齢になり、彼女の孤独がもっとわかるだろう。その時、今の筆者の世代からどのように見られるだろう。冴えない濡れ落ち葉のように無視されないようにしたいのは山々でも、誰からも見向かれない存在になって行くのは自然でもある。そしてごっそりと落ち葉を掃除するように死神が待ちかまえている。あれあれ、これでは箒を持った一休さんの銅像が死神になってしまう。高僧は死ぬ直前に弟子たちに抱えられながら遺言と言ってとい書をしたためる。そのことをひとつ取っても覚悟が違う。修行の賜物で、常に身辺を掃き清め、死の訪れを何とも思っていないのだろう。
今朝9時過ぎのコンビニの帰り、背中に日差しを受けてジョン・デンヴァーの有名な歌を思い出した。あの曲は肩に日差しを受けるという歌詞であった。背中も肩も同じようなものだ。天気のいい日は死に日和というのがアメリカ・インディアンの言葉にある。天気のいい日、ああ気持ちがいいなとしみじみ思える時にふっと死ねば最高だろう。病院のベッドの中に縛りつけられてもがき苦しみながら逝くというのでは、生きて来た意味が全部帳消しのような感じがするが、どっち道死とはそのような人生帳消しの時か。死のことを思うのは理由がある。一昨日ビデオで見た映画だ。それをもう一度最初から昨日の午後に見た。それを見ている間に前述のふたりがやって来た。この映画の感想をどう書けばいいかを今朝も今夜も考えた。来週中には書きたいが、ほかに書くことも多いのでどうなるかわからない。ひとつ書いておくと、その映画は後味がよくなかった。自殺者を描いているからだ。当然恨みや無常が原因だが、それが原因で死ぬと死因が何であれ、成仏しないのではないか。アメリカ・インディアンの「死ぬのに最適の日和」という言葉は、天気のよい日に自殺するというのではない。自殺以外の死ではどういう日や時刻、またどういう心の状態で死ぬかは誰にもわからない。自殺がすべて深い怨念が理由になっているとは言えず、天気が本当に素晴らしいからこそ死ぬという人もあるだろう。どうせ死ぬのであるから、そんな日を選びたいという思いはわかる。それは人生に失望したというのではなく、もう充分生きたので、今以上に高揚した気分になれることもあるまいという思いだ。それを好天がもたらすことはあり得る。好天が幸福感を生むのは今朝背中に弱い日差しを感じたことからも明らかで、そんなよい天気を心に思い描くだけでも幸福な気持ちになれる。ただし、差し当たって大きな問題を心に抱えていないからだ。人間の心は天気のようにころころ変わる。
さて今日は写真の枚数からもう一段落書かねばならない。話を続ける。先日書いたが、腹立たしいことがあった。修行がまだまだ足りない凡夫だ。これも自治会内のことなのであまり詳しく書くとまずいが、ま、やってみよう。自治会は、組長は14名いるが、13の組に分かれる。組長は筆者が毎日のように配り歩くチラシを組内に回覧させたり、また各種募金のために各世帯を訪問してもらう。そのほかにも用事はいろいろとある。12月末までは赤い羽の共同募金の季節だが、わが自治連合会は11月末を集金の期日と定めている。毎年筆者は各組長に11月末までに集金してほしいと文書で伝える。12月1日に担当者に持参するのだ。本来は11月末だが、11月28や29日とすると組長が勘違いしやすいと考え、11月末の夜までとする。集金期間はおよそ1か月半ある。その気になれば1日で集金出来るから、そのような長い期間は不要と思うが、組長の中には勤め人もいる。そうした人は土曜か日曜日しか集められない。それでもせいぜい10軒ほどを回るだけで、1か月半あれば充分だ。ところが毎年2,3の組が最終日かその前日になる。それはいいのだが、いくら遅くても最終日の夜には持参してもらわねばならない。筆者の家が遠いと感じる人もあるので、副会長か会計の家でもよい。そのことは文書に記してある。その文書は年配者が眼鏡なしでも読めるようにと大きなフォントを使って太字で印刷している。今年は初めてひとりの組長が最終日についに持参しなかった。昼頃から電話をかけ始めた。50代と思うが、女性の教育者だ。夜9時頃までに10回はかけたが、留守だ。仕方がないので寒い中を歩いて家の扉に手書きの紙を貼りに行った。12月1日、朝玄関を見ると、残りの赤い羽や書類と1枚のメモが入っていた。集金した4000円は入っていない。副会長や会計宅に持参された募金はみな筆者のもとに集まるが、いつも現金を入れた封筒が書類とともに投げ込まれる。それで問題が生じたことはない。12月1日もそうであればよかったが、お金が入っていなかった。入れた入れないで後でトラブルになることを思ったのだろう。メモにはそのようなことが書かれていた。すぐに電話するとまたもや留守。家に行ってもおらず。その日は連合会の担当者に持参せねばならない。そこで会計まで行って4000円を自治会で立て替えてもらい、それでようやく担当者に全組の分6万円強を持って行った。すぐに各組の募金額と担当者から受け取った領収証のコピーを全組長に文書で知らせた。筆者はやることがまことに早い。ひとりの組長だけにはメモを挟んだ。「自治会で立て替えでいますので会計まで御持参ください」すぐに持参してもらえると思っていたが、甘かった。今朝はまた貼り紙をしてやろうと思って、今度は毛筆で書いた。メモと同じ文面だ。その前に会計に訊ねに行った。すると笑顔で「持って来た」と言う。その場で貼り紙をくしゃくしゃにして筆者の顔もほころんだ。その足で松尾橋近くのコンビニに向かい、天気のよさから心が温まった。