貫禄は出そうと思って出るものか。そのようにしているうちにそれが板につくこともあるだろう。貫禄とは無縁であることを自覚する筆者は、貫禄があるかのように見せることもしない。
中年になってでっぷり太る人はそれだけでも貫禄があるように見えるであろうから、痩せ型の筆者は貫禄が縁遠い。また貫禄があったところで何が得かと思う。貫禄を出そうと思ってあまり笑わず、さぞ威厳があるかのような態度で接する若い人がたまにあるが、貫禄ということを勘違いしている。先日取り上げた映画『夕なぎ』で20世紀で最も偉大と思われている男優のことを書いた。ジャン・ギャバンで、彼の代表作ではないかもしれないが、『夕なぎ』と一緒に借りて来たのが『レ・ミゼラブル』であった。この映画、淀川長治の日曜洋画劇場で昔見た。それで借りるのをよそうかと思ったが、ジャン・ギャバンの姿を見たいので借りた。どういう内容であったかはおぼろげに覚えていたが、改めて見ると改めて感動した。3時間の長編で間に休憩が入る。同じような映画に『ドクトル・ジバゴ』があった。それもまた見たいが、右京図書館にはないようだ。それはさておき、ビデオテープを見るためには2階の寝室に置いている14型のブラウン管TVを使えばよいが、大きな画面に慣れてしまったので、14型はあまり見る気がしない。そこでビデオデッキがほしいとここ半年ほど思い続け、先日ようやく中古を買った。これでまだ見ていないビデオの映画を楽しむことが出来る。筆者はCDでもそうだが、買ってもすぐに鑑賞しないことが多い。時には10年以上もそのままになる。忘れてしまったのではなく、ずっと覚えていて、いずれ見ようと思っている。ビデオデッキを買ったので、見ていないビデオをこれからは少しずつ消化して行く。今時ビデオテープで映画を見る人は少数派のはずだが、ビデオでしか入手出来ない作品はまだまだ多いのではないだろうか。またDVD化されていても映像がビデオ並みに粗い場合がよくある。『レ・ミゼラブル』もそうであった。褪色はさほど進んでいないが、それでも本当はもっと美しい色合いではないかと思わせられた。映像の質に難があったが、映画としての面白さがそれを大いに上回っている。図書館にDVDを返却した日に気づいたが、同じ作品のリマスター版と言ってよいものが棚にあった。先に見つければそっちを借りたが、映像が美しくなっているだけでもう一度借りる気はしなかった。図書館がそのDVDを購入したのはリクエストが多かったからで、よほどこの映画に感動する人がいると見える。
小説は分厚いのがたぶん2冊だと思う。文学全集としてのものを所有するが、昔買ったままで読んでいない。この映画を改めて見たからには小説を繙くのもいいが、分厚い本を2冊じっくりと読む時間がない。いや、時間は作るもので、読む気がないと言うべきだ。長編と言えば、筆者はまだまだ読んでいない名作の長編がたくさんある。また昔読んだものでも今読むとまた感動は違いはずで、昔読んだことは忘れた方がいい。それはともかく、名作とされる小説の映画化は昔はよくあった。その傾向がひととおり終わったので今はリメイクが盛んであると思うが、新作小説の映画化も一方ではある。だが、それらは名作と呼ばれるにはまだまだ時期尚早で、そのために映画も薄っぺらなものになりやすい。かといって古典小説の映画化は過去にさんざん行なわれていて、今やるとなるとロケ地に不自由したりで、やはり薄っぺらなものになる。ということは、画面のきめ細かさはデジタル時代の今のようには期待出来ないが、圧倒的な迫力を持つ60年代以前の映画に頼るほかないと言える。『レ・ミゼラブル』はそのような映画の一作だ。この映画を原作と比較してどうのと言うことは原作を読んでいない筆者に許されない。だが、小説と映画は別物であるから、比較はしない方がよい。違ってあたりまえで、小説の読み手と同じ数だけの映画が作られ得る。であるからこの映画は監督が解釈した原作の世界を描いているのであって、小説家のヴィクトル・ユーゴーの思いを捻じ曲げていると思わない方がよい。3時間は映画としては長いが、巨大な長編小説であるから30時間でも足りないだろう。それをわすか3時間にまとめるのであるから小説の数パーセントしか世界を描くことは出来ない。だがこれは小説に比べて映画が劣るという意味ではない。小説は小説、映画は映画で比較すべきでなく、この映画が面白ければそれでよい。だが、映画の面白さは見方がいろいろだ。ひとつには俳優の演技に負う。また何よりもストーリーがいいかどうかだ。後者は原作の小説の流れを守りながら、どこをどう削ってつなぐかという問題があるが、筆者がこの映画で面白いと思った点は、登場人物をかなり無理やり絡ませている強引さだ。それはほとんど韓国ドラマと同じで、韓国ドラマはこうした小説の古典に多く学び、それを基本的な約束事としている。それは古臭いながら、古典的手法であって、あまり外れのない人気を得ることは出来る。その万人受けを狙う点が面白くないとも言えるが、その観点に立てばこの『レ・ミゼラブル』も面白くない。実際そのようにフランスの若い映画監督は思って、この映画とは全然違う趣の作品を撮ろうとした。それがヌーヴェル・ヴァーグだ。その新しい映画の波が登場して半世紀以上経ったが、韓国ドラマは現在のところまだこの映画の古典的手法を厳守している状態で、それが今後ヌーヴェル・ヴァーグが生まれるかどうかが見物だ。筆者はその可能性には否定的だ。連続TVドラマという制約が大きいからだ。それでヌーヴェル・ヴァーグは映画で大いに実験されているはずと思う。
この映画の主人公ジャン・バルジャンは1個のパンを盗んだ罪で投獄され、途中で二度の脱走を図ったことによって合計19年も服役した。映画の冒頭では服役時代がほんの少し描かれる。囚人たちは意味のない労苦をさせられ、また看守の思いひとつで刑を延長される無慈悲さが横行している。火薬で岩山を崩す作業をしている時、囚人が岩の下敷きになる。それを見たバルジャンはてこの原理で岩を起こし、囚人を助けるが、看守は勝手な行動をしたといちゃもんをつける始末で、さらに刑期が延ばす。そのとんでもない看守は息子ジャベールに対してバルジャンは人間の屑といったようなことを言うが、ジャベールは成長して警部になる。この映画ではこの男は最も憎まれ役を演じる。警察は正義の味方を自認しているが、ジャベールの父がバルジャンにどのようないわれのない罪を被せたかを見れば、ヴィクトル・ユーゴーはパンを1個盗んだバルジャンよりも市民を取り締まる警察の方こそが悪と思っている様子が伝わる。だが、いつの時代でもベジャールのような法律に忠実な犬のような人間は必要だ。ベジャール自身もそのことを露とも疑っていない。罪は罪、罰は罰で、法を犯したした者はその報いを受けねばならない。その建前のもと、自分は仕事を忠実にこなしているだけであると思っている。だが、そういう人物は自分こそが正義と思い込む落とし穴に気づかない。法は大切だが、それは人間が作ったもので、まずは人間ありきだ。人間がいなくて法だけが存在することがあり得るか。法は人間がどうにでも作り変えられる。融通の利くものだ。ところが警察はそうは思わない。そのためジャベールはバルジャンのことをどこまで疑う。一度投獄された者は生涯悪いことをすると思っている。自分の父親がパンを1個盗むことに比べるとはるかに重い罪を犯していることを自覚しない。ジャベールはバルジャンが服役を終えて出所した時、ちょっとしたことで少年の小銭を取ったことを知り、バルジャンをどこまでも執拗に追いかける。これがこの映画のひとつの見どころになっている。ジャベールの行動は憎らしい限りだが、どこか憎めない哀れなところがある。それは父の育て方が間違っていたことだ。ジャベールはそのことをバルジャンを追い詰めるにしたがってやがて悟る。そして悟った時に人生に絶望する。今までの自分は何をしていたのかという無力感だ。悔い改めて別の生き方をするほどの力もなく、自殺する。そのことでジャベールにも人間らしさが残っていたことが示される。彼は悪人ではなかったのだ。
この映画は根っからの悪人が登場しない。バルジャン自身がパンを盗んで19年も牢獄にいたのであるから、悪人を主役に据えた映画だ。この映画の最大の見どころは、人を信じられなくなったバルジャンが人間愛に目覚め、よき行ないをして生涯をまっとうすることだ。それはひとりのミリエル司教との出会いによる。この点この映画はキリスト教を頂点に持っていて、日本では考えにくいかもしれない。出所したバルジャンは服役中のわずかな賃金を手にして当てもなく放浪し、ある日教会に一泊を乞う。そして翌朝銀の食器類を頭陀袋に入れて持ち去る。たちまち警察に見つかるが、バルジャンはもらったものと嘘をつく。その言葉を聞いて司教はなぜ一対の銀の燭台も持って行かなかったのかとバルジャンに言い、それも持たせる。司教は教会を病院に改造し、自分はごく慎ましい小さな家に住んでいる。全くの無欲で慈悲深い司教との出会いはバルジャンにとっては信じ難いものであったが、この出会いによって生き方を変える。モントルメイユ・シュル・メールという町に行き、そこで黒玉の製法術を伝えて商売が繁盛し、たちまち大金持ち、しかも市長に上りつめる。黒玉は何のことだろう。映画ではこれが登場しなかった。原作を読まねばわからない。この物語は19世紀初頭から始まるが、フランスはワーテルローの戦いの兵士の生き残りが王党派と対立していた。この王家打倒の狼煙が市民から沸き上がる様子が映画の後半で描かれる。その部分は直接的にはジャン・バルジャンは関係しない。政治がどうであれ、彼は愛する者を守り、弱い者を助ける立場を取る。それは服役中に事故で死にそうになっている囚人を助けた時に示された態度だが、司教との出会いによって人間愛にさらに目覚めた。この小説や映画が一番言いたいことはそのことだ。だが、愛よりも金に目が行く人間もいつの時代にもいる。その代表としてこの映画ではテナルディエという男が登場する。調子がよく、平気で嘘をついて金を持っている者からそれを奪うことだけを考えている。そういう人間にはありがちだが、いつも金欠状態にある。彼はワーテルローの戦いでは軍曹であったとの触れ込みだが、映画でも描かれるように瀕死の兵士の懐から金を奪うありさまで、とことん金の亡者だ。だが、しぶとく生き抜き、この映画では死なずに相変わらず同じ生き方を貫く。それはどこか憎めないところがある。ヴィクトル・ユーゴーはそういう男の人生を肯定はしていないだろうが、人間とはそういう面も持ち合わせている現実を描いておきたかった。ジャベールのような権力を持たないごく普通の市民だ。そういう人間が真面目に働いても食うに困る時代であった。そのため機会があれば金持ちからたんまりとせしめるという気になっても仕方のないところはある。瀕死の兵士から金を奪うことは罪だが、死者は金を天国に持って行くことは出来ない。誰かがそれをするはずで、ならば罪とは言えない行為だろう。
テナルディエは宿屋を経営していて、ワーテルローで戦ったことが自慢で、看板は瀕死の大佐を助けている様子を描いた板絵だ。その宿にひとりの女が幼ない娘と一緒に投宿する。宿の前でブランコに乗ったふたりの女の子を認めたからで、そこならわが娘を預かってもらえると思ったのだ。女はファンティーヌ、娘はコゼットだ。ファンティーヌは宿代を払えば残り金が少ない。子を預けたままやがて病死してしまう。薄幸な女で、売れるものは何でも売ってしまい、前歯もない状態だ。当時は入れ歯を作るために貧しい女は歯を抜いて売ったりした。この映画では歯を抜いていることを示すためにファンティーヌの歯はおはぐろを塗ったように黒く映る。昨夜の投稿の最後に歯について書いたのは、今日のこの投稿の予告のつもりであった。さて、案の定コゼットはひどくこき使われ、宿屋の娘たちとは大きく差別される。少女漫画がこの設定をよく利用したであろう。やがてこの宿にバルジャンがやって来る。出所後に少年から小銭を1個奪った罪によってベジャールが追っていることを察知し、市長の座を捨てたのだ。そして宿でコゼットを見かけて養女として育てるためにテナルディエから買い取る。その後尼僧の力添えでパリの修道院に行き、コゼットをそこで育ててもらいながら、自分は庭師として生活する。そこにもやがてジャベールは追って来る。また食い詰めたテナルディエ一家もパリの安アパートで生活している。ふたりの娘は大人になっているが、コゼットとは違って貧しい身なりで、食うや食わずの状態だ。この生活の逆転が面白い。パリでもまたバルジャンはテナルディエと出会う。ここらあたりがいかに世間が狭いとはいえ、話がうまく出来過ぎている。限られた登場人物でいかに複雑で面白い物語を組み立てるかとなるとこうするほかない。この非現実性、御つごう主義的な出会いがヌーヴェル・ヴァーグには容認出来ない。それはいいとして、ふたりの娘は父のがめつさとはちがって純粋な愛を持つ。ここがまた面白い。子は両親に似て金しか頭にないというようにはユーゴーは描かない。ここでハシシタの奴という記事を思い出す。人間は単純ではないのだ。それを自覚しない馬鹿はいつの時代にもいる。大天才はおそらく名家からは生まれない。最下層の貧民の中からこそ生まれるだろう。テナルディエの娘は隣の部屋に住む若い男性のマリユスを愛するが、彼は毎週公園にバルジャンと連れ立ってやって来るコゼットに夢中になる。このふたりはやがて結婚するが、その後バルジャンは外国に住むと言い残しながら、パリに留まる。自分がかつて囚人であったことをマリユスの手前、遠慮したのだ。死の床が近い頃、ようやくマリユスはかつてフィリップ王打倒のパリ市街戦争で重傷を負った自分を助けたのがバルジャンであることを知り、コゼットとともに家にやって来る。バルジャンは懸命に生きて来たことを話す。コゼットとマリユスは絵に描いたような品のよい若い夫婦で、映画では味気ない人物に見える。こういうふたりが主人公では小説も面白くない。この映画の中心は、逞しいバルジャンが司教の温かい手の差し伸べによって他者を救うことに目覚め、そのように人生をまっとうしたところだ。司教からもらった2本の燭台は人生の最後まで手放すことはなかった。それを暖炉の上に並べるバルジャンの姿は愛の光を自分が引き受けたという覚悟が見えて頼もしい。昨日の最初に書いたように、それた託されたことなのだ。そしてバルジャンの愛が誰に託されるかというのが、この小説の言いたいことだろう。何度リメイクされてミュージカルも有名だが、ジャン・ギャバン以外の姿を想像することは筆者には難しい。彼ほどの貫禄を自然に見せる俳優をほかに知らない。