瞑想には最適の静かな演奏だったのかどうか。ボブ・ジェームスのピアノ・ソロ・コンサートが先月8日に京都の東福寺であった。そのことを波動スピーカーの芦田さんからメールで教えてもらったのは5日のことで、もう金沢行きを決めて旅館も予約していたので断りの返事を出した。

このコンサートは、京都の禅寺ならばということで急きょ実現したらしい。和のイメージに触発されて、即興演奏は冴えたかもしれない。京都ではジャズ・ファンがピアニストのアブドラ・イブラヒムやランディ・ウェストンを10年ほど前からよく招き、上賀茂神社でコンサートを開いている。アブドラのCDは2,3枚聴いたことがある。その独特の神秘的な味わいは他に似た演奏を思い出させない。静かな演奏だが、軽く聞き流して洒落た味わいに浸るという種類の音楽ではなく、身がひきしまる。ジャズ・ピアニストが京都ならではのそうした場所で演奏することをボブは知っていたのだろう。前宣伝がどれほど行き届いていたのか、おそらく二、三百人程度でいっぱいになる場所を使ったと思うが、それだけにジャズ・ピアノ・ファンにとってはめったにない機会であった。筆者のようにもっぱらCDで、しかもうるさいロックをよく聴く者にとって、ジャズ・ピアノはやや別世界の音楽だ。よく知り、またファンであるほどのジャズ・ピアニストはいない。だが、クラシック音楽も含めてピアノ曲は好きだ。そしてボブ・ジェームスの名前とだいたいの音楽性は知っている。いや、そのつもりでいる。今日ボブの曲を取り上げる理由は、ひとつには先月のコンサートが見られなかったことだ。もうひとつは先月ようやく映画『バリー・リンドン』を見たことによる。この映画に関してはいずれ感想を書くかもしれない。封切りが1975年で、スタンリー・キューブリックの作品だ。封切り当時とても評判になりながら、見る機会を逸した。その後ずっと見たいと思いながら40年近く経った。昔TVで放映していたことを記憶するが、録画し忘れた。本当に見たいならばレンタル・ビデオ屋に走ればよかったのに、そこまでしてというつもりはなかった。映画通の友人Fに録画したものを所有しているかと訊いたこともある。それももう30年ほど昔のことだ。このDVDを先月右京図書館で見かけ、即座に借りた。長年の思いがようやく満たされた。驚いたのは映画の最初の方で今日取り上げる「アイルランドの女」が流れたことだ。そう言えば封切り当時、TVでこの映画を紹介する時に同曲が流れていた。覚えやすいメロディなので一度聴いただけで覚えた。映画を見てその演奏がチーフタンズであることも知り、なるほどと思った。筆者がこの曲を最初に聴いたのは映画の封切りと同じ頃だった。あるいは少し前か。FM放送で耳にした。長い演奏であったのでよけいに覚えた。そしてボブ・ジェームスと言えばこの「アイルランドの女」を連想するようになった。この曲をたいそう気に入りながら、LPもCDも買わなかった。二、三度中古レコード店でこの曲が収録されるアルバム『THREE』のジャケットを手に取ったことがある。買えばよいものを、ほかに買うものがあって手を出さなかった。人生にはそういうことがよくある。気になりながら数十年が過ぎ去る。そういうことの連続が人生だ。それでも先月はついにこの曲を自分のステレオで聴こうと決めた。ラジオで一度だけ聴いて感激した時からほとんど40年近く経っているが、昔聴いた時と全く同じ思いが湧く。音楽は不思議なものだ。初めて聴いた当時の思いにすぐに連れ去ってくれる。何十年も会わなかった恋人にようやく会えたという気持ちだ。
『バリー・リンドン』ではこの曲はさほど重要な位置を占めていない。冒頭近くのわずかなエピソードに用いられるだけで、同映画ではもっと重要な音楽が別にある。それはいいとして、この曲が同映画に使用されたのは、アイルランドの女が出て来るからだ。その背景に少し流れる。そのことにほとんど意識をとめない人も多いだろう。映画を見るのに音楽まで気にする人はどれほどいるだろう。そう言えば一昨日インド映画をTVで10分ほど見た。面白かったのは音楽だ。それは西洋や日本の映画とは全然違う種類のもので、研究に値する面白さがあった。話を戻して、ボブがこの曲を録音したのは75年11月から翌年1月までの間で、映画の封切り後だ。ということは映画に触発されてこの曲をアレンジして自作に収めようとしたと見てよい。その目のつけどころにボブの斬新なものを取り入れるセンスが光っている。先月ママゾンで買ったボブのアルバムは、第3作目のソロ・アルバム『THREE』だけではなしに、第1作から4作までを2枚組CDに詰め込んだ廉価盤だ。そのジャケットは当然『THREE』のそれとは異なるが、CD1枚の価格でアルバム4作が楽しめるのはよい。最近そういう安いCDセットが増えた。音楽ファンにはありがたいことだ。この2枚組はまだ何十回と聴き込んではいないが、予想したとおりの音で、意外性はほとんどない。ブックレットにはボブの音楽を「SMOOTH JAZZ」と形容している。これは誉め言葉になるだろうか。「SMOOTH」は難解な曲でも滑らかに演奏するという意味では誉め言葉だが、あまり内容がないため、簡単に聞き流してしまうという意味にも取られる。おそらくその両方を兼ねてこの言葉を使っているのだろう。BGMには最適な万人受けする音楽と受け取っても、ボブの才能を貶めることにはならないだろう。そういうソフトなジャズを否定するジャズ・ファンは多いが、ソフトであることと内容に乏しいことは無関係ではないか。筆者はどちらかと言うと過激な音楽が好きだが、一般受けするものを否定する気もあまりない。いいものはやはりいいからだ。ボブの経歴を先ほど調べると、ザッパより1年早く39年の生まれだ。そして、65年に電子音楽を交えてトリオによるアルバム『EXPLOSION』を発表している。これはかなり実験的な内容でその後のボブからは想像しにくい音らしい。こうしたあまり一般受けしない音楽をやるのは20代の特権だ。若い頃にそのように尖っていなければ、その後はつまらない作品を生むしかない。そう考えると、フュージョンの売れっ子として有名になった70年代前半頃の作品はそれなりに確信犯的な行為によるもので、内容の乏しい薄っぺらな音楽と一蹴することには無理があろう。ザッパとは違ってジャズ畑を歩んで来ているし、またザッパと共演したジョージ・デュークのように黒人でないところからは、クラシックや現代音楽により接近した曲を書くことが想像される。これはそのとおりだ。筆者が買った2枚組はクラシックの名曲のアレンジが目立つ。そういう傾向はボブに先立つピアニストとしてジャック・ルーシェやオイゲン・キケロに例があるが、ボブはもっと多彩な楽器編成にエレクトリック・ピアノを使うなど、いかにも70年代を思わせる音を奏でる。つまり、フュージョン時代の一翼を担った。このフュージョンはジャズ寄りとロック寄りに分かれる。筆者が好むのは過激つまり素早い演奏でしかも大音量のロック系だ。それはともかく、フュージョン音楽は今聴くととても古臭いという意見がある。家内も筆者もアマゾンから届いてすぐにボブのCDを聴き始めた時、そう思った。だが、じっくり聴き込むうちにそれは消えた。『EXPLOSION』は60年代半ば特有の一種の暗さがあるはずで、それも時代の産物そのものと言ってよい。どんな音楽でも時代性をまとう。それを単に古臭いで片づける聴き方もあるが、そういうように聴く人の中にも古さが宿っている。たとえば60年代半ば以降に生まれた人は60年代半ばの空気を知らないと言うが、実際は親が知っていたから、遺伝子的に記憶している部分はあるはずだ。つまり、どんなに古い過去でも人間は味わうことが出来る。人間はそうして永遠の命を保って行く。そのように考えると、音楽の古い新しいはない。また、「新しい」は「古い」があってこそで、「古い」を知らねば「新しい」はわからない。
ボブ・ジェームスという名前はあまりにも平凡で、無名性を思わせる。それはボブの顔にも言える。名前どおりに平凡で、とても芸術家とは思えない。腕のいい職人といったところだ。それは『EXPLOSION』の実験性をその後も先鋭化させなかったことから言える。だが、売れない作品を書き続け、そのアルバムを発表してくれるレコード会社はないだろう。売れないことはいずれ作曲の筆を折ることであり、好きなことが積極的に出来なくなる。ではボブはその好きなことを悪魔に売ったか。そうではないだろう。演奏が好きで、音楽が好きという思いが満たされればよい。買った2枚組は陽気というほど騒々しくはないが、かと言って悲しみとは全然違う落ち着いた曲ばかりで、音楽の知識があまりない人でもよくく楽しめるだろう。一般受けするそうした音楽を聴くのは時間の無駄と思っている人は、音楽の意味をあまり知らない。実験的な音楽ばかりに創造性があるのではない。また、その実験的には狭い意味と広い意味がある。狭い意味の実験は蛸壺のように閉鎖的で、ほかに広い世界があることを無視してしまう。実験を言うのであれば、それは蛸壺の中だけではない。音楽はそんなに狭く、小さなものではなく、無数の実験があり得る。そうボブが考えたかどうかは知らないが、74年に設立したTAPPAN ZEEレーベルから発売した最初の4作、つまり筆者が購入した2枚組CDを聴く限り、そうした実験性が伝わる。それが前述した古さでありながら新しいと感じるゆえんだ。実験性はたとえば「アイルランドの女」にも言える。ケルト・ミュージックのポピュラー化は80年代にあった。それ以前にチーフタンズがどのように聴かれていたのかは知らないが、関心を抱くプロの音楽家はいた。そのひとつの例がボブということになろう。そして、ボブはその完成された曲の調べをどうアレンジするかに際して、何とレゲエを合体させた。75年にレゲエを用いるのは早い方であった。ジョン・レノンは73年に用いているから、まだ一般にあまり馴染みのない要素を取り入れることは70年代前半に盛んに行なわれた。この諸要素の融合をフュージョンと言い、1940年前後生まれの作曲家がその時代を築いた。いわゆるフュージョン音楽はあれこれ混ぜはしたが、その結果どれも似た感じのものとなって、すぐに飽きられたと言ってよい。ただし、フュージョンの概念は死滅せず、今なおあらゆる要素が混ぜ返されている。その一方で70年代のフュージョンはひとつの規範としてあたりまえに演奏されるようになり、人々にも知れわたった。ボブのその後の演奏がどうなのか全く知らないが、東福寺でのピアノ・ソロが、たとえば70年代半ばのアルバムから、そのピアノ演奏の部分のみを抽出したようなものであるのかどうかが知りたいところでもある。もしそうならば、ボブは成長しなかったことになるが、ボブの70年代半ばのアルバムを聴く限り、そのソロの特徴を知ることは難しい。まだ聴き込まず、また多彩な楽器の色に隠れているからでもある。その多彩さを全部脱ぎ去った時、つまり裸になったピアノ・ソロがどういう面影を宿しているのか、これは最新のアルバムを聴いてみないことにはわからない。また、日本に関心があることは、「アイルランドの女」を録音したことの延長として理解出来る。それはジャズに本来なかった要素を持ち込む考えで、フユージョンで培った精神だ。そうなると、東福寺での演奏は70年代半ばの何かをまだ秘めていることになる。ボブは年齢を重ねて枯れているはずで、70年代半ばにはよく見えなかった部分がかえって鮮明化しているかもしれない。