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●『情事』
否があるのは何でもで、自分がいいと思っているものにケチをつけられてもあまり憤慨しない方がよい。自分とは考えが違うのだなと思って相手から遠ざかるか、あるいは相手の言うことにも一理あると思うか、誰しもケース・バイ・ケースだろう。



●『情事』_d0053294_0163134.jpgそれなりに知られ、また売れているものは、賛美する人がいることであって、そのことがひとつの価値判断基準になるが、どうしてもそれを好きになれない、理解出来ないことはしばしばある。そのことを最初に感じたのは、ビートルズが来日するというニュースが出た頃だ。筆者は当時中学生で、ビートルズに夢中になっていたが、識者と呼ばれる大人たちは嫌悪を情を露わにしてコメントを発していた。古い価値観の大人が、楽譜が読めない不良が演奏する音楽が理解出来ないのは当然であったろう。そんな新旧世代の対立を60年代半ばに見たことはよい経験であった。今自分が旧世代の人間となってそれなりに価値観が固まり、新しく登場するものに夢中になれなくなっているかもしれず、ビートルズをけなした文化人を笑えないかもしれない。さて、先日韓国ドラマ『ラブレイン』の感想を書いた。それを書きながら頭にあったのは、今日取り上げるミケランジェロ・アントニオーニ監督の1960年の映画『情事』であった。原題は「L‘AVVENTURA」で、イタリア語を理解しない人でもこれが英語の「アドヴェンチャー」やフランス語の「アヴァンチュール」であることはわかる。「アドヴェンチャー」は「冒険」でいいとして、「アヴァンチュール」は「恋の冒険」という雰囲気を思うのは筆者のような旧世代だろう。それを「情事」という邦題にしたところに、当時の映画人の感覚が伝わりそうだが、この訳語はあまりいいとは思えない。確かに男女の情事がテーマになっているが、「情事」という日本語には「不倫」のイメージがあって、ドロドロした関係を思い浮かべてしまう。この映画はそんな場面はない。「情事」と題することで映画の内容を小さく限定してしまっているところがある。ともかく、DVDを右京図書館から借りて見た。2時間を超えるので、少々退屈であったが、妙に心に残るものがあって、返却日に早送りしながら、引っかかる箇所のみもう一度見た。それで最初に見た時には感じなかったことがいろいろと見えて来て面白かった。結果、名作と呼ぶにふさわしいと思うに至ったが、その思いに支配されながらその夜に『ラブレイン』の思いを綴った。だが、『ラブレイン』と『情事』の比較は無茶かもしれない。それがわかっていながらも、『ラブレイン』を駄作と書いたのは、『情事』の名作ぶりがあまりに強かったからだ。
 無理な比較はわかりながら、あえて比べると、『ラブレイン』は様式性がはなはだ強く、それはそれでユン・ソクホ監督の個性や広く韓国ドラマの恋愛ものを示して面白いと言える。また、その様式がそれなりに洗練され、また監督によって微妙な差があるのは当然でも、あれこれ違うドラマを見ていると、どれも似たものに見えて面白くなくなる。様式は飽きが来るのだ。そのようにして戦後のヨーロッパ映画に新しい波としてのヌーヴェル・ヴァーグが来た。イタリアでその流れを開拓したのが本作と思えばいいだろう。それはそれでまた新しい様式を生み出したと言えるが、筆者は映画に詳しくないので、各国のヌーヴェル・ヴァーグの差異と共通性はよくわからない。ただし、漠然とながら、これは誰しも感じるのは、古典に対しての新しさで、古典的な映画の面白さこそをお金を払ってでも見るべきものと思っている向きには、ヌーヴェル・ヴァーグはわけがわからず、鑑賞の時間も惜しいものだろう。韓国ドラマはいわば古典的な手法で撮られる。そのためにどれも似たものとなって一定の完成度を誇るが、その範囲内でのあらゆる意外性が試され、もう10年ほどすればヌーヴェル・ヴァーグ的なものが生まれて来るのは必至だろう。ストーリーの面白さを追求した古典的な映画とヌーヴェル・ヴァーグの中でも何が言いたいのかよくわからない、つまり観客にじっくりと考えさせる、あるいは直観で感じさせる『情事』のような映画との双方をそれなりに面白いと思える人こそ、映画を真に理解するだろうが、最初に書いたように、何事にも常に賛否がある。話を戻して、様式性が感動を与えるのは、様式の向こうに人間の真実味が見えるからだ。文楽はそのいい例だろう。『ラブレイン』にはその真実味をあまり感じることは出来なかったのは、監督が童話をイメージし、その様式性の中で隠喩を汲み取らせたいと思ったからであろうが、そのことがあまり成功しているとは感じられなかった。それは登場人物の多さによる筋立ての未消化さに一因があろうし、また「愛と葛藤」のその葛藤の部分が深く追求されていないように見えるからだ。役者の演技不足か、筆者の感情の不足によるものか、どちらかわからないが、簡単に言えば感動らしきものがない。これは筆者がその脚本に描かれる人間関係とはあまりに無縁な人生を歩んでいるせいだと言われればそれまでで、つまりは前述した旧世代のわからず屋ということだ。こう書きながら、『ラブレイン』と『情事』を比べることがやはり無理だと感じている。それで今度は『情事』の中で筆者が気になった場面をいくつか紹介する。
 ヒロインのクラウディアはモニカ・ヴィッティが演じる。1931年生まれであるからこの映画の時は29歳であった。色気充分といった年齢だ。彼女の顔を筆者はアラン・ドロンと共演した『太陽はひとりぼっち』のシングル盤のジャケットでよく知っている。この映画音楽は大ヒットし、ビートルズが日本に紹介される直前に盛んにラジオから鳴った。そのため、よく覚えている。映画はTVで放映されたのを見た記憶があるが、ほとんど忘れてしまった。それで『情事』は筆者が初めてじっくり見たアントニーニの作品だ。クラウディアと恋仲になるのが建築設計士という設定のサンドロで、ガブリエーレ・フェレツェッッティが演じる。モニカより6歳上で、マストロヤンニほどに甘い顔ではないが、似た雰囲気のイタリアの色男だ。映画の大部分は、このふたりがロード・ムーヴィーのように南イタリア各地を転々とする場面が占める。それは、仲間と一緒のヨット遊びから島に上陸した途端に失踪したサンドロの恋人アンナを探すためだが、いつの間にかクラウディアとサンドロは関係を持つ。そのことをサンドロはクラウディアに「新たな情事の始まり」と言う場面がある。これは男につごうのいい言葉で、純心に見えるクラウディアには承服し難い。そのため、すぐにクラウディアはむくれるが、サンドロは「冗談が通じないな」とか言いながら、愛撫のために膝を立てたクラウディアにしがみつく。この場面はかなり際どい。もう少し描けばサンドロはクラウディアの両足の中に手を差し入れるだろう。そんな大人の行為が匂わされるところ、この映画がイタリア本国で不謹慎とされ、あちこちカットされたことに納得が行く。アンナは外交官の令嬢で、そんな娘がサンドロとどういう経緯で出会ったかは描かれず、またクラウディアの職業や家柄は一切描かれない。これはクラウディアの財産はただただその若さと美貌ということになって、監督の女性への眼差しが垣間見える。サンドロは中年の魅力を発散し、また金もある。そして何よりアンナの恋人という点でクラウディアな無意識のうちにサンドロを男として意識したのであろう。そう思わせるほどに、物語はクラウディアがサンドロの強引な迫りに徐々に惹かれ、やがて全面的に女心を曝して彼を求める。その様子は恋愛をしたことのある人には実によくわかる変化で、監督はうまく描いている。とはいえ、サンドロはアンナの恋人であり、またアンナは失踪中であるから、クラウディアは内心穏やかではない。アンナを探し出すという気持ちと、アンナが現われてサンドロを奪われたらどうしようという思いの交差だ。その揺れる思いをモニカ・ヴィッティはうまく演ずる。サンドロは肉体関係にあるアンナが失踪したばかりであるにもかかわらず、すぐにクラウディアに手を出すのはあまりにも軽々しいが、男とはそういうものだ。また、映画の最初に描かれるように、アンナはサンドロと会いたくないことをクラウディアに告げながら、会えば体を重ねてしまうという関係で、アンナはサンドロから逃れたかったと読み取れる。実際アンナはサンドロに会わないとクラウディアに腹立たしく言う場面がある。ふたりは倦怠期か、あるいは別れる寸前にあったとみてよい。それはサンドロの行為が不謹慎だと責められないように、監督が言い訳めかして書いた設定かもしれないが、そのようにどう読み取ってもいいような描き方はこの作品全体に散りばめられている。そこが韓国ドラマの、無駄のないあまりに説明的な場面とは違って、作品にふくらみをもたらせている。
 たとえば、クラウディアがひとり鏡に向かってしかめっ面やそのほかさまざまな表情をして見せる場面がある。それは筋立てにとって不要だ。なくてもいい場面をなぜ挿入したか。そこにこの映画の面白さがある。韓国ドラマでは絶対にそのような場面はない。意味不明の場面がないため、登場人物はかえってロボットのように取り替えが出来て、決まり切った起伏を描きながらドラマは進む。それこそが様式性であって古典的なドラマという見方がある。それはそうなのだが、美しいクラウディアが鏡の前でしてふざけて見せるひとり芝居のような場面は、人間の真実味を感じさせる。人間はそのように時として意味のない行動、自分でも意識しない動きをする。また、クラウディアとサンドロがシチリア島の各地をアンナの消息を辿って点々とする中、こんな場面があった。ヨットで遊んだ仲間がすでに戻っている大きな屋敷に戻る途中の電車の中で、クラウディアはサンドロから逃れて電車の中を歩く。すると、あるコンパートメントに男女が座っていて、しきりに男が女を口説いている場面を目撃する。それを見ながらクラウディアは笑う。この場面も映画全体から見ればなくてもいい。何のためにこんな場面を挿入したのかと立腹する人もいるだろう。サンドロから逃げながら、すぐに追いつかれ、ふたりで他人の恋の始まりを覗き見して笑うとは、あまりに心の変化が激しく、行動に統一がない。だが、それでこそ、クラウディアの揺れる女心をよく示し得ている。なくていいと思えるこの場面はやはり重要なのだ。この映画からそのような一見不要と思える場面を取り除いて行くと、おそらくほとんど何も残らない。それではクラウディアとサンドロの微妙な心の変化のようなものが描き切れない。描き切れてもとても安っぽく、ただの三流の映画になる。もっと言えば韓国ドラマに描かれる恋愛のように、最初からわかり切ったものになる。不安を抱えたままの恋愛とはそのようなものではない。先に書いたように、この映画は本当の恋愛をしたことのない人にはわからないだろう。また、男の目から見た恋愛かと言えばそうではなく、クラウディアの側から見た恋の情も正確に描かれていて、その点では男女平等の思いが伝わる。自殺したかもしれないアンナの消息が不明であるのに、サンドロをほしがる自分を見てクラウディアははしたないと思うが、男の魅力に抗することが出来ない。これは実に正直で、そういう女心を知り尽くしているサンドロであるからこそ、クラウディアに言い寄った。30半ばで独身、しかも金もたっぷりある、また美とは何かをよく心得ているサンドロであれば、クラウディアを目前にしてほしがらない方がどうかしている。筆者がサンドロでも同じことをしたと思う。
 クラウディア相手にサンドロはついに「結婚しよう」と言うが、クラウディアはそれを喜びながらも不安が去らない。その理由は、サンドロが軽い男かという猜疑心と、アンナが出現すればどうしようかという不安だろうが、それ以外にもあるかもしれない。そう思わせるほどにこの映画はクラウディアの表情だけで、内面を語らせようとする。モニカ・ヴィッティはイタリアの美人の典型だろうか。日本で言う美女とは少し違う顔立ちと思うが、色気は確かにある。面白い場面があった。サンドロとクラウディアはいろいろと調べ上げてアンナがいるかもしれない宿に到着する。クラウディアはサンドロをひとりで行かせて自分は通りで待つ。すると昼間からぶらぶらしている男どもがじろじろとクラウディアを見つめる。不安になった彼女は通りを歩くが、さらにクラウディアに注目する男は増え、数十人といった具合になる。それほどシチリアには仕事のない男たちが多いということも示しているのだろう。クラウディアが大都市からやって来たことは明白で、しかも妙齢の美女となると、男は誰でも興味津々で彼女を舐め回すように見る。そういう魅力的な女であるから、アンナがいなくなった途端にサンドロはキスをし、ふたりの関係が始まった。クラウディアが感じる不安は、独身のサンドロが抱える苛立ちによるだろう。サンドロは建築家で、美しい建築物を設計したいと思っているが、小学校の校舎の構造計算を知人から依頼されて400万リラという金を得てからはもっぱらそういう仕事に手を染めていることが暗示される。アンナの消息を求めて、サンドロはクラウディアとふたりでシチリアの古い町に行き、立派なカトリックの聖堂を宿の部屋から眺める場面がある。それはこの映画で最も美しい場面だろう。ふたりは尼僧の引率で教会の屋上に上がったりする。サンドロは自分の仕事の愚痴を言い、クラウディアはまた建築の設計仕事に戻ったらと助言すると、サンドロは昔は数世紀持った美が今では20年と言う。これはサンドロの空しい心のうちをよく示す。全くそのとおりで、眼前の教会はびくともしない美しさをたたえているのに、都会の建物は20年で流行が変わる。これは女も同じだ。それでせいぜい若い時は男女ともに恋をすべきということなのだろうが、それで満たされない思いをサンドロもクラウディアも抱えている。それはアンナの失踪のほかに、1960年という時代背景のためでもあろう。その時代の空気は今となってはわかりにくいが、当時似たような雰囲気の映画が目立ったとすれば、この映画のサンドロとクラウディアはその時代の典型的な人間像を見せたことになる。人間もまた時代とともに変わるので、サンドロとクラウディアのふたりの思いに同調出来ない人があってもそれはそれで仕方がない。サンドロの苛立ちは、教会の装飾をインクとペンでスケッチしている若い男性を見た時の行動にも示される。勉強家のその若い男性を嘲笑するかのように、サンドロはあえてインク壺を倒してそのスケッチを台無しにしてしまう。当然若者は立腹して喧嘩になりかけるが、サンドロは相手に何歳かと訊き、自分も若い時は血気盛んであったと告げる。つまり、サンドロは建築家としてはもはや限界を感じ、美を創造することが出来なくなっていることを知っているのだ。この苛立ちは、美が20年しか持たないという発言の源になっている。そのことで思うのはこの映画の監督が美をどう思っていたかだ。自分の映画がせいぜい20年ですっかり忘れ去られると思っていたであろうか。半世紀後の今、筆者はこの映画は少しも古びていないと感じる。
 サンドロが外交官の娘と恋愛をしながら、彼女から愛想をつかされたのは、サンドロのやる気のなさが原因であったと見ることが出来る。それを自覚するサンドロは、どこかで悪循環を断ち切りたく思っていたが、そこにクラウディアが現われた。そして彼女と結婚するとまた新しい人生が待っているかもしれない。そのことをクラウディアも感じたであろう。ところが、サンドロはクラウディアの思いもかけない行動をする。構造計算の仕事をもらった知人が所有するのだろうか、ホテルのような古い邸宅に戻って来たサンドロとクラウディアだが、サンドロは部屋に戻って来ない。不安になったクラウディアは明け方庭を歩き回ると、サンドロは招待客として来ていた女優と寝ていて、その場面を目撃してしまう。一夜のアヴァンチュールをサンドロは楽しんだのだ。結婚しようと言ったばかりのクラウディアを放っておいてその行為はないが、男とはチャンスがあれば美女といつでも寝たいと思っている。サンドロは男として正直なだけだ。だが、さすがにきまりが悪く、クラウディアに泣きつく。それを優しく包むかのような素振りを見せるクラウディアで、ふたりはそのまま結婚するかどうかわからないところで映画は終わる。またアンナの消息はわからないままだ。この不安を抱えたままのふたりは韓国ドラマで恋愛する男女とは全く違う人物像で、これが2時間少々の映画であるから許されるものの、数十時間単位の韓国ドラマでは誰もが納得出来る結末とせねばならないだろう。この多くの人を納得させるという条件を面白くないと見る自由はあるが、それを言えば最初に書いたように、どんなものでも好き嫌いの意見はある。最後に書いておくと、ヨットでとある島に上陸するサンドロやクラウディア、アンナらのグループだが、その島は溶岩で出来ていて、その異様な威容はアンナの失踪にはふさわしい舞台だ。この島の場面は新藤兼人の『裸の島』を思い出させた。誰もいないと思える島に雨が降って来てサンドロらはとある小屋に雨宿りをするが、間もなく英語を話すおじいさんがやって来て、壁に貼った写真の説明などをする。このおじいさんの登場も映画には直接的には何の関係もない。同じように次々とわずかに登場する人が続くが、それらの人の間を縫ってサンドロとクラウディアの恋が高まって行く。それを描くためには時間の経過とそれを示すための人との出会いが必要であった。白黒映画ながら、どの場面も印象的で、南イタリアを旅した気分になれた。
by uuuzen | 2012-11-13 23:59 | ●その他の映画など
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