尋ね尋ねて東の崖に立つ坊主。香林坊がお坊さんの名前であったように、東尋坊もそんな響きがある。気になって今調べると、「民に巨悪の限りをつくした怪力の悪僧」とある。ま、この有名な断崖絶壁を、金沢に行く途中で見ようと決めた。

そのことを家内に言わなかった。福井でまず下車したので、家内はいったいどこへ行くのかといぶかった。えちぜん鉄道に乗り換える時に初めて東尋坊へ行くことを告げると、昔行ったことがあると言ってふくれ面をした。筆者も昔行ったことがある。家内が行ったのは社員旅行だ。それを覚えていないのかと家内は言ったが、筆者にはその記憶がない。もうボケが始まったのかと家内はうるさい。家内が福井へ社員旅行で行ったの、筆者が会社を辞めてからのことだ。それで家内は納得した。筆者は3年しか会社にいなかった。家内はそれから2年ほど勤めた。その間に永平寺や東尋坊に行ったのだ。筆者は永平寺には行ったことがない。筆者が最初に東尋坊に行ったのは学生時代だ。天竜川支流の真名川にダムを建設する計画があり、大野市にあるその工事事務所に夏休みを利用して研修に行った。当時の大野は人口が1万で、1か月ほどの滞在中に全員の顔を覚えた気になった。今は倍増しているようだ。とても水がきれいな静かな町で、他府県で成功した地元出身者が故郷に錦を飾るために丘に建てた城があった。その城も見たことがある。そうそう、思い出した。その城の内部を見ていると、髪の長い20代半ばの女性がやって来た。旅行者であることはすぐにわかった。女のひとり旅で大野市とはえらく珍しいのではないかと思った。その女性のややがっちりした体格や顔つき、また服装まで覚えている。傷心旅行には見えなかったが、どことなくさびしそうな気配があった。城の中の展示はたかが知れている。彼女の姿を見たのはせいぜい10分ほどだ。また城の中はほかに人がいなかった。この城には2,3度上った。ある日、城の中から眼下の町を眺めていると、厚い黒い雲がぐんぐん迫って来た。雨に打たれるとばかりに急いで丘を降り、寮に向かって走った。ところが間に合わない。背後から追い着かれ、一気にびしょ濡れになった。ほかにもたくさんの思い出がある。大野市は福井から乗り換えて山間部に電車で1時間ほどのところだ。途中に「轟(どめき)」という名の駅があったことを思い出すが、国鉄時代の話だ。JRになってからその単線は私鉄になったかもしれない。あるいは当時もそうであったか。山の中をどんどん奥深く進み、どこまで行くのかと思う頃にようやく到着する。2,3年に一度くらいはこの大野市の記憶を家内に話す。TVでは2年ほど前にこの町をほんのわずかだけ取り上げていた。ダムは筆者が建設設計会社に入ってから完成し、大野市のダム建設事務所は閉鎖され、市役所も建て替えられたはずだ。もう筆者が知る家並みの面影はないだろう。だが、大野城だけは変わっていないであろうし、それを見るだけも行く価値があるかもしれない。

東尋坊へ行くために、JR福井駅を出てすぐのえちぜん鉄道に乗った。ちょうどうまい具合に格安の1日乗車券が売られていた。途中下車してほかの場所を見ずに東尋坊を往復するだけでも安い。電車が動き始めてから家内はどうせなら大野市に行きたかったと言った。それは計画していなかった。途中で大きく計画を変えることを筆者は好まない。友禅の仕事が元来そうであるからだろう。最初に綿密に工程を決め、完成作を脳裏に描いてからそのとおりに作る。つまり、完成作は最初から頭の中にあって、それを他者が見えるようにすることが製作だ。これは描きながら考える油彩画とはまるで違う。どっちがいいのかわからないが、大きな建物などの建築物も最初の設計図どおりに仕上がる。そういう会社に勤務していた筆者であるから、何事も予め調べ上げ、きっちりと計画を立てて動くことが好きだ。ただし、それはすべてではなく、各ポイントのみだ。それらポイント間は自由であり、予期しないものに出会う。この計画性は人間にとって大事ではないだろうか。人生は限りがあるからだ。今自分が死までだいたい何年残っていて、元気でいられるのはどれほどかということを漠然とながらも考えなければ、望みの仕事は達成出来ない。そう言いながら、ずるずると日常に埋没してしまうのが人間の弱さで、筆者もその例からすっかり免れ得ない。話を戻す。家内の不満をなだめすかしながら、ともかく電車は各駅停車でどんどん北に進む。線路のあまりの真っ直ぐさと両側の車窓の景色が面白かった。まるで昔の市電で、民家がすぐに迫る。学生時代の研修では、大野市の役所から与えられた寮に住みながら、日曜日は自由時間で暇を持てあました。研修にはもうひとり参加した。おとなしい男で名前を思い出せない。彼はある日曜日、東尋坊に行かないかと筆者を誘った。まず福井に出、それからさらに1時間ほど同じような電車に乗らねばならない。それが億劫であったが、二度と行かないかもしれないので、行くことにした。ところが、家内と同じ電車に乗りながら、記憶が全く蘇らなかった。また、今は東尋坊に行くには、えちぜん鉄道の三国線に乗り、その終点から2キロほど海沿いを歩くか、3,4つ手前の駅で降りてバスに乗るが、昔もそうであったかが記憶にない。筆者の思い出の中では、電車を降りるとすぐに東尋坊前の商店が並ぶ道だが、それはあり得ない。どうやらバスに乗ったことを忘れているようだ。家内の社員旅行は貸切バスであったから、えちぜん鉄道には乗っていない。それで二度目ではあっても少しは旅行気分になれたのではないだろうか。

えちぜん鉄道で感心したのは、バス・ガイドのような制服を着た20代半ばの若い女性が車掌で乗っていたことだ。とても親切で、細々と神経が行き届いていた。なかなかかわいい女性で、バスに乗り換える必要のある駅のふたつほど手前を走っている頃、彼女のそばまで行って質問した。実は前夜に調べて地図をプリントし、バス料金も確認していたので、訊ねる必要はなかったが、念のためだ。早速近くの空いた席に筆者を座らせ、時刻表を手わたしてくれながら、説明してくれた。バスは1時間に1、2本しかなく、それとの乗り継ぎがいいように電車は走っている。そのため、東尋坊に行くには彼女が薦めるように終点まで行かずに途中で降りてそのバスを待つのがよいが、バス代はかなり割高で、電車賃より高かったと思う。また、あちこち寄り道をしながら東尋坊へ行くので時間もかかる。筆者は歩くのが目的で来た。終点から歩いても2.5キロ程度だ。だが、筆者のように海べりの道を歩いて行く人は少なくないようであった。寒い季節か雨天ならばバスを使ったが、のんびり歩くには最適な日和で、地図片手に歩くことにした。電車が終点に着いた時、彼女は指さしながら東尋坊方向をていねいに教えてくれた。2.5キロが遠いか近いかは人によりけりだ。見知らぬ土地では遠く感じる。だがそれがよい。筆者の計算によれば、3,4つ手前の駅で降りてバスに乗るより、到着は早いはずだ。おそらくバスを待っている間に東尋坊に着く。また、日本海を見ながら歩きたいと思った。そう言えば日本海を以前に見たのはいつだろう。鳥取島根へのパック・ツアーでも見なかった。ということはもう20数年になる。また金沢でも見ることはないから、ちょうどいい機会だ。終点の三国港駅はもろ海岸沿いで、眼前に日本海が広がっていた。そして海に面して車道があって、その脇の広い歩道を歩いた。いつものように家内は遅れる。その差は100メートルはある。たまに立ち止まって家内を待ち、30メートルくらいに縮まるとまた歩き出す。いつもその繰り返しで目的地に着く。ただしこれは見知らぬ場所で、しかもだいたいの方角がわかっている時だけだ。その日、終点で降りたのは筆者らのほか数名で、東尋坊に向かったのは筆者らのみであった。また、歩道際には民家や店があるものの、誰ひとりとして見かけなかった。それでも人の気配を感じさせ、さまざまな店は時間があればぶらりと入ってみたくなるものが少なくなかった。さて、今日は3枚の写真を載せる。最初のものは日本海だ。この写真を撮るのが東尋坊に行った理由でもあった。全く予想どおりに撮ることが出来た。この写真は杉本博司の有名なシリーズを真似している、空と海が写真を上下でちょうど二分している。このような広々とした海を見るのは気持ちがよい。これを撮った時、家内は筆者を置いてどんどん先を歩いていたので、この写真を知らない。2枚目は自販機。菓子を売っていた。珍しい。ブルボンは全国に名が知られるものの、二流メーカーだ。福井では勢力があるのだろうか。大阪と思っていたが、今調べると本社は新潟だ。すると北陸は縄張りだ。菓子の自販機は近くにコンビニがないことを暗示している。3枚目の写真は遠くに東尋坊タワーが見えている。三国港駅から5分ほどのところで撮った。学生時代にはこれはなかった。遠目に目印になってよい。かなり遠そうだが、周囲に建物がなく、比べるものがないせいでもある。家内はうんざりしたであろう。それでも仕方がない。「妻に悪の限りをつくした微力の悪僧」のような筆者の後を、黙って遅れて着いて来る。それはまるでふたりの人生の縮図だ。