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●食堂での食事と図書館での講座
連日夢を見る。それでまたこのカテゴリーに書くことになる。昨日ほどには広々とした風景が現われなかったが、場面をよく記憶しているので書いておくことにする。



昨夜は久しぶりに息子を大いに叱って、かなり血圧が上がった気がする。22歳になる息子が親の言うことを聞かなくて困るが、思いどおりにならないのは夢も同じだ。王様でもいい夢ばかりを見ることは出来ないし、夢は現実よりははるかに平等な世界ではないかと思う。人は現実が辛くても、眠っている間だけは開放される。王様も同じように眠る必要があるから、人間は生きている間の3分の1の時間は平等だ。現実においてあまりいい生活をしていなければ、楽しい夢を見る度合いも少ないと考えることは出来るが、必ずしもそうとは言えないだろう。夢は現実生活の満足感とは関係なく物語が構成されるように思う。ブログに現実の出来事を日記風に書くことは誰しもやることだが、そこに眠っている間の夢も記録することによって、自分の中の意識と無意識がバランスを取って概観出来る。この夢千夜日記も20回近いはずだが、これが200回ほどになれば、もっと何かが見えて来るかもしれない。そんな回数になるまでこのブログを続けているかどうかわからないが、他のカテゴリーとは違って、ここに何かを書く時は特別の思いがある。それは美術展覧会や映画に関する感想とは違って、自分の中にある個人的なイメージを文字に変換することであって、論理的に考えることではないから楽であるということのほかに、一種の創作という気がするからだ。夢は出鱈目な物語であるから、それをそのまま文字にすることは創作とは言えないが、実際に見た夢は白昼に頭を絞って考え出そうとする物語とは比較にならないほど突飛で、それでいて作りものめいたわざとらしさがない。少なくとも筆者は夢で見たことを加工しないで、伝えられるものはそのまま伝えているつもりで、そこに嘘は混ぜていない。そのため、出鱈目ではあるが真実でもあって、それは出鱈目ではないが真実とは思えないものよりはるかにましな何かではないかと思う。それで、夢を文字で描写することは、他の文章を綴ることとは違い、妙なわくわく感がある。しかも、長くても丸1日も経てば自分でも忘れてしまうものであるだけに、見た日に確実に書かなければならないという切迫感があり、それが夢を書き終えた時に充実感とでも言うべきものをもたらしてくれる。

友人Nと一緒だ。会うのは久しぶり。Nはにこやかだ。会ってすぐにNは食事に行こうと言う。そして即座に早足で歩き始める。目指すは、会った場所の通り向かいにある間口が1軒半ほどの小さな喫茶店だ。扉はガラスをはめた木枠で、それが山吹色に塗られている。扉の前にメニューを書いた小さな黒板がイーゼルに立てかけてある。それを若い女が少し位置を直したりしている。ところが、その女は目覚めたばかりの顔で、化粧はせず髪も乱れ、白いパンティやブラジャー姿のままだ。表通りでそんなあられもない格好をしていることに唖然とするが、こっちの様子を察したのか、億劫そうにスカートを履き始める。すると、オーナーらしい年上の女性が出勤して来たのか、その女性の左から現われて耳元で厳しい表情で注意する。その女性はさっさと扉を開けて中に消える。その後一息置いて筆者たちも中に入る。喫茶店とばかり思っていたが、中は奥行きのある大衆食堂だ。熱気でむんむんしている。早朝のためか、サラリーマンらしい男の客で満員で、中の空間は蒸気や煙がかすんであまりよく見えない。それに騒々しい。入って中ほどの右壁際のテーブルに座る。テーブルはアルミだ。壁も同じ銀色のアルミ製で、椅子も天井も部屋の中もの全部がそのようだ。そのため、給食を調理するような炊事場の雰囲気がある。テーブルはふたり用の小さなもので、短い辺が壁に接している。そこに窮屈そうにふたりは座る。早速Nは何やら注文し、そしてトイレに行くと言って姿を消す。しばらくそのまま待っていると、若い男のウェイターが中華定食のような料理をひとり分持って来て、向かい側のNの席に置く。筆者の分は一体何を頼んだのだろうと思っていると、Nが戻って来る。筆者の分がないことに呆れ、改めてウェイターを呼びつける。するとすぐに料理が運ばれて来るが、同じ中華定食かと思っていると、中華の単品料理の大きな皿が3つだ。テーブルが小さいので全部が置けない。これでは困ると思うと、Nは場所を変えようと言う。料理をそのままにして支払いもせずに表に出る。すぐに筆者はある展覧会の招待券を持っているので、それを後で一緒に見ようと提案する。Nは否定しない。展覧会は心斎橋の百貨店のようなところで開催されていて、同じ大阪にいるのだから、後で地下鉄で行けばよいと思っている。
 食堂を出たところは立木の多い公園の一角のようないい雰囲気のところだ。地面はタイルが埋まっている。美術館か図書館の敷地の中という感じだ。大阪にもこんなところがあったのだなと感心していると、すぐにふたりはそのまま真横にある大きな古い建物の中に入る。Nが目的の場所に行くためにはここを通る必要があると思っていることがわかる。建物は大阪中之島の府立図書館のような石造りで、扉は間口が3軒ほどもあって、ガラスをはめた木枠だ。その木は透明ニスが塗られて飴色に変化している。古いが感じのいい扉だなと思う。扉を入ってすぐに図書カードを収めた鉄製の検索箱が目に入る。確実に図書館に来たことがわかる。だが、次の瞬間、自分の意思ではなく、勝手にある部屋が出現する。別にそこに行こうとしたつもりはないし,歩いている気もしないのだが、いつの間にかある部屋に来ているのだ。それがあまりに唐突なので驚いている。だが、夢の中で『これが夢の不思議なところだな』とかは一切思わない。部屋は窓がなく、うす暗い。10数人の老若男女があちこちに大きな木製の四角い机を囲んで座っている。こんなところに来てしまってNに申し訳なさそうな気がしているが、部屋からは出られそうもなく、みんなに混じって講座を聴こうかと思い始める。部屋の床は油を引いた板張りで、昔の小学校の教室のような懐かしさがある。広さはその2、3倍だ。中央に大きな、同じように時代がかった、前述の木製の四角い机がある。作業台と言ってもよいものだ。部屋のほとんど半分ほどの面積をその机が占めている。表面は黒に近い灰色で、汚れてはいないが、あちこち彫刻刀で削ったような傷があって年季が入っているのがわかる。昭和30年代から使用され続けているものといった感じだ。その台のあちこちにひとつずつ古い商品がきちんと置かれている。展示されているといった方がよい。最初に目にしたのは透明なビニールにぴったりくるまれたもので、薄手の木綿のハンカチで1956年製の子ども用の片方の靴下をかたどったものだ。つまり、靴下に見せかけたハンカチだ。赤や青、緑などとてもカラフルだ。だが、色合いはいかにも1950年代の古さを感じさせる。そのような商品が当時のビニールに包まれたまま保存されているのは珍しいと思って顔をほころばせるが、Nは全く関心がない様子だ。最初にそれを手にしたが、1メートル置きにさまざまな同類の商品がある。全部手に取って見ることが出来るが、最初のものだけで済ます。懐かしい昭和時代を回顧する小展示会のようだが、後で心斎橋で見るつもりの展覧会も同じようなレトロなものを展覧するはずであったから、ひょっとすればそれがこれであったのかなとも思う。
 ふと気がつくと、いつの間にか台のあちこちに2メートル間隔ほどに人が座っている。みんなむっつりと静かで、知り合いと連れ立って来ている人はいないようだ。各人が手元にガリ版刷りされてホッチキスで留められた数ページの資料を置いている。この資料は講座用のものだが、座っている聴講者全員が別の内容の資料だ。巨大な机にはまだ着席可能な空きスペースがいくつかあるので、その中のひとつに行って、積まれている資料の束を見る。10数部同じものが積まれている。それは他の人々が手にしているものとは内容が違うことがわかる。資料はただ積まれているのではなく、束の両脇にピンがあり、そこから細い釣り糸がわたされ、風で飛ばないように押さえてある。一番上から1冊を抜いて手にするが、その場には座らず、机から2、3メートル離れたところに遠慮気味に立つ。すると、『お待たせしました』といった女性の言葉がどこからともなく聞こえて、講座が始まる。眼鏡をかけた図書館の司書のひとりが筆者の右手前、机の横に立っている。真面目そうな30歳を越えたばかりの年齢だ。濃紺のスーツに白い襟つきのシャツを着ている。その人が講師だ。『では始めましょう』と言うと、すぐに講師の左に天井からするすると大きな映写用の白いスクリーンが下りて来る。大きさは縦が1.5メートル、横が2.5メートルほどで、講師はそのスクリーンの端にぴたりを身を寄せて立つ。スクリーンが下り切ったところで、即座に映像が映り始める。モノクロだ。映像はかなり古くて、3、40年ほど前の印象がある。もう亡くなった地方のグラフィック・デザイナーの仕事を紹介しようというのだ。そのデザイナーの描いたイラストが早速映る。それは小さな烏か鵜がたくさん飛んでいるところを描いたもので、鳥の形はかなりデザイン化されている。よく見れば木版画だ。そして講師は『この絵の一部をこのように転用して、画家の作品として世に問うために描き直したのでした』と話を続ける。スクリーンにはその描き直された絵が映るが、それは元の木版画イラストの右下隅をそのまま4分の1ほどカットしただけのもので、元のイラストのその部分がクローズ・アップされてスクリーンに写し出される。Nは全く興味がないはずで、いつの間にか姿も消えているが、筆者も別にこの講座に申し込んだのではないので、興味があるようなないような居心地の悪さを感じる。だが、始まったばかりでみんなが講師に注目しているところを抜け出すわけには行かない。さてどうしたものかと思っているところで目が覚めた。


Nとは長い間会っていない。そのために夢に現われたと思う。夢に出た図書館は大阪や京都の各地の図書館の部分が反映しているが、それらと同じ場所ではない。いつも夢に登場する場所は見知らぬ街の見知らぬ建物のその内部だ。現実とすっかり同じと思える空間が出て来たためしはない。もし、夢に現実と同じと思える空間がしばらくの間にせよそのまま出て来たならば、目覚めた後も夢と現実が区別がつかないのではないだろうか。過ぎ去った記憶は現実も夢も同じ頭の中に入っていて、自分でもそうした過去のイメージを思い出す時は、現実にあったことと夢をきちんと区別している。だが、夢があまりに遠い過去になれば、夢と現実の思い出が区別出来ないことが生ずるのではないだろうか。少なからず筆者にはそういう記憶がある。40年以上も前の記憶なのだが、それが実際に見たことなのか、夢であったのかもはやわからない。別に夢でも現実でもどちらでもかまわないことなので、強く詮索する気もなくて、そのことを思い出してもすぐに忘れるが、それにしてもいつも同じように思い出されるその場面は一体何であるのだろうと不思議な気にはなる。そんなどうでもいい個人的な記憶のガラクタを頭にいっぱい詰めたまま人間は死んで行くが、そう考えると人生というものもガラクタみたいなものだなと思う。目覚めている間の、現実で目にすることも結局は幻に過ぎず、永遠に瞼を閉じればおしまいだ。そう考えると、生きている間になるべく美しいものばかりを見ていたい。
by uuuzen | 2005-09-06 22:53 | ●【夢千夜(むちや)日記】
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