●『夏の嵐』
いをかけられた者にはそれが効くのだろうか。迷信と言ってしまえないものがあるから、昔から呪いをかけたり、かけられることを嫌ったりするのだろう。恨まれるような行為をしなければいいと言われても、他人の心を支配することが出来ないから、知らず知らずのうちに恨まれる場合はある。



d0053294_029583.jpg自分の心を覗いても、気に食わない奴がいたりするから、呪いの小さなものから誰もが逃れることが出来ない。そう思えば気が楽だ。今日取り上げる映画はヴィスコンティの1954年製作のカラー作品で、2時間ほどの長さがある。物語は単純で、結末は少々拍子抜けした。ネットで調べると、ヴィスコンティの代表作とされている。日本で55年に封切りされた時はさっぱりの人気であったらしい。それはわかるような気がする。今でも日本では評価が低いのではないだろうか。筆者はヴィスコンティの映画は『ヴェニスに死す』を71年の封切り時に見た。とてもよく覚えている場面がいくつかあるが、美少年を愛する中年男の物語で、その倒錯した愛情は今でも理解出来ない。もちろんヴェネツィアの街を舞台にした映画だが、3日前に感想を書いた『旅情』とは違って、夕暮れから夜にかけての街の場面が大半ではなかったか。また、ロマンスも男女のそれではないから、女性が歓迎した映画とは思えないが、女性は美少年が好きであるから、その点では心配がなかった。また、今では少女漫画に男と男、女と女の愛情をテーマにしたものが目立つようであるので、ヴィスコンティは時代をかなり先んじていたと言える。筆者はヴィスコンティの名声を20歳頃に知っていたにもかかわらず、夢中になれなかった。『山猫』はTVで見たような気がするが、内容はさっぱり覚えていない。この『愛の嵐』は右京図書館で見つけた。熱烈に見たいと思ったのではない。ヴィスコンティの作品と知り、見てみようかという程度だ。見た後に54年の作品と知ってびっくりした。カラーが美しく、また雄大な規模で、どう考えても70年代前半だ。つまり、20年早い。これはやはりヴィスコンティの才能の凄さのせいだと思った。また、気に入ったと言おうか、ふむふむという気で見たのは使用している音楽だ。ブルックナーの交響曲第7番を使っている。これはブルックナーの交響曲でも最も有名で、筆者も最も好きなブルックナー作品だが、そう思うようになったのは80年代のことだ。NHK-FMでブルックナーの生涯を順を追って全曲解説する番組があった。それを毎週欠かさず録音し、解説はノートにメモった。その番組以降、日本では最初のブルックナー・ブームが起こったと思う。ま、その話はいい。よく聴き知っている曲が効果的に使われる映画は親しみやすい。おそらくこの映画が日本で封切られた頃、ベートーヴェンはまだよく聴かれていたにしても、ブルックナーはクラシック・ファンでもあまりファンは多くなかったのではないか。まさか使用する曲で映画の人気が左右することはないという意見があるだろうが、荘重的なブルックナーの交響曲はこの映画には似合う。ブルックナーがこの曲の初演は1884年で、この映画の時代背景とは釣り合っているし、またブルックナーはオペラは書かなかったがワグナーの心酔者で、その点でもヴィスコンティがブルックナーの曲を用いたのはわかる。というのは、この映画は冒頭にオペラ劇場でのヴェルディの『イル・トロヴァトーレ』が上演される場面が映り、第3幕の「見よ、恐ろしい炎を」が歌われる。これは激しい憎悪のドラマがこの映画で展開されることを予告するとともに、物語がオペラ的でありながら、オペラでは不可能な映画ならではの豪華な実写を見せる覚悟の宣言にも思える。だが、映画の内容は『イル・トロヴァトーレ』とは共通点はほとんどない。
 あるとすれば呪いによって相手を殺すことか。もちろんそれは呪いの気持ちを相手にテレパシーで伝え、その負のエネルギーによる苦悩に陥らせて死なせるというのではなく、呪いによって復讐の行動を起こし、相手を死に至らせることだ。『イル・トロヴァトーレ』はジプシー女の呪いによって自分のふたりの子のうち、弟が殺されたと思い込んだ伯爵が、その女を火あぶりの刑にしてしまうが、女には娘がいて、彼女は伯爵の子の弟を自分の子として育てる。やがて、兄弟は兄弟とも知らずにひとりの女を巡って殺し合いをするが、兄は弟を殺し、女は自殺する。ジプシーがいかにも性悪と言いたいかのような物語だが、この偏見はその後もなくなったとは言えないだろう。さて、DVDの解説に記されていたが、ヴィスコンティはこの映画を最初マーロン・ブランドとイングリット・バーグマンで撮りたかった。それが実現しているともっとポピュラーになり、また封切り当時の日本でも人気を得たのではないだろうか。また、種々の理由から、物語は『イル・トロヴァトーレ』のようにはふたりの男がひとりの女を奪い合うという形にはならなかった。盛り込む内容が多過ぎたのかもしれない。この映画の理解しにくいところは、19世紀半ばのイタリアの統一運動を時代背景にしていることだ。これはイタリアによほど関心のある人でなければ細かいところまで読み込んでみようとは思わない。人々は娯楽は求めても、教養には無関心だ。ましてや過ぎた政治など、ほとんどどうでもよいと思っている。それは自国のもので充分ではないかという思いもある。イタリアに興味を持っても、せいぜい古代ローマからルネサンスあたりが相場だろう。だが、イタリアがばらばらの小国だらけであったのが、ようやくひとつの国としてまとまろうとした時、各地で戦争があったことは誰でも容易に想像出来る。そのことだけでも心に留めておくとよい。この映画の原題は「SENSO」で、「戦争」を思わせるが、まさか日本語のローマ字読みの題名であるはずがない。「SENSO」は「官能」の意味とある。戦争を背景にした官能をテーマにした作品で、戦争はいつの時代でもあるから、ヴィスコンティはこの映画の物語は普遍性があると思ったのかもしれない。だが、戦争そのものが19世紀前半と現代では全く違うものになっている。この映画はまだ貴族が幅を利かしていて、戦争もナポレオン時代からほとんど変わらない歩兵中心のものだ。ナポレオンが去った後、イタリアはナポレオンが登場する前の状態に戻され、またオーストリアの支配下にあった。ヴェネツィアが属する北部は特にそうだ。この映画のヒロインはヴェネツィアの公爵夫人のリヴィアで、彼女がオペラ劇場の桟敷席で『イル・トロヴァトーレ』を観劇中に、イタリアの統一を呼びかけるビラが撒かれる場面から始まる。下の観客席にはオーストリアの兵士が陣取っていて、その中にいたフランツ・マーラーという中尉は、ビラを撒いたイタリアの統一派のひとりでリヴィアの従兄ロベルトを捕え、ロベルトは決闘を申し込む。心配したリヴィアはフランツを桟敷席に呼び、決闘をやめさせようと試みた結果、その望みはかなうが、ロベルトは逮捕されて流刑地に送られる。この後、ロベルトはほとんど映画に登場しない。このロベルトの出番が多ければ、『イル・トロヴァトーレ』のように複雑なドラマになったが、そうはならずに、リヴィアはフランツに恋をし、やがてはロベルトから預かった莫大な軍資金までフランツに貢いで彼を除隊させ、逢瀬を重ねたいと思うようになる。このリヴィアの官能がこの映画の主題だ。
 伯爵夫人であっても女は誰でも同じということかもしれない。いや、男もそうだ。だが、この映画は豪華で劇的な雰囲気を高めるために、伯爵夫人と敵国の将校という、道徳的に許されない恋を取り上げる。これがそこらの無名の人の話では、ただただ薄汚れた話として誰も取り合わない。だが、いつの時代、どの社会でも男女の性や恋に対する思いが一緒とすれば、ヴィスコンティが言いたかったのは何かということになる。ロベルトから預かった大金を多少は迷いながらも、そっくりそのままフランツに手わたしてしまう様子は、フランツの体がほしくてたまらない、ただの色気に狂った中年女に見える。まさに哀れで、そこまで男に恋をするとは、全く「恋は盲目」とはよく言ったものだ。フランツは浮気な男だ。いや、これは大なり小なりどんな男でもそうだ。それにフランツは自分の想像をはるかに超えて伯爵夫人が自分を追い回し、ふんだんに金を与えてくれる。そういう女は利用するに限ると思っても当然だろう。何しろそうして尽くすことを欲しているのであるから、断ることが無礼になる。ひょっとすれば彼女は強烈なマゾヒストか。ならばその性癖を汲んでやるだけだ。そうフランツは思ったのかもしれず、また同時に彼女を内心見下げたはずだ。フランツが戦争で死んでしまっては生きて行けないと思うリヴィアは、フランツの言うがままに医者に贋の診断書を書いてもらうために大金が必要であることを打ち明けられる。そうしてロベルトから預かった宝石箱をそのまま差し出してしまう。フランツは前線に行かずに済み、同僚と兵舎に住んでいて、リヴィアは彼に会いに行くが、その場面は印象的だ。地面に接するほどの裾の長いドレスを着て、伯爵夫人が出歩かないような場所をさまよう。そしてフランツの部屋に辿り着くと、部屋にはフランツが呼んだ若い娼婦がいる。フランツは娼婦とリヴィアを見比べ、リヴィアは色に狂って大金を恵んでくれる女であるといった言葉を発する。その貶めによって目覚めた彼女は、ただちに軍に手紙を書き、フランツは脱走を図った罪で射殺される。そうなってもリヴィアの心が晴れるだろうか。彼女は射殺されたことを知り、泣きながらその場を去る。騙されたことを知った途端、恨みの激情に駆られてフランツを死に至らしめたが、彼女に何が残るだろう。後悔が重くなっただけで、救われることはない。また、彼女は騙されたのであろうか。商売女に手を出したことがリヴィアには耐え難かったか。ここで思い出すのは13日に書いたミケランジェロ・アントニオーニの『情事』の結末だ。そこでは浮気された女は悔いて泣く男を許す。ならばフランツはリヴィアに泣いて謝ればよかったか。高貴な身分の女であるから、それでも同じ結果になったのではないか。彼女は自分が尽くした相手がそれに値する値打ちがないという幻滅を味わったのだ。フランツが射殺されて泣いたのは、そんな自分の愚かさを知った悔しさ半分と、もう半分は恋を断ち切った辛さだ。これは女には恋しかないことを意味しているようだ。筆者はリヴィアの尽くす行為を見ながら、フランツの正体を見抜けなかったことが奇妙でならなかった。だが、それは冷めた目で見ているからで、恋する官能の真っただ中にいると、おそらく自分の行動が正しく見えない。そういう経験のない人は否定するが、それは当然だ。わからない人に何を言ってもわからない。恋から冷めて長い年月が経ってから、恋している状態の一種異常さがわかる。そういう恋の盲目性をヴィスコンティは描きたかったのだろうか。死と隣り合わせの状態にある激しい恋は現実的ではないという意見があるかもしれないが、どんな恋でも一歩間違えば死ぬこともある。その意味で貴族の恋でなくても現代の庶民がこの映画を見ても納得出来るところはある。貴族の生活など、現代ではもうないと思っている向きには、この映画はオペラのように絵空事に映る。ヴィスコンティも半ばはそう思っていたかもしれない。だが、リヴィアのフランツに夢中になって行く行動は、身分や時代には関係がない。であるから、男は貢がせるだけでそれに真摯に取り合わない場合は、女の呪いにかかって死ぬことを覚悟せねばならない。女の思いは夏の嵐のように激しいということか。夏の嵐は一瞬だけれど。
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by uuuzen | 2012-11-17 23:59 | ●その他の映画など | Comments(0)


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