漂って来るオーラというものがある。映画は作り事であり、俳優は演じるから、俳優の私生活やどのような人生を歩んで来たか本当はわからない。それでも図らずも滲み出るものがあるし、観客はそれを感じ取る。
そう思ったのは今日取り上げるフランス映画『夕なぎ』のヒロインであるロミー・シュナイダーだ。彼女が最初のアラン・ドロンの奥さんであったことは昔から知っていたが、出演作を見るのはこれが初めてであった。とてもいい映画で、最後の最後までどういう結末になるか予想がつかず、大いに楽しめた。色はきれいで、音楽も面白い。監督はクロード・ソーテで、同時期にロミーを使って何本か撮った。70年代半ばの製作かと思うと72年であった。それにしてはコンピューター楽器によるピコピコ・サウンドは目のつけどころが早過ぎる。その手の音楽は急速に古くなるので、タイトル・バックから早くも鳴り始めるその音楽によって映画がとても古臭いものに思えたが、72年とわかると、予想より数年早いので驚いた。72年はアメリカのヒッピー文化がヨーロッパに波及し、そのライフ・スタイルが多少は模倣されたはずで、この映画にはその影響があるとまず感じた。それはたとえば女性解放であり、また男女のカップルが同棲ないし結婚するという形を取らず、気に合った者同士が複数で暮らすことだ。そのどちらもこの映画は描く。そうした生活は60年代では考えにくかったであろう。今はどうかとなると、ヒッピーが理想とした幻想がかなり崩れているのではないだろうか。そういう状態であればこの映画に描かれる考えは一般には受け入れられないだろう。このように書けばこの映画の結論を言ってしまったように誤解されるかもしれないが、実際はもう少し複雑だ。それは女性解放が女性の自立と関連していて、女性がひとりで生きて行きやすくなったことだ。そのことをこの映画は描いている。イプセンの『人形の家』からまっすぐにつながっていて、ここではそういう女性の生き方に男はしたがうしかないことになっている。現在もそうで、ヒッピー時代があったからこそ、今の女性は男と同等に働くことが出来るようになったと言ってもよい。そう断言するにはまだまだまずい部分はあるが、60年代前半までと現在とでは女性は圧倒的に強くなった。そういう傾向の端緒をこの映画は示す。腕力や経済力を男は誇るが、女はそれを何とも思っていないことが描かれ、男が頼りなく見える。だが、それは才能のある女性だけであって、大多数の女性はまだまだ男がいなくては生活が出来ず、そのためにひどい暴力に耐えることもままある。先日NHKの番組で、娘が父に長年犯され続け、妊娠までしたことを知っているのに、母親はその夫の行為を見て見ぬふりをしている事例が報告されていた。まさに鬼畜の親と言うべきだが、氷山の一角なのかもしれない。そういう言葉を失う現実の前ではどんな娯楽映画も、被害に遭ったその子を慰めることは出来ないだろう。また映画がそういう現実を描いても、どのような救いの物語を構築することが出来るか。この映画にも男の暴力は描かれる。だが、後味のよさに気を配っていて、全体に笑いやほんわかムードが支配し、暴力もまあ仕方がないかと見ることが出来る。とはいえ、映画であって、現実ではまさかこの映画のようには行くまい。
ロミーは38年生まれで、この映画では34歳だ。ウィキペディアを見ると、彼女は映画史上最も有名な女優との評価がある。それほどの美しさと演技力ということだ。男優はジャン・ギャバンで、これは筆者も文句なしにそう思う。筆者の好みの女優はとなると、美女なら誰でもよいと思っている方なので、ロミーが20世紀最高の女優と言われてもピンと来ないが、この映画を見る限り、はっとさせられる美しい表情、そして芯の強さに一瞬にして忘れ難い何かを思った。このカテゴリーにいずれ書くが、ファスビンダーが彼女を起用して撮りたかった作品があった。それがかなわず、ハンナ・シグラが演じたが、ファスビンダーがロミーを使いたがった理由はこの映画を見るとわかる。あまりにギャラが高かったので使えなかったのか、ファスビンダーの映画に彼女が出演してほしかった。昨夜の『夏の嵐』ではヴィスコンティは当初マーロン・ブランドとイングリット・バーグマンを起用したかったと書いた。あまり有名な俳優を使うと、そのイメージに引っ張られ過ぎて監督の色合いがうすまりそうな気がするが、監督としては自作に一定のイメージがある。また映画をヒットさせるには有名どころを使った方がよい。監督の名前で見るという人と、出演俳優によって見るという人がある。そしてこのふたつが揃えば鬼に金棒であるから、監督は有名な俳優を使いたがる。監督と俳優の才能の拮抗が作品をより面白くする。それはこの『夕なぎ』でも同じで、ロミー以外ではヒットはもっと小規模になったのではないか。結果的に彼女の代表作になったが、それはこの映画の役が彼女の実生活にだぶるところがあり、無理な演技をせずに済んだからではないだろうか。監督は彼女のそれまでの人生を知って起用したと思えるほどで、そういう製作もままあるだろう。それを女優の人気に便乗した安易な行為と思ってはいけない。この映画ではロミーだけが光っているのではないし、彼女の人生そのものがそっくり描かれているのでもない。また、大多数の観客は彼女の私生活など知らずにこの映画を見る。筆者もそうであった。ウィキペディアを読んで、なおさら彼女に関心を持った。そして20世紀最高の女優と言われる彼女が実際は晩年が不幸で、43歳で亡くなっている。「シュナイダー」の姓はドイツ系だが、ウィーン生まれだ。ファスビンダーが使いたがったのはもっともだろう。これは以前にも書いたことがあるが、筆者はヨーロッパの女性ではドイツ系が最も好きだ。その顔はロミーに凝縮されているかもしれない。
原題は「CESAR ET ROSALIE」(セザールとロザリー)で、ロザリーはロミー、セザールはイヴ・モンタンが演じる。彼はこの映画の時、51歳であった。ロザリーを巡ってもうひとり男性のダヴィッドが登場し、当時34歳のサミー・フレイが演じる。彼ら3人の三角関係の物語だ。それだけではいかにも単純な内容に思えるが、ロザリーの家族やダヴィッドの仕事仲間や友人たちを描き、人々の孤独と幸福が鮮やかに浮かび上がる。セザールは弟とともにスクラップの売買をしている。粗野で教養はない。酒場で出会った女を好きになったかと思えば、今はロザリーにぞっこんで、交際している。ロザリーは娘がひとりいる。画家と結婚していた時に産んだが、引き取って育てている。画家は別の女性と同棲中で、ダヴィッドは友人だ。ロザリーは5年前に最初ダヴィッドと交際していたが、漫画家志望の彼は渡米してしまい。ロザリーとは音信が途絶えた。それで彼女は画家と結婚したが、それもうまく行かなかった。ただし、今は友人として交際している。そういうロザリーがどうしてセザールと出会ったかは描かれないが、セザールがぞっこんで、服装や趣味など、みなロザリーの言うことを聞いている。セザールの自慢するものは経済力だ。会社は大きく、ヨーロッパ中に買い手と売り手がある。だが、語学は堪能でないので、ロザリーがそれを手助けしている。小さな娘は彼になついているが、まだ一緒の家には住んでおらず、結婚もしていない。そういう状態のさなか、ロザリーの母が三度目の結婚式を挙げる。その式にセザールや元旦那、そして帰国したばかりのダヴィッドが参列する。ロザリーはまだ彼のことを忘れていなかった。それはダヴィッドも同じで、結婚していない。セザールはダヴィッドをいぶかり、ロザリーとの関係を訊く。ダヴィッドはひるまずに愛していると答え、それからロザリーとセザールの間はぎくしゃくして行く。うろたえるセザールだが、これは無理もない。自分は金は持っているが、元旦那のような芸術家ではなく、またダヴィッドのような才能もない。教養とは無縁の男だ。そして気に食わないことがあると暴力に訴える。こういう男はいつの時代にもごまんといる。そしてそれにふさわしい女性と一緒になって問題は生じない。ところがロザリーは絵画や音楽を愛する女性で、しかも娘をひとりで育てて来たしっかり者だ。そういう女性が金だけが魅力のセザールと交際することが腑に落ちないが、セザールにはいいところもある。陽気なことだ。人なつっこく、また気前も本当はいい。それに孤独だ。この点にロザリーは母性本能をかき立てられたのだろう。また、以前の旦那のように経済的に貧しくはなく、その点が魅力であったかもしれない。自分に正直なロザリーはすぐに5年前の恋心を再燃させる。そうなるとセザールは黙っていない。ダヴィッドには「自分は人殺しをしたことがある」と脅すほどで、そういうところにロザリーは嫌気を差す。となるとますますセザールは怒り狂う。そしてナイフで脅しながらロザリーに暴力を振るい、ダヴィッドのアトリエを破壊し、火までつける。この大損害をロザリーは淡々と計算してセザールの金庫から相応の金を奪ってダヴィッドと逃避行をする。
地の果てまで追って来ると予感したロザリーの考えは的中、すぐに居場所がわかってしまう。だがセザールは低姿勢だ。それどころか、ロザリーが生まれ育った、部屋は11もあって、ヴェルサイユ宮殿のようだとおおげさに表現する海辺の家を買い取り、またダヴィッドのアトリエは完全に修復したと告げる。ロザリーは折れて、母やその新しい夫、そして妹らと一緒にその家に行き、全員で過ごす。ところが、ロザリーの心は晴れない。束の間のダヴィッドとの生活が恋しいのだ。それを知ったセザールは、ダヴィッドから彼女を奪い取ったはいいものの、抜け殻のようになってしまった彼女に心を痛め、ダヴィッドを迎えに来る。つまり、海辺の家で一緒に暮らそうというのだ。ダヴィッドは拒否する。そしてセザールは暴力を振るう。ガラス窓に頭を突っ込んだダヴィッドは血みどろになるが、すぐ近くの酒場でセザールがひとり沈んでいるのを遠く見て、ついに決心し、海辺の家に行く。そうしてダヴィッドを交えたにぎやかな共同生活が始まる。セザールとダヴィッドは意気投合し、船釣りを通じて仲よくなる。その様子を見て、夏の終わりの家を引き払う間近の日、ロザリーは娘を連れて行方をくらます。グルノーブルに行ったことはわかったが、セザールもダヴィッドもそれを追わなかった。すっかり打ちのめされたセザールだが、やがて少しずつ立ち直り、ダヴィッドと食事しながら、一緒にエジンバラに釣りに行こうかという話をするまでになる。ロザリーは自分の音信をダヴィッドに手紙で伝えていたが、ダヴィッドは返事を出さなかった。それがついに彼女は吹っ切れたのか、セザールとダヴィッドが食事している家にやって来て玄関を開け、ふたりがそれを見つめる。そこで映画が終わる。さて、この後、三人はどうなるかだ。おそらくロザリーはセザールと寄りを戻さない。すでに全員自立していて、仲のよう友人同士で充分な気持ちになっている。距離感を保ったまま、たまに会うという関係を続けるだろう。それはロザリーの前夫との関係を見てもわかる。お互い何をしても気にならない。かといって会えば親しく話す。ロザリーはダヴィッド、画家である夫、そしてセザールとそれぞれ肉体関係を持ったが、ロザリーの母が三度結婚したのとは違い、ひとりで生きて行くことが出来る。それは母とは違って新時代の女性の生き方でもある。ファスビンダーはこの映画を見たはずだが、かなり影響を受けたのではないだろうか。この映画ではセザールとダヴィッドは男の友情という形で結ばれている。ホモというもっと進んだ交際を想像しなくてもよい。そういうセックスの有無はどうでもよく、男同士が仲がよく、そこに女が立ち入ることが出来ないという関係は、ファスビンダーが大いに描いた。ロザリーがセザールとダヴィッドがあれほど対立したのに、打って変わったように仲よくなったことにどういう感情を抱いたのであろう。この点がこの映画では詳しく描かれない。どちらかひとりの男を選ぶことが出来ないので、思い悩んで自分が去ったということか。そのいかにも潔い行動は現実のロミー・シュナイダーの姿とだぶる。ホモはだいたい女のなよっとしたところを嫌悪するのだろう。ロザリーにはそんなところは微塵もない。そこにセザールとダヴィッドが惚れたとすれば、彼らふたりともホモっ気があると見ていいか。この映画のロミーは本当に素敵な雰囲気で、現実も同じ感じではなかったかと思いたくなる。だが、ロミーはそう思われることを嫌った。役どころと自分は別であるという思いを生涯抱き、固定していたイメージを払拭することに挌闘した。そのこと自体がこの映画にも端的に表われている。おそらくロミーのような女性は日本の男にはあまり人気がないだろう。それだけ日本はまだ女性が男と対等ではなく、媚を使わねばならない。日本女性が西洋人に人気があるのは、おだててくれるし、男は威張れるからだろう。そういう女の生き方の方がロミーのように肩肘張らずに楽かもしれない。この映画からはヨーロッパのしんどさを思い知る。