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●『いとこ同志』
か志のどちらがいいかとなると、この映画の場合は少しややこしい。どちらも大学の法科の試験を受けるので、その点では「同志」がよいが、性格も生き方も全く違うので「同士」としておくのがいいだろう。



●『いとこ同志』_d0053294_1121493.jpg筆者は今まであまり深く考えもせずに「同士」を使っている。「士」という漢字は男の性器が立った形に由来するから、女にはふさわしくない。そのため、男同士に用いるのはよくても、男女あるいは女性同士ではあまりふさわしくない気がする。今日取り上げるのは男同士のいとこを描いた1958年のフランス映画で、ヌーヴェル・ヴァーグを切り開いた作品とされる。題名だけは聞いていたが、2週間ほど前に右京図書館からDVDを借りて見た。原題は「Les Cousins」(ル・クザン)で、白黒映画で2時間を少し切る。ほとんど最後近くで予想どおりの展開となったが、本当に最後の最後は意外な結末であった。それは『太陽がいっぱい』や『地下室のメロディー』に大きな影響を与えている。こう書けばフランス映画の「新しい波」がどういうものかわかるだろう。脚本と監督はクロード・シャブロルで、妻に入った遺産で製作した。資金が途中でなくなり、上映権を売却することでどうにか完成させたそうだ。同時期にもう1本『美しきセルジュ』を撮り始め、これが前年に完成した。遺産を映画作りに費やすとは、よほど映画好きであった。その無謀とも言える行為によって名作が誕生したのであるから、遺産は使い道によっては金に代えられない大きな遺産を生む。同じように親などの莫大な遺産を使いながら、その行為が実らない例の方がはるかに多いはずで、シャブロルには並はずれた才能があった。それがまずあれば、資金はどこかから寄って来るのだろう。この映画を製作するのにどれほどの資金が必要だったか知らないが、映画監督はいい作品を作ることへの思いとは別に、どこから資金を捻出するかという大きな問題が常にある。人を説得する才能と博打に勝ってみせるという根性が必要で、俳優とは全く違う職業であろう。さて、昨日は日本の女子大生を描いた作品について書いたので、今日この映画を取り上げるのはちょうどよい。いとこのふたりはともに23歳の大学生で、パリの豪華なマンションに住んでいるポールと同居するために田舎からシャルルが出て来る場面から始まる。
 タイトル・バックにはポールの部屋の飾りが映った。ナポレオン時代の軍隊の模型だろうか、隊列を組んだ兵士の人形が大写しになったりする。また壁にはたくさんの銃が飾ってあって、どうやらポールは戦いに関心がありそうだが、それはこの映画の主題とは関係がない。ともかく、ポールの部屋は骨董品や最新のステレオ装置があるなど、凝った趣味人であることがわかる。彼は根っからの遊び人で、部屋に大勢の人を呼んでパーティを開くことを趣味にしている。それは当然異性との出会いだろう。だが、本当に女好きかと言えば、そうでもないかもしれない。適当に女を抱くが、結婚は望んでいない。また女より楽しいことがあるとも思っているふうだ。それは金持ちの坊ちゃんではいつの時代でもだいたいそうだろう。うまく人の間を泳ぎ回って、労を費やさずに楽しむ術を知っている。そこにシャルルがやって来るが、全く違う人格ながら、そこはいとこ同志ということで、世話を焼きもする。だが、基本は個人主義の国であるから、自分のほしいものは自力で得るのが筋で、ポールはシャルルにガラス1枚隔てただけの中2階の1室を与えるだけだ。シャルルは真面目で、10年ほどは読書、しかもバルザックといった古い小説を好んで読んで来た。また母親とのふたり暮らしであったので、マザコン的なのだろう。母は息子をパリにはやりたくなかったが、ポールとの同居ならばいいと許可を出した。だが、これはポールのことをよく知らなかったからだろう。母はまた、女性に免疫のない息子であるから、都会に出るときっとすぐに女に惚れるだろうと心配している。ポールのマンションには商売で成功した、確か叔父の写真が飾ってある。シャルルの母はその叔父のことをあまり信用していないのか、ポールにはよく言っていない。そのことをシャルルはポールに言うと、自分の父やシャルルの父の器が小さいだけと言ったようなことを笑いながら返す。この場面はそれ以上の展開はないが、ポールとシャルルの親類を多少は観客に知らせておこうという監督の考えからか、この映画全体に微妙に影を落としていると思える。それはシャルルの母も同じで、顔は一切映らないが、典型的な田舎の真面目な人物であることがわかる。その血をシャルルは引いていて、ポールと暮らすようになってから頻繁に母に手紙を書く。一方、ポールは海千山千のように成功した叔父に似ている。
 ポールは背が高く、チョビ髭を生やして、とても23歳とは思えないが、当時の23は今の33くらいを思えばいい。学生であるのにさっぱり勉強せず、シャルルをパリ見物にドライヴで連れ回したり、カルチェ・ラタンの「結社」という名前のクラブに連れて行って遊ばせる。そのクラブに出入りしているシャルルの仲間はみな遊び人だ。大学生ばかりかと言えば、何をして食べているのかわからない40近い男クロヴィスもいる。クロヴィスは暴力的で、棒であちこち叩いたり、無抵抗な女性を脅すようなことをする。クロヴィスとポールは仲がよい。シャルルが同居するようになってすぐに若い女性が泣きながらポールのマンションにやって来る。ポールの子を妊娠したのだ。ポールはすかさず堕せと告げ、その始末をクロヴィスに頼む。クロヴィスはそのような需要で飯を食べているのだ。これは、それほど当時の20代前半の女性に堕胎が多かったことを示す。日本でも同じだろう。今では小中学生の妊娠も珍しくない。ましてや女子大生となると想像するにあまりある。そういうフリー・セックス同然の生活にいきなり飛び込んだシャルルは、母が予想したように女性に対する免疫がない。そのため、簡単に恋をしてまた簡単に捨てられるかもしれないが、23にもなればたとえ恋愛の経験がなくても、どのように欲望を抑制すべきかは心得ている。ただし、大きな葛藤があるのは当然だ。そういう渦中に案の定シャルルは放り込まれる。「結社」に初めて訪れた時、美しい女性フロランスに目を留める。その時、かなり落ち込んだ様子の若い男フィリップと隣り合わせになる。彼はポールやその仲間から嫌われていることを告白し、またシャルルもいずれ同じことになると予言めいたことを言う。シャルルはフィリップにフロランスのことを訊くと、フィリップは振られた腹いせからか、あばずれだと言う。一方のポールはシャルルがフロランスに魅せられたことを悟り、ここに新しい愛が誕生したなどと囃す。一見真面目に見えるフロランスで、彼女もシャルルに関心を抱いたような雰囲気だ。彼女は一足先に店を出る。すぐに追うシャルルだが、彼女は男と並んで歩き去り、シャルルはその後ろ姿を見送るばかり。この直後、シャルルは隣の本屋に入る。店主はどういう本が好きかと訊くと、シャルルはバルザックと答える。店主は大いに驚く。近頃の学生は推理小説かポルノしか読まず、バルザックの『ゴリオ爺さん』を与えようものならば、それを投げ返すと言う。これは現在でも同じだろう。あるいは『ゴリオ爺さん』と聞いてもそれが誰の小説かも知らない。感心した店主は、後ろを向いているので好きな本を持って行け、つまり万引きしろと薦める。結果、シャルルはバルザックの『幻滅』の分厚い2冊本を与えられる。この本を後にシャルルは返却しに行き、また失恋したことを打ち明けるが、店主は人生に無駄はないと励ます。この映画で唯一まともなのはシャルルとこの店主と言ってよいが、見方によればこのふたりは世間知らずの馬鹿だ。この映画が古典に対する「新しい波」を謳ったものであるからにはそうあらねばならない。監督はバルザックを投げ捨てる方に加担している。だが、大きく見ると、やはりバルザックの手の中に収まると言えるのではないか。古典がなければ「新波」もないからだ。
 フロランスは朴訥なシャルルに好意を抱く。ポールが開いたある夜のパーティに、フロランスはドレス姿で友人たちと訪れる。訪問者は全部で30人ほどか。最初にポールはステレオでモーツァルトの交響曲第40番をかける。優雅なパーティの夜に実にふさわしい曲だ。それを中断して今度はワグナーをかける。そして楽劇の身なりに着替えて薄暗くした部屋に現われる。音楽はたぶん『トリスタンとイゾルデ』だ。それに合わせてドイツ語でセリフを語る。ポールはかなり大人びた青年で、すでに愛や死、人生とは何かを知り尽くしている、あるいはそうありたいことに酔っているところがある。不思議な人物で、将来は大物になる気配がある。シャルルはその反対にこつこつの努力型で、傍から見ていても痛々しいほど根を詰める。そういう人物こそが本当は大物になる可能性が大きいが、世の中は彼のようなタイプはむしろ少数派で、結局芽が出ずに終わる場合が多い。世の中を動かすのはポールのような一種人間通であるからだ。話を戻して、パーティには誰かが連れて来た伯爵の触れ込みのイタリアの年配男がいる。目立つ男で、そういう人物をパーティに連れて来ることはポールを喜ばせる。この得体の知れない男は、やがて酒に酔って本性を表わし、女を寄越せとわめいたりする。そんな騒動のさなか、フロランスは外に出る。それを追うシャルル。ふたりは恋を語るような雰囲気に浸り、やがてポールはドライヴしようと言い、フロランスを残してポールのもとに行く。ところが宴たけなわで、声をかけられない。やがてシャルルが車のキーを貸してほしいと言っていることに気づくが、ポールは全員でドライヴに行こうと言って、酔いつぶれたイタリア人を残してみんなで階下に行き、そしてフロランスも誘って数台でドライヴに繰り出す。帰りは朝だ。電話の前でシャルルはふくれている。フロランスとふたりだけのデートがかなわなかったからだ。すぐにフロランスから電話があって、ふたりはデートの約束をする。ところが聞き間違えたフロランスは2時間早くポールのマンションにやって来る。シャルルは講義を聞くために大学に行っている。フロランスはシャルルとデートのために来たことを言い、真剣に交際を始めると話す。するとクロヴィスは、シャルルのために3日食事を作るともう飽きるに決まっているから、むしろポールと寝ろとそそのかし、2時間あれば事は済むと言う。そして暗示にかかったようにフロランスはポールと抱き合う。ポールはフロランスに、彼女は今までにたくさんの童貞を寝て来たのであるから、自分と同棲するのは何でもないことだろうといったことを言う。フロランスはフィリップを振ったかと思えば、すぐに別の男と歩いていた。そんなことをポールは知っていたのだろう。そういう尻軽をフロランスは自覚しているのかしていないのか、おそらく自覚していながらどうしようもないはずで、浮気性の彼女が珍しくも田舎出のシャルルに真剣な恋をしたことをクロヴィスもポールもせせら笑い、またその言葉にフロランスは素直にしたがう。ここにシャルルの母が懸念したことが生じる。ま、若い男は性に奔放でしかも美人のそんな女にすっかり魅せられてしまうのは世の常だ。この映画はそこを実にうまく描く。問題はその先だ。真面目なシャルルはこの危機をどう乗り切るか。
 デートの待ち合わせ場所でひとりで待っているシャルルの前に、昨夜パーティに参加した男女数人が通りかかる。そしてフィリップの噂を話す。彼は昨夜のパーティに来ていたが、怒って早めに部屋を出て行った。その後飛び降り自殺を企てたが、両足を骨折しただけで助かった。フロランスの魔性に引っかかっての破滅だ。彼がポールのように遊び人で、女に真剣にのぼせ上がらねばよかったものを、こればかりはどうしようもない。シャルルがポールのマンションに帰ると、フロランスが2時間早くやって来ていたことを知り、しかもポールの口から彼女と自分はここで同棲すると聞かされる。それを淡々と聞くポール。これはさすがだ。フロランスのような女はどこにでもいると納得したのだ。フィリップのように深刻に考えると身がいくつあっても足りない。彼が言ったように、あばずれと思えばいい。そしてポールは勉学に精を出すことにする。一方、全く勉強に関心のないポールはまたパーティを開いてどんちゃん騒ぎをする。そんな中でもポールは部屋にこもってひたすら勉強だ。その騒ぎが頭について離れない。ポールとフロランスは裸でシャワー室に入ったりもする。そんな状態では勉強に身が入らない。シャルルは3日後に試験があるので、頑張り時だとポールに言う。そして母には自信満々の手紙を書く。試験に合格して晴れ晴れとした顔を勉強を怠っていたポールを見返すのだ。ポールは2日後に試験があるにもかかわらず、勉強した形跡がない。にもかかわらず、ポールは合格する。そしてシャルルは落ちる。そのことが信じられないシャルルとポールだが、ポールは女が何だ、試験が何だと言い、また来年があると慰める。これは正直な気持ちだろう。女も勉学もポールの本当に求めるものではない。ポールが受かったのはカンニングしたためだ。シャルルはパリに住んで間もなく母に手紙にしたためたが、大学生は授業でノートを取らず、講義の内容を書いたノートの複写を買って勉強することに驚く。合理的な社会になっていて、ポールのようにカンニングして合格することはあたりまえなのだろう。そういう要領のよさが今風の正しい世間だ。それを知らないシャルルは無駄な勉強をした。本屋の主人は慰めるが、それが何の役に立とう。女を断ち、勉強に励んだあげくに1年をフイにした。ここでシャルルのような真面目な学生はどうするか。真面目であるだけに真面目に破滅しようとする。ポールは銃をコレクションしていた。それは弾が込められていないが、そのありかは以前聞いていた。リヴォルヴァーに1発だけ込め、弾倉を回転させる。ロシアン・ルーレットで5回をポール、1回を自分に銃撃を引く。眠っているポールの頭に1回撃つ。不発。そこでわれに返ってソファで眠ってしまう。朝が来る。ポールが先に起きた。シャルルも起きる。ポールはワグナーの音楽をかけ、銃が転がっていることに気づき、それを手にする。そして銃口をシャルルに向けて撃つのとシャルルが撃つなと叫ぶのが同時であった。シャルルは死ぬ。たぶんフロランスだろう。ドアのベルが鳴り続ける。茫然とするポール。レコードがちょうど終わって針が上がったところでFIN。いかがわしい男と交際し、女を泣かせて来たポールはいずれそのようなとんでもないことをしでかしたであろうか。この映画から教訓を汲み取る自由はあるが、真面目に生きても犬死にし、ちゃらんぽらんに生きてもドツボにはまるというのであるから、結局はその時々で満足しながら生きるしかない。ポールもシャルルもいい男で、いかにも若者らしい。性の塊のようなフロランスも実に正直だが、それだけに女は恐い。
by uuuzen | 2012-11-16 23:59 | ●その他の映画など
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