鳴るのか鳴いているのかわからないことが昨夜あった。3ページにわたる自治会の規約案をようやく文章化し、それを河原町の5円コピー屋で140部とって来たものをホッチキスで留める作業をしていた時のことだ。
作業に取りかかって5分も経たない頃にリズムに乗り、ほぼ同じ秒数で1部ずつをこなした。その最中にかすかにピッと鳴る音がする。それがどこからか、また何かわからない。10回ほど聞いた頃、隣にいた家内にその音のことを言った。すると聞こえないと言う。TVの音を絞り、相変わらず作業の手を休めないでいると、やはり同じような間隔で聞こえ、家内もようやく納得したが、虫の声だと言う。数銃秒間隔で1回聞こえるから、まさか虫ではない。虫ならば外からのはずで、暗い表に出てみた。聞こえない。たまに家の中に秋虫は入って来るから、どこか扉の陰にでもいるかと思って探すと、見つからない。晩秋になって弱った虫が最期の力を振り絞って数十秒に一回鳴いているのかもしれないと思い直し、作業を終えて2回のトイレに行った。すると先ほどより音が大きく聞こえる。これは筆者の身のどこかに虫がくっついて来たのか。まさかそれはないと思い、家内を呼んだ。どうやら2階の部屋から聞こえる。階下で聞くより数倍大きい。そして電子音で、虫の声ではないことがわかった。つまり、「鳴って」いる。時計でその音の間隔を測った。すると30数秒という不規則だ。今度は時計が鳴っているのかと思い、倉庫と化している部屋の荷物をあちこち移動して時計を探した。家内は使っていないデロンギのオイル・ヒーターだろうと言う。電源を入れていないのでそれはない。それにしても家内と筆者も、音の方向がわからない。怖がりながら5分ほど探し回ると、家内が天井から聞こえると言い出した。ようやくわかった。火災報知器だ。椅子に乗ってそれを外すと、電池切れの警告音で、37秒に1回鳴ると小さな文字で書いてある。空き部屋になっているのになぜ取りつけたのかと家内はうるさく言い、結局無用と判断してしばらく外しておくことにした。電池は直方体のあまり見かけないタイプで、近くのスーパーでは売っていない。たいていの火災報知器は10年ほど電池が持つが、筆者が買ったのは旧式なのか、毎年交換する必要がある。その1年が経ったようだ。電池が10年持つと言われるタイプが、実際はそうではなく、出火を知らせてくれなかったという事故があるので、面倒でも毎年電池を交換するタイプの方がいざという時には役立つかもしれない。便利さを求め過ぎると、そのしっぺ返しを受ける。虫の鳴き声かと思ったものが火災報知器の音とは、ま、これも虫を捕えたことになると言ってよいが、怖さは原因不明のことに動揺して起こることを再認識した。音の出どころがわからず、放置しておこうかと一瞬思ったが、気になって眠りにつけないだろう。まさか出火や爆発の危険はないはずが、夕方まで家内と出かけていたので、昼間に空き巣で入って時限爆弾でも仕掛けたかと思いもした。日常とあまりに違うことが生ずれば、その原因を確かめるのが普通だ。
日常と違うことの代表が空き巣というのは怖い話だ。昨日はネットで空き巣に入られやすい家の条件というコラムを読んだ。そのいくつかの項目のうちにわが家も当てはまっていた。これから老人家庭がますます増加し、今までおれおれ詐欺をしていた若い連中はもっと強引に老人から金品を奪うだろう。空き巣どころではなく、老人世帯だとわかればそのまま押し入る。抵抗されても腕力で勝つから、怖くはない。ドストエフスキーの『罪と罰』の世界の頻出だ。こうなると一番いいのは、老人が金を持たないことだ。貧しそうな家に住み、身なりもそうする。だがこの考えは甘い。今度はそんな老人は国家のためにならないとみなされて放火される。昨今のホームレスが襲撃される事件がいい例だ。ともかく、これからの日本は若者が老人を食い物にする時代が絶対に来る。日本は老人を敬うという教育はとっくの昔に放棄した。そこで今後は老人の自衛に関する商売が流行るだろう。部屋に押し入って来た者を感電させる道具などはどうか。これは忘れやすい老人が逆に被害に遭う。銃を所持してよいアメリカでは侵入者を銃で脅し、場合によっては発砲する。日本も2、30年後にそうなっているかもしれない。ところがこれも老人には具合が悪い。押し入る者が銃を持つからだ。結局老人は若者の餌食になるしかない。充分生きたのであるから若者に少しはいい目をさせろよという声が暗黙のうちに大きくなり、老人被害は事件として扱われなくなる。おれおれ詐欺がそのいい例で、被害に遭った老人を憐れと思う向きよりも、えらく大金を持っているではないかといった妬みが湧く。それでまた『罪と罰』に描かれる殺人が流行る。この弱者を殺すという行為は虫の世界では、いや生物の世界ではあたりまえに行なわれている。弱肉強食だ。人間のいじめの問題も、根本はそこにあるという見方も出来る。雛に餌を運ぶ鳥だが、数羽のうちの最も育ちの悪い者は圧倒されて餌をもらえる確率が低い。そうしてますます体力の差がつき、しまいには餓死する。親鳥がもっと平等に育てればいいものをと思うのは人間の優しさだろうが、そんな慈悲を起こすと雛全部がうまく育たないこともあるかもしれない。そこは親鳥に訊いてみないことにはわからないが、生物の世界では、意識的かそうでないかは別にして、間引き的なことが存在する。間引かれたものは他の動物の餌になったりもする。これを競争の原理が働いていると見てよい。先ほどは生活保護を受ける外国人は国に帰るべしと意見しているタレントがいるというネット記事を読んだ。日本の経済悪化によってまずそんな意見が出て来るのは、動物並みの弱肉強食化が進むことを意味している。これを文化の退化と見るか、進化と見るか。虫や鳥並みに潔くなるのは自然であるという見方をする人もいるだろう。たぶん評論家はそんな意見をすぐに書いて金を稼ぐ。そこで忘れられるのが、子に何も期待しない親鳥の愛だ。弱者を助けるのは人間愛だが、その陰で無償の愛とは無縁の連中が大勢いる。
今夜も捕まえた虫の写真を載せる。家内が夜に見つけた。小さなクワガタだ。3階のパソコンの前でその写真を撮り、その後すぐに下の暗い裏庭に放り投げた。ガサッという音がした。後は知らない。ついでに書いておくと、一昨日郵便局に行く途中で、以前書いたのと全く同じようにペルシャ絨毯のような模様の蝶が向こうからやって来た。それを捕まえようと待ちかまえ、そして捕獲のために傍から見ると踊っているとしか思えない動きをしたが、筆者に捕まるほど弱ってはいない蝶で、ひらひらと遠くへ去った。そのため、蝶を捕まえて撮った写真を載せることは出来ない。これが残念だが仕方がない。代わりに、いやそうでもないが、蜘蛛の話を。生きた蜘蛛を指でつまんで写真に撮る勇気はない。第一じっとしていてくれない。1,2か月前にYOUTUBEで蜘蛛がほかの虫を食べるために糸を吐いてぐるぐる巻きにしている映像を見た。その手際のよさに感心していると、突如出現した10倍ほど大きな蜘蛛によってその小さな蜘蛛は一瞬で食べられてしまった。種類が異なるから、これは共食いにはならないのだろう。まさに弱肉強食で、しばし慄然とした。一昨日の夜、風呂場で体を洗っていると、背後のタイル壁に全長5ミリほどの、淡いベージュ色で、足がきわめて細い蜘蛛を見かけた。石鹸の泡や湯にかからないように必死でタイルの目地を上って行くが、滑りがきついのか、すぐに床に落ちる。上り下りを何度も繰り返すので、石鹸の容器に載せて水のかからない場所に置いてやった。芥川の『蜘蛛の糸』を少し思い出した。そんなちっぽけな蜘蛛の命など、どうでもいいと言えば全くそのとおりだ。だが、賢さが伝わった。筆者の気配を感じて必死で逃れようとしている。これが全く鈍感な動きをしていればさっさと熱湯をかけて下水に流したが、安全なところに逃げようという思いがひしひしと伝わった。これは殺すわけには行かない。そんな小さな蜘蛛でもほかの虫を食べる。そしてほかの虫に食べられる。それが自然で、人間は自然かそうでないか。