拝観受付の小屋は参道の突き当り右にあった。そこまでは無料であるから、地元の人たちは紅葉を楽しむことが出来る。というのは、この参道の両脇から覆いかぶさる楓が見事で、紅葉だけを味わいたいのであれば受付から引き返してもよい。
実際そういう人もいるだろう。拝観料は500円だ。これが高いと思う人は庭や建物、美術品に興味がないからだが、遠方に住むのであれば今後一生見ないかもしれず、中に入ってみるべきだ。幹事をした従妹は、拝観に1時間かかると言った。それが少々意外であったのは、田舎にそんな大きな寺があるのかと思ったからだが、昨日書いたように京都の大徳寺級と言えばいいか、見るべきものが多い。実際1時間ほどかかったが、筆者にすればざっと見たという感じで、ひとりならば倍とは言わないまでももう少し時間をかけた。見るべきものとは前述の庭や建物、美術品だ。それ以外に、鄙びた山際といった場所に位置するのが京都市内とはまた違った趣があってよかった。この寺の北西部は山を切り開いて出来たニュー・タウンで、筆者が住む西京区で言えば洛西ニュータウンのような場所だ。実際はそこを見ていないが、寺に向かう途中、その新しい町に向かう道標が見えた。京田辺市は京都市内の大学が次々と新校舎を建て、半ばは学生の町になった。ところが大学生はせっかくの京都の大学に入ったのに、京都市内ではなくそこからかなり外れた田舎で学ぶ現実に失望し、すこぶる評判が悪いと聞いた。そうでなくても学生数は減少の一途だ。魅力ある大学をアピールするにはやはり京都市内で学んでもらわねばならないということになって、一部はまた京都市内に引っ越したという話も聞いた。人口が減るのに大学は増える一方だ。よほど大学は商売の中でも安定して儲けることが出来る。先月だったか、来年度の開校を大臣によって一転中止された三つの大学の学長が憮然とした顔でTVに出て抗議していた。それを見た大臣は情けないことに、すぐに思いを翻し、認可した。それはどうでもいい。興味深かったのは、3人の学長の中にえらくやつしたのがいたことだ。似た感じの男はたまに見かける。筆者が最も嫌いなタイプで、TVに映るその男はいかがわしい商売人に見えた。大学は学者では運営出来ない。商法に長けた人物でないことには宣伝が行き届かず、名物先生も集まらない。大学はとっくの昔に遊園地と同じ存在になっている。大学が認可されないならば、遊園地かラヴ・ホテルでも経営しようかと考えている人物が多いだろう。いや、何より儲かるし、また尊敬もされると思っているはずで、大学経営の方がいいに決まっている。ともかく、TVでその男の表情を見ながら、筆者は今まで世間をうまく泳いで来て最後は大学経営でそれなりの名誉もほしがっている俗物を感じた。そんな大学を出ても先は知れている。
京田辺市は大学誘致のために必死であったのだろう。市と大学の利害が一致して、大学の1,2年生は京田辺市で学ばせる案にまとまった。大学生は大卒の箔づけのために親の脛をかじるが、大学は親やその子を実にうまく洗脳していて、いい大学を出なければいい会社に就職出来ず、人生真っ暗だと暗示にかける。大学を出たという自惚れは人一倍強いが、ろくに小学生程度の漢字を知らず、割り算も出来ないようなのがごろごろいる。そういう連中でもそれなりに世の中をうまくわたって行くのは、世間が表向き馬鹿主義中心で回っているからだ。賢いのがたくさんいると会社は経営がやりにくくて仕方がない。会社の方針にしたがって黙って働いてくれる方がありがたい。代わりはいくらでもいる。賢いかずる賢いのか、とにかく一握りの人物が人を動かす。そう連中は世知に長けているだけで、大学で学んだことなど99パーセント以上も覚えていない。であるから大学の先生も気楽なものだ。気を使うのは専任の講師に対してだけだ。非常勤などいくらでも代わりがいるから、腹が立ってもじっと我慢だ。この世で代わりが出来ない存在はもはやない。個性が大切などと言いながら、そんなものが強烈にあってもらっては集団は壊れかねない。集団は玉ねぎの皮のように何重にも個人を覆っている。頑丈なそれから弾き出される定年になって、なおかつての肩書を自慢したがる人もある。それほどに個人よりも組織を重視する社会ということだが、女性はまた考えが違うだろう。これはある人から昔聞いた話だが、その人には息子がひとりいる。そこそこ有名な大学を出て立派な企業に入った。父親は職人で、腕一本で生きて来た。息子が会社を自慢するのでその人は言ってやったそうだ。「お前が自慢出来るのは会社であってお前の才能ではない。そこを勘違いするな。」息子は父親をそれなりに尊敬していたから、数年後に会社を辞め、自分で会社を作った。収入は以前より減ったが、やり甲斐はある。この話は、結局は中卒の無学な職人の子はいくら勉強してもやがては父親と同じように独立独歩で生きて行くことを示しているのかもしれない。さて、その父親とはよく話をしたが、大の宗教家嫌いであった。それが筆者と話すうちにそれなりに関心を持つようになったが、その頃にもう会わなくなった。それはいいのだが、その人が宗教に矛盾を感じるあまり、偉大とされている僧侶のことを知るための行動を起こさず、単なる偏見で物事を言っていることにさびしさを覚えた。だが、それは無理な注文というべきだろう。それだけの関心を起こして学ぶという気力がない。時間がないのではない。時間はあり過ぎるほどにある。新たな趣味にそれなりに挑戦して来た人だが、学問と言えばおおげさになるが、読書で知識を積み上げる習慣を形成して来なかった。そこに中卒の限界があると言いたいのでない。その人は今の大卒よりよほど賢い。だが、一方では偏見も大きい。
何事も自分から進んで覚醒しなければ得られない。死んだ友人Nは全く美術に関心がなかった。ある酒の席でダダイズムの話が出た。それをいくらわかりやすく説明してもさっぱり理解出来なかった。ましてやダダが禅などと言うと急に話を変えたであろう。ところがNのような人は大学の教授クラスでも大量にいるはずで、専門馬鹿と呼ばれる人が学者だ。実際はそういう人はその専門も怪しいものだ。柔軟な考えが出来ないので専門領域のしかももっと狭い蛸壺の中に安住しながら、さも自分が歴史に残る大物と勘違いしている。話が急に変わるが、筆者は2,3年前まで池大雅の絵のよさがさっぱりわからなかった。ところがある日驚く体験があった。ネット・オークションで横幅の風景画を一幅見かけた。贋作であったと思うが、とても珍しい絵で、雑木林を描いた水墨画の小品だ。頭の中に稲妻が光った。どう見ても大正時代の絵で、おそらく贋作だろう。だが、面白いのはなぜそんな絵を贋作したかだ。それは池大雅の絵に近代的なものを認めていたからだ。100や200年ほど先を行っていたということだ。大雅の大きな評価はそこにある。またその贋作らしき作品が真作とすればさらに驚くべきことで、そのような新しい感覚の絵を18世紀半ばに描いていたことは信じ難い。その作品から大雅を見る目が変わった。すると、今までに見えなかったものが少しずつ見えるようになって来た。味がわかるようになって来たと言い換えてよい。絵も素晴らしいが字がよい。そこに見られる大きさは尋常ではない。大雅は有名を気取る人物では全くなく、かなりの目下からあれこれ注文されても素直にそれにしたがって描いたという。筆者が大雅の作品をまとめて見た最初は32,3年前のことだ。その後も何度か展覧会を見ているし、西京区の苔寺近くの大雅美術館には二度行ったことがある。何度見てもさっぱりよさがわからなかった。それがいよいよこの年齢になって心に大雅の絵が浮かぶようになった。それはあちこち寄り道したからだ。このように、物事は積み重ねが大切だ。ある日誰かから詳しい説明を受けたからと言ってすっかり理解出来ることは少ない。大事なことは能動性だ。その能動性が長年職人仕事をして来て、さっぱり自分の関心事以外には目を寄せなかったのでは、発動するはずがない。だが、それでも当人がそれで幸福と思えばいいし、「何くそ、少しでも理解してやろう」とばかりに読書からでも始めるのであればそれもよいだけの話で、他人が偏見に凝り固まっていようが、筆者はどうでもよい。そういう人からは距離を置くだけのことだ。
一休は目がくりくりした小坊主としてアニメで昔から有名だが、大人になると一休の風貌がそのアニメとは似ても似つかないことを知って少し複雑な気持ちになる。いや、真実の一休の姿が直観でわかるようになって晴れ晴れとした思いだ。最晩年の一休は盲目の尼僧と交わり、その淫水を吸ってどうのこうのといった詩を残していることもたいていの人なら知るが、そのトンデモ度が一休の場合はみな納得出来てしまうところが凄い。この一休のことを先の知り合いの職人に話すと、それこそ現代のクソ坊主の走りだと思ってなおさら宗教嫌いになるだろうが、物事は表面だけを見てはならない。「なぜか」という疑問を湧き起こしたのであれば、内部を調べるに限る。そう言いながら筆者は一休のいくつか残されている肖像と書を見比べながら、恐れおののくことしか出来ないが、型破りな生き方をした一休が現代の大方の人に理解出来ないのがあたりまえで、ただ畏怖すればいいのではないか。今はそれすらもない人ばかりが増えた。畏怖するのは大金持ちに対してだけかもしれない。何が凄くてそうでないかの基準すらさっぱり理解出来ない人が大手を振っているが、一休が生きた時代も案外事情は変わらなかったかもしれない。それはそうだろう。大卒が9割を超える学問社会になったと思うのは大きな間違いで、大学の程度が限りなく落ちて、一休時代よりかえって人間の質が悪くなっていると思った方がよい。一休寺と関係のない話ばかりに終始している。写真について書くと、最初の1枚は昨日の最後の写真の続きだ。参道が駐車場の塀と平行に真っ直ぐ続いている。これが実に味わい深い。この参道を歩くだけでもここを訪れた価値がある。受付を右に曲がるとまた同じような道がある。これが2枚目の写真だ。その道をしばらく行くと左手に中門が口を開け、少し下り坂になった庭がある。唐門に通じるが、そこを入ると靴を脱いで上がる本堂に至る廊下だ。その最初に虎を描いた水墨の衝立がある。それが3枚目の写真だ。そのすぐ向こうは囲炉裏部屋で、隣りが薄暗い喫茶室になっていて、2,3の若いカップルが入っていた。また靴を脱いだ場所の左にはかまどが2,3見えたので、昔は台所であったのだろう。衝立のすぐ左は小さくて暗い売店で、女性ふたりが一休寺納豆を薦めていた。一粒は無料で、それを頬張った。ほとんど売れていないようだ。京都に住んでいるとこの納豆は珍しくない。子ども用に一休さんのアニメ・グッズがあった。親子連れが来れば売れるのだろうか。今もアニメを放送していればの話か。衝立を正面に見てすぐ右を見ると、狩野探幽が描いた方丈の障壁画をインク・ジェット・プリントで復元したその配置図のパネルがあった。障壁画の復元を収めたことには数年前にTVで特集された。アメリカであったろうか、流出先で写真に撮り、原寸大に複製して方丈に収めたのだ。印刷とはいえ、元あった場所に障壁画が蘇るのは好ましい。その小さなパネルの奥、方丈前に見事な庭が見えた。それを下に載せる。