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●『愛の群像』
読売テレビの深夜2時台に毎週2話ずつ放送されたが、途中で休みもあったので、半年以上かかって44話が終了した。つい2日前のことだ。これほど長いドラマを観たのは初めてだ。



毎週欠かさずテープに3倍速度で録画したが、44話となるとさすがにもう一度最初から観ようという気はあまり起こらない。『冬のソナタ』以降、ペ・ヨンジュンの日本での人気は絶大なものがある。数日前に映画『四月の雪』の公開に先立つキャンペーンのために来日した時も報道陣やファンが大挙して押し寄せた。ちょうど日本は選挙戦で、マスコミは連日その話題で持ち切りであったので、そのことにかすんでしまった来日だが、まだ当分人気は持続しそうな気配だ。『冬のソナタ』以降、ペ・ヨンジュンが主演したいくつかの旧作のTVドラマに一斉に関心が集まり、NHKを初め各民放も放送権を買って放映し続けている。そうした過去の作品の中でも人気が高いのは1999年制作の本作のようだ。NHKが放送しているさらに古い『初恋』は、本来60話だが、それでは放送し終わるのに1年以上もかかるため、40話の短縮ヴァージョンの権利を買った。韓国は週2回2日連続のペースでドラマが放送されるが、日本は日本の慣習があって、韓国にならう必要はないと思っているのか、今まで韓国と同様の方法で放送されたことはないようだ。ただし、本作の読売TVでの週2話の放送は、韓国での放送ペースと同じと言ってよく、毎週楽しむのにはちょうどよい長さであった。12や16話なら週1回でもよいが、40話以上となれば週2話放送があってよい。また、民放各局の地上波が韓国ドラマを放送する際、吹き替えが行なわれることが少なくなく、それも日本における韓国ドラマ・ファンの不評を買っている。つい昨日、ネット・ニュースに見出しがあったが、今秋以降日本における韓国ドラマの放送枠を一斉に民放が設けないことになったようで、急速に韓国ドラマ・ブームも冷えるのではないかとしていた。だが、元々深夜2時といった放送時間帯では観る人も録画をというのが大半であろうし、さらに韓国ドラマ・ファンは民放地上波の放送にはさほど頼らず、衛生放送やレンタル・ビデオ店から借りるなどしているので、民放が韓国ドラマを放送しなくなってもさほど人気は衰えないのではないだろうか。韓国ドラマの楽しみ方はもはや無料のTV、しかもカットが多いうえに下手な吹き替ではなく、ネットでの鑑賞も含めて多様化している。
 ペ・ヨンジュンの人気は韓国ではさほどでもないと言う。演技がうまいかどうかは人によって見所が違うので一概に言い切れないが、男前で体格も立派な、いかにも主人公にふさわしい俳優ばかりでは、味のあるドラマや映画を作り上げることは不可能で、いい味を出す脇役で固める必要がある。『愛の群像』は今までに観た韓国ドラマの中ではそうしたものの典型で、正直な話、ペ・ヨンジュンの演技を観るよりも、他の多くの俳優の個性的な演技が面白い。彼らは本作でしか観られない絶妙のバランスのよい世界を作り出しており、その独特の空気を楽しみたいために筆者は最後まで見通した。ペ・ヨンジュンも頑張っているのは否定しないが、44話の長丁場のドラマとなれば、主役の名演技では持たない。脇との絡みや、あるいは脇が時には主役のように目立つことで、全体が人生の縮図のようにリアル感を持って迫って来る。長いドラマを構成する時、登場人物の数や関係をどう設定するかが問題だが、あまり多過ぎると話が複雑になって途中で筋立てに無理が生じ、観ている方もだれて来る。それに、数年前といった過去に遡っての回想シーンを設け、それを別の役者に演じさせる手法を採ると、やはりドラマとしては失敗しやすい。話は一方向に流れて行ってわかりやすいのがよい。その意味で本作は冬の終わり頃から夏場までを順に描き、登場人物の服装や背景の花などの自然の要素も少しずつ変化して行くのがわかってよかった。ドラマがどういう季節を中心に撮影されたかは、ドラマにおける光の多さに関係してドラマの印象を強く左右する。『屋根部屋のネコ』は完全に真夏の物語で、西瓜や真瓜という夏の食べ物が色鮮やかに画面を装飾し、それがドラマの楽しさと相まって爽やかな印象を強く与えていた。本作の場合、季節は春や夏が中心になっているので、それなりに溌剌とした感じのものかと思いがちだが、室内での撮影が大半を占めていたこともあって、あまり季節感を伝えず、またドラマの終盤は急速に悲劇に向かうため、風景と馴染んだ詩的な場面というものはほとんど記憶には残らない。この点が『冬のソナタ』とは大違いで、ドラマが成功しているとは言い難い。ただし、そうした風景の美しさを多様な人間の表情で埋め、舞台劇として上演出来そうなところがある。それは本作の特長としてよい。
 『愛の群像』とはいい邦題だ。これは直訳かどうか知らないが、ドラマの内容を実によく伝えている。恋愛ドラマによくありがちな、若い男女の愛の駆け引きだけを扱ったものとは全く異なり、さまざまな世代の登場人物全員に相応の愛のドラマが用意され、それが微妙かつ複雑に入り交じって話が展開する。そのため、若い人だけではなく、中年や老年が観ても思い当たることが多く、注目する箇所も違うはずだ。そこはTVドラマの宿命で、たくさんの視聴率を稼ぐためには、どの世代が見ても楽しいものに脚本を構成する必要がある。その意味では本作は他にはない完成度の高さを誇っている。金言めいたセリフがよく発せられ、それらは記憶にかなり強く残り、それも本作に深い奥行きを与えている。44話を飽きさせず、しかもうまく話をまとめて行くのは並大抵の才能ではなく、最初からある程度は用意周到に事を運ぶ必要がある。ただし、韓国ドラマは途中で人気が増した場合は回数の引き延ばしがあったりするから、それをだれさせることなく、それなりに山場を作って見せるには、臨時的に登場させる人物も時には欠かせない。そうした例が本作の終盤には強く感じられた。それなりにうまくまとめていたが、どこか御つごう主義的な印象は免れない。ドラマを観ていて御つごう主義が垣間見えるとすぐに白けてしまう。韓国ドラマの作りが時に荒いと言われるのはそうした面だろう。つまり、どう話が転んでもいいのであれば、最初から真剣に観る方は馬鹿にされている気分になるし、自分勝手に話を作り変えてもいいことにもなって、それなら最初からそもそも観る必要もないことになる。たとえば、本作では終盤に主人公のペ・ヨンジュンが癌に冒されていることがわかる。これは唐突な筋書きだ。そうした兆候がそれまでほとんどなかったので、観ていて少々呆れた。ドラマを観る方としては、登場人物が癌になればそれが回復するのか、あるいは死ぬのかという方向でしか想像出来なくなるが、それまでの話のムード、ドラマの色合いからして、まさか回復はないことはわかっているから、後はかなり惰性で観続けて、予想どおりに主人公の死を確認するだけとなる。本作では死の場面は描かれないが、同じことだ。主人公を死なせる脚本が本作に必要であったとは到底思えず、むしろ生きて話がどう展開するかという、現実的なところを強く描いてほしかった。主人公は前半はとかく野心があって、かなり人を食ったようなところがある青年として描かれ、その彼が死ぬ筋立てはあまりにいい加減に思える。最初から死なせるつもりであれば、それまでの人生にもう少し死への暗示を匂わせておくべきで、それが脚本家の手腕ではないだろうか。優れた小説などは、そうした結末をまず最初に設定し、途中の話をすべてそれへの布石として描写しながら、なおかつそのことを読者に後で悟らせる方法を採るが、本作にはその重要な描写法が欠けている。
 結局本作が言いたかったことは何であったのだろう。ペ・ヨンジュンが演ずるカン・ジェホは不幸な生い立ちで、父親には早く死なれ、母親は他の男のもとに逃げたため、母の姉によって育てられた。弟子分のような無学な友人のパク・ソックと一緒に早朝から魚の卸売り市場で蟹を扱い、昼は大学に通う27歳だ。その年齢からして苦闘の生活がわかる。学歴社会の韓国では大学出でない者にはろくな仕事はない。そのことを端的に示すのがソックの人生だ。彼はジェホの妹から恋心を寄せられるが、ジェホは断じてソックとくっつくことを拒否する。つまり、ジェホは経済的に成功して親類縁者一同が暮らす貧しい住まいの一画から出たいと思っている。彼は大学で臨時講師としてやって来たばかりの30歳になるシニョンに興味を示す一方、シニョンの家に居候している金持ちの娘であるヒョンスにも近づこうとする。ヒョンスは同じ大学に通っていてやがてジェホを愛する。物語の大半はこのふたりの女性とジェホの三角関係で占められるが、シニョンの両親がジェホの育て親であるジンスクといろいろと関係があり、話は複雑かつ面白く展開する。またジンスクが住む部屋のすぐ隣といってよい場所に、あるおばさんが住んでいて、彼女の弟はかつてジンスクの恋人であったという設定だ。ただし、この弟は最後の3話から急に出現し、話のまとめを急いだ感が拭えない。その人物も含め、貧しい区画に住む人々はみなそれなりに仲よく生きている。本作での金持ちはシニョンや同居する両親、それにユン・ソナが演じるヒョンスだが、当然のごとく、自分たちは貧しい人とは格が違うといったように思っているふしがある。ところがここがなかなか見せどころだが、シニョンの父親は会社ではリストラ役をしており、その自分がやがて不景気のためにリストラされかかり、大きな家も売って狭いアパートに引っ越しする。この筋立ては、高慢な金持ちの鼻をへし折ることでドラマを観ている人々の溜飲を下げるためではない。本作ではそうした金持ちも根はいい人で、状況が変われば貧しい人や恵まれない人に理解を示すというように描かれている。シニョンの両親は達者な役者で、本作での存在感は特筆すべきものがある。この両親を主人公として本作を観るべきと言ってよい。結果的に本作には本当の悪人はほとんど登場しない。それは後味よく観られる一方、多少の物足りなさも感じさせる原因にもなっている。暴力シーンやアクションがほぼ皆無で、若い男性には面白くはないかもしれない。
 悪人はあまり出ないが、愚かな人間の行為はさまざまな形でうまく描写されている。これがよい。人間を美化し過ぎず、愚かさも含めて愛らしい人物をうまく描いている。それに、そうした人物の人間関係はかつての日本の映画やドラマにはあったかもしれないが、今ではすっかりなくなってしまったものだ。本作からは韓国にはまだ親類縁者が楽しく身を寄せ集めて慎ましく暮らす様子のあることがわかり、それを見ることが懐かしくて楽しい。愚かな人間の代表はソックで、演じるパク・サンミンはある意味ではペヨンジュンより存在があり、難しい役をこなしていた。ソックは結局ジェホの妹の強い主張によって一緒に暮らし、またソックも心を入れ換えて懸命に働くようになり、最後は子どもまで出来て幸福の象徴として結末を迎える。学はなく、ふらふらしてばかりで生活能力がないとされていたはずのソックが、人並みの結婚生活を送ることになることに対し、勉強も出来てガッツもあったはずのジェホは、好きなシニョンとは結婚出来ず、また金目当てに一緒になったヒョンスとはうまく行かずに、末期癌がわかってからまたシニョンの元に戻って結婚するという、揺れるばかりの人生だ。そしてほとんどまともな結婚生活も出来ないまま世を去るが、ここにどういう教訓があるのだろう。野心を抱いても愛を犠牲にするならばそれは虚しいということだろうか。癌で死ぬのがソックで、ジェホはそのままヒョンスと仮面の夫婦を続けながらも会社の社長となるという物語の方が現実的である気がするが、悲しい育ちをして健気でもあるジェホは、30歳にならずに癌で死ぬのであるから、人生の目的は金持ちになることではなく、真実の愛を手に入れることと言いたいのだろうか。それはさておきとても印象深い場面があった。ジェホがヒョンスと結婚して豪華な家に孤独に住んでいる時に、かつての親類縁者が1か所にまとまって暮らしていた住処を懐かしく思い出し、「自分は何をしているのだろう」と慨嘆するところ場面だ。これはよく気持ちがわかる。貧しく生まれても、それなりに人が多く集まって暮らしていたところに住み慣れた者は、豪邸に住んでも孤独感、疎外感を味わうだろう。結局人は金も大事だが人間的温かみがさらに大事なのだ。そのことを身を持って体験したジェホはすでに病魔が襲っていたから皮肉なものだ。人生は案外そうしたものかもしれない。そう考えると終盤の癌が発見されるという話もそれなりに納得せねばならないか。
 ソック以外の脇役もみなそれなりに人生を築き上げることに格闘し、馬鹿なことを次々としでかしはするが、最後はみな希望が持てるように描かれていた。ジェホはさんざんそうした周囲の人の犠牲になり、尻拭いの連続の人生で、そのためにいわば身を売る格好で金目当てにヒョンスとの婚約に漕ぎつける。そして、懸命に金策の日々を送ったジェホが死んでいなくなっても、さしてみんなの生活は変わらずに貧しいまま暮らして行くことは明白だ。本作では描かれないそのことを思えば、ジェホは安心して死ねるとしても、自分の野心は一体何であったのか、ただの徒労に過ぎなかったではないかという無常観に襲われるのではないだろうか。その意味で本作は主人公にとても残酷だ。それこそ貧しく育った者は野心すら持っては行けないのかといった見方がなされるだろう。1999年の制作当時もそうだったと思うが、本作に描かれるように、現在の韓国では金持ちと貧しい者は完全に住み分け、貧しい者が金持ちへの階段を上ろうとしても、それは徒労に終わりますよという一種の戒めを巧妙に見せつけるために本作が作られているのだとすれば、それはうまく成功していると言えよう。同じような野心家は『真実』にも登場し、やはり最期は死ぬ運命にあった。貧しいものは金持ちになる夢など描かず、貧しいながらも温かい人間関係の中で充足すればよしとすることは金持ちの論理であって、一度も大金を手にしたことのない貧しい者は、やはり身を起こして経済的にも成功する主人公のドラマが観たいのではないだろうか。そういうドラマをもし韓国が作らないとすれば、完全に少数の金持ちが国を支配する現状を肯定していると見ることも出来る。あるいは、日本と同様、大半の人はそれなりに食うことは出来る世の中であるため、貧民から身を起こしてどうのこうのという物語はもはや時代遅れであると、国民が白け切っているのを見越しているかだ。おそらく後者だろう。そしてそれこそが本当は少数の金持ちが陰でほくそ笑んでいる現実が頑として存在する証拠だ。とはいえ、貧困から身を起こして成功する主人公を描いた『火の鳥』の例もあり、本作は逞しくはあるは、はかない印象をどこか与えるペ・ヨンジュンという俳優の起用を前提として成立しているとみなすことが出来るので、本作のみで韓国の社会的事情を断定するのは無理があるかもしれない。また、終盤における主人公の不治の病と、それをわかって連れ添おうとするシニョンやそのことを許す両親や周囲の人々の設定は、人間の愛をあくまでも肯定的に描き、悪い後味は与えない。同じことは『ラスト・ダンスは私と一緒に』にもあった。そこでは下半身不随になってしまったヒロインは、自分が恋人の足枷になってはならないと判断して身を隠す。それは見方によれば身障者はまともな結婚を望むべきではないと映るが、結果的に恋人に探し当てられて結ばれるという結末を迎え、この『愛と群像』のように、いわば永遠の愛の確信を描くことでドラマは締め括られる。こうして見る限り、どの韓国ドラマも男女の限りない愛の姿を変奏的に描写するのが最大の目的で、その背後にあるさまざまな条件設定から韓国社会事情を読み解こうと考えることは、重箱の隅をつっつくことになりかねないかもしれない。
by uuuzen | 2005-09-03 23:53 | ●鑑賞した韓国ドラマ、映画
●ドサ回りの芝居小屋と見事な松林 >> << ●中古レコード店とコピー製本

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